2003年 6月

――敬称略・逆日付順――



  25日〜22日  20日〜15日  12日〜8日  5日〜1日


6月25日〜22日
2003年06月25日(木) 02:25

池波正太郎さんの文章

発信:砂町文化センター〔鬼平〕熱愛倶楽部
   御台さん

なぜ『鬼平犯科帳』が好きなのか。
私は、司馬遼太郎さんや藤沢周平さんにはない、池波正太郎さんの文章表現が実に巧みだと思います。
とくに『鬼平犯科帳』は、行間に無限のゆたかさがあり、余裕を持った文章力といいましょうか。
たとえば、書き出しで「それは・・・。」そして「泪が出るほどに・・・うれしかったそうである。」「その日の午後に・・・」「その花野の中に、男がひとり」、一見とても簡単でわかりやすい文章ですが、なぜか余韻が残り、女=いい女、食べ物=うまそう、というふうに読者に想像のたのしみを自然に与えてしまいます。
以下、鬼平の中の好きな文章表現を書き出しますと。
「森閑とした山気がただよう道」
「春の微風のごとく」
「戸口からながれ出る灯を背負うようにして」
「青菜に塩のかたちでうなだれる」
「生ぐさい風」
「うす墨を流したような梅雨の夕暮れどき」
「雨戸を冬の風が叩いていた」
「闇に白く、花がひらいていた」
行間に絵のある文章とは、読んでいてさながら映画のシーンを観ているように、情景が目に浮かんできます。
『鬼平犯科帳』がいつまでも多くの読者を惹きつけるのは、私のように、感性でもって文章を鑑賞し、余韻を味わっている読み手も多いと思えるのです。この池波さんのセンスは天性のものだと思います。


管理者:西尾からのレス

御台さんが、いみじくも「映画のシーンを観ているよう」とおっしゃる池波さんの文章は、舞台の台本で鍛えあげた文体なのかもしれません。
引用なさったフレーズが、どの篇のどこにあったか添えていただいていたら、読み手はあらためて、御台さんご推奨の表現がその場面全体にどういう作用を及ぼしているかを自分でも確かめえるのですが。

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2003年06月24日 14:48

『鬼平犯科帳』の長期連載が決まった時期

発信:管理者・西尾のリサーチ報告

 06月08日付で、猪名川さんがエッセイ集3『わが家の夕めし』から、

 はじめは1年の連載で、死を迎えるまでの長谷川平蔵を書いてしまうつもりだったが……

をお引きになりました。
ぼくは、別のどのエッセイかに、2年で終える予定だったと書いてあったのを覚えていたので、1年か2年かを検証するために、背景となっている年を入れてみました。
と、2年目の[密通]から年代が遡っているので、読者の強い要望で長期連載が決まったのは、[むかしの男][霧の七郎][五年目の客]の前後らしいと見えてきました。

[1-4 浅草・御厩河岸]  寛政元年(1789)夏〜秋

■1年目
[1-1 唖の十蔵] 天明7年(1787)春〜秋
[1-2 本所・桜屋敷] 天明8年(1788)小正月
[1-3 血頭の丹兵衛] 天明8年(〃 )10月
[1-5 老盗の夢] 寛政元年(1789)初夏〜暮れ
[1-6 暗剣白梅香] 寛政2年(1790)初春
[1-7 座頭と猿] 寛政2年(〃 )梅雨あけ
[1-8 むかしの女] 寛政2年(〃 )晩夏
[2-1 蛇の眼] 寛政3年(1791)初夏
*村田銕太郎昌敷が寄場奉行?
[2-1 女掏摸お富] 寛政3年(〃 )夏の陽ざし
[2-2 谷中・いろは茶屋] 寛政3年(〃 )梅雨あけ
[2-4 妖盗葵小僧] 寛政3年(〃 )秋〜翌年
[2-5 密偵] 寛政3年(〃 )初冬

■2年目

[2-6 お雪の乳房] 寛政4年(1792)晩秋
[2-7 埋蔵金千両] 寛政4年(〃 )末〜翌春
[3-1 麻布ねずみ坂] 寛政5年(1793)2月上旬
[3-2 盗法秘伝] 寛政5年(〃 )春
[3-3 艶婦の毒] 寛政5年(〃 )春
[3-4 兇剣]  寛政5年(〃 )晩春
[3-5 駿州・宇津谷峠]  寛政5年(〃 )初夏
[3-6 むかしの男] 寛政5年(〃 )初夏
[4-1 霧の七郎] 寛政5年(〃 )梅雨あけ
[4-2 五年目の客]  寛政5年(〃 )秋

■3年目
[4-3 密通] 天明8年(1788)11〜12月
[4-4 血闘] 寛政元年(1789)早春
[4-5 あばたの新助] 寛政6年(1794)春〜初夏
[4-6 おみね徳次郎] 寛政元年(1789)夏〜秋
[4-7 敵] 寛政元年(〃 )晩夏〜秋
[4-8 夜鷹殺し] 寛政元年(〃 )9月〜師走

ついでに、年表をおつくりになっている昭島在住の「おまさの亭主になりたい密偵(いぬ)」さんが、05月11日付で[蛇の眼]は寛政3年の事件ではないか……と提案されました。
こうして配列してみると、ご提案のほうが妥当のようにもおもえてきました。村田銕太郎昌敷が寄場奉行として発令された史実は、池波さんの勘違いということにしてしまいましょうか。

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2003年06月22日(日) 19:31

鬼平の教訓:過去は問わない

発信:管理者・西尾からの1日1話

 これからしばらく、これまでにメディアに発表したものの中から、単行本に入れていない話を小出しにしてみます。


「もし、鈴木さま。お耳をちとお貸しくださりませ」
 長谷川組同心・鈴木某を小声で呼びとめたのは、内藤新宿の隠れ娼妓屋〔胡蝶〕のあるじ、庄助だった。
 長谷川平蔵が組頭に就任する前、鈴木はこの店の常連…とはいっても、役人風をふかせて正規の料金2朱(約2万5000円)の半分以下で遊んでいたのだが。
 平蔵が火盗改メ・本役に就(つ)いた天明8年(1788)からこっち、この3年半というものは、足がすっかり遠のいていた。
 見廻り地区替えで市ケ谷、四谷、千駄が谷、新宿が担当となり、久しぶりに〔胡蝶〕の前を通ったら呼び止められたという次第。
 庄助が鈴木同心をもの陰へみちびいてささやくには、昨日から居つづけている男が、遊び賃として盗品らしい反物3本を預けたのだという。
「あいわかった。適当な口実をもうけて帰らせろ」
 出てきた中間ふうを尾行していくと、なんと、平河天満宮(千代田区平河町1丁目)のはす向い、但馬・豊岡藩の京極高有(1万5000石)の上屋敷のくぐり門へ消えたではないか。
 ことの次第を報告すると、平蔵がいった。
「よくやった、鈴木。ついでだからもうひとはたらきしてくれい。旬日前に、豊岡侯の屋敷と目と鼻の先、麹町6丁目の呉服商〔岩城屋〕へ入った賊が金品を盗んでいった。

『江戸買物独案内』(1824)より麹町の呉服商〔岩城屋〕


そこでだ、その方が尾行した男が親分と仰いでいる者をつきとめてもらいたいのだ」
 18歳の京極高有は、若年寄・京極備前守高久(丹後峰山藩主。1万1000余石)の五男で1年前の寛政3年(1792)春に養子に入ったばかりだった。
 平蔵はその晩、木挽町(こびきちょう)の私邸へ備前守を訪ねて事情を説明し、豊岡侯の中間部屋を監視する許しをもとめた。備前守高久は小説では平蔵の理解者として描かれているが、史実ではこの火盗改メの長官(かしら)のやり方をあまりこころよくは思っていなかった。
 さて、豊岡侯の中間たちを見張っていると、はたして屋敷の南東角に置かれた辻番所へ詰めている勘太が、じつは相模生まれの泥棒の首領…〔鴫立沢(しぎたつさわ)〕の勘兵衛らしい。が、そこが中間部屋とはいえ、大名屋敷へむやみに踏み込むわけにはいかない。一味が仕事に出かけるのを待って捕らえた。
 そのやりようも、京極備前守は気に入らない。平蔵を城中の執務室へ呼びつけ、
「その者が盗人とわかったときに知らせてくれればお払い箱にできたものを。それから捕らえても遅くはなかったのではないのか?」
 帰邸後、鈴木同心に対したときの平蔵はすでに温顔をとり戻していた。
「こたびの気ばたらき、みごとであった。それにつけても馴染みの店は大事にしておくものよな」
 鈴木某が「この長官のためなら…」と思いさだめたことは間ちがいない。

実話です。

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6月20日〜15日
2003年06月20日(金) 18:38

熱烈度クイズは秀

発信:前田Cさん

報告させていただきますと、熱烈度クイズは秀でした。
ダメなところは、やはり史実や地名等です。
自分でも最近ようやく、史実や地名に目が向きはじめていたところで、『江戸名所図会』、御台さまとのやりとりを見せていただき、池波作品はじめ時代・歴史小説を読むことがより楽しくなり、勉強の仕方も勉強になります。


管理者:西尾からのレス

〔鬼平クイズ〕の結果が最高ランクの「秀」……恐れいりました。出題者をしのぐ熱烈度です。
ところで、当HPの〔鬼平クイズ〕は、掲出して2年近くになるのと、マガジンハウスからこれが基になった『鬼平クイズ』が刊行されていること、HPの容量が 100MBを越えそうの3点から、近く退場させる予定です。
なお、御台さんとのやりとりは、当HP「週刊掲示板」のほか、リンク・コーナーから「鬼平犯科帳に魅せられて」へアクセス、その「掲示板」でもご覧になれます。



2003年06月20日(金) 10:13

池波さんvsワープロ

管理者:西尾のひとりごと

20年ほど前から10年間つとめた読売新聞社の映画広告賞の審査会開始前の雑談で、ぼくが「ワープロ」といい、池波さんが情けなそうな目をしたことは6月16日の堀さんあてのレスで告白しました。
そのことに発奮して書いたのが『ワープロ書斎術』(講談社現代新書 初版1985.03.20)です。

現代新書『ワープロ書斎術』(講談社 1985)

冗談めかして〔ワープロフェッサー〕を自称。その後の10年間に18刷と版を重ねました。
『鬼平犯科帳』などに関するデータ蓄積も歴代のワープロを駆使してやりました。

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2003年06月17日(火) 01:46

「板尻」「田近谷」〔鷺原〕について

発信:前田Cさん

こちらのHPでは初めまして。こんばんは。
御台さまのところでお話させていただきました、前田Cです。
楽しく、へぇ〜、はぁ〜、ふーむと読ませていただいております。
盛り沢山の内容とやはり内容が難しいので、すべて見るにはもう少し時間がかかりそうです、が、楽しみがまた増えました!!
私は石川県出身ですが、「板尻」「田近谷」〔鷺原〕と、鬼平で出てきた時に現在の地図では探してもなかった、というところ迄で終わっています。
どういう風に探せばいいのかもあまりわからないのですが、今度帰省する時には、そういう気持ちも持って帰ってきます!
では、とても楽しく見せていただいているご報告まで。
ありがとうございます。


管理者:西尾からのレス

偶然といいますか、前田Cさんの勘の冴えといいますか。文庫巻5[兇賊]に登場する、加賀の国の田近谷村生れの〔鷺原〕の九平にまつわる「田近谷」、その九平を盗人に育てた(?)これまた加賀の板尻生れの吉右衛門。この「田近谷」「板尻」についての堀さんの鋭くユニークな考察がとどいてすぐに、前田Cさんのメッセージ。
これからもお気軽にあそびにいらしてください。
そうそう、堀仮説に対するご意見も、地元出身者代表としてお聞かせいただけると、うれしいな。



2003年06月16日(月) 14:41

石川県の情報 文庫巻5[兇賊]の「田近谷」〔鷺原〕〔板尻〕に
関する迷論

発信:学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラス
   堀 眞治郎さん

この三つの加賀の地名について昨年11月よりいろいろ調べましたが、「田近」を除くとまったく情報がありません。そこで例によって独断と偏見で迷論を創造してみました。「田近」は、吉田東吾博士『大日本地名辞書』(第5巻p114)に記述があり、
「河北郡、今田近村と云ふ。大字深谷に塩類性の冷泉湧出す、隣接して花園村の岸川にも同性の冷泉有り、近年浴場開きたり。神祇史料云、式内加賀郡波自加弥神社は二日市の田近山に在り。(二日市は今花園村に属す)」
また『角川地名大辞典』では、
「田近村(金沢市・津幡町)明治 22-40年の河北郡の自治体名。梨ノ木平山の西麓に位置する。滝下、松根、中尾、上平、琴、琴坂、北千石、南千石、今泉、朝日牧、朝日、榎尾、向山俵原、千杉、鞁筒、四坊高坂、四坊、浅野深谷、浅谷の20ヵ村が合併して成立。旧村名を継承した20大字を編成。村役場を四坊高坂に設置。村名は村内を通る田近往来と当地域を田近18ヵ村と俗称したことによる。(合併誌)明治22年の戸数 336、人口 1,915。山村であるため薪炭の生産やミカンなどの果実栽培を主産業としている。明治40年花園村に合併。20大字は花園村の大字に継承された。この田近往来(道)は北国街道の脇道であり、加賀より越中への最短ルートであった。昨年の NHK大河ドラマ〔利家とまつ〕で天正12年(1584)の前田利家と佐々成政の戦いの前田方の朝日山城、佐々方の一乗寺城はこの田近道に面していたということである。
田近村は明治になってからの村名であるので、池波さんはこれを使用せず、大日本地名辞書の田近山からの連想で、材木川、藤又川が流れていることから、「田近谷」という村名を作られたのであろうと私は想像しました。
〔鷺原〕については、金沢市の地図を眺めていますと、南端に「鴛原」という地名があります。また金沢市の西側には鶴来町があることから、鴛鴦や鶴などが飛来していたと想像され、「鷺」も飛来していたと考えても無理はなく、読みの響きから[鷺原]という地名にしたか? あるいは単なる字の見間違い、思い込みによるのであろうと想像しました。
「板尻」については見間違い、思い込み説が濃厚であろうと思っています。これは上述の鶴来町にある「坂尻」から間違えたのであろうと思います。誰が間違えたのかはノーコメントとします。


管理者:西尾からのレス

「鴛原」→〔鷺原〕
「坂尻」→〔板尻〕
なるほど、ありうる間違いですね。早とちり屋でもある池波さんの見間違いなのか、当時はまだ活字をひろって組んでいましたから、植字屋さんの見間違いなのか。

参謀本部陸地測量部 明治21年製。赤丸印はのちに田近村を構成した字々(あざ)。
画像内 をクリックすると、拡大画面が表示されます。


もし後者だとしたら、池波さんにいってあげたかった、
「ワープロをお使いになれば、間違って活字をひろわれることはありませんよ」
と。いや、20年ほど前。読売新聞社の映画広告賞の審査員をごいっしょにしていたとき、2人とも気ぜわしい質なので、審査開始の30分前には到着していました。
その日。ぼくが早く到着し、社側の人たちと談笑しているところへ池波さんが見え、
「面白そうに、何の話をしているの?」
「あ、ワープロです」
とたんに、池波さんは、
(そんなものをつかっているから、おぬしは文章がうまくならないんだよ)
といった感じの情けなそうな目つきになりました。
いや、日本にまだワープロが3万台ほどしか普及をしていなくて、ぼくのはパナソニックの 298万円+金利のマシーンだったのです。落ち込みましたねえ。
でも、ほんと、ワープロ原稿だと、堀さんに揚げ足をとられることはなかったでしょう。
まあ、第一の罪は、版元の校正者が負うべきですがね。

 わいわい談議〔鷺原〕の九平 ←こちらをクリック



2003年06月15日(日) 17:23

エッセイ集5冊目『作家の四季』
――『寛政重修諸家譜』のこと――

発信:管理者の西尾

『おおげさがきらい』
『わたくしの旅』
『わが家の夕めし』
『新しいもの 古いもの』
につづいて最後の集、第5冊目『作家の四季』が出た。

エッセイ集5冊目『作家の四季』(講談社)

このエッセイ集は、『完本 池波正太郎大成 全30巻 別巻1』を講談社でおまとめになった小島 香さんが、『大成』に収録しきれなかった文章を編まれたものです。
鬼平研究者にとっては、まことにうれしいお仕事と、お礼を申しあげますが、昨年、定年で講談社をお引きになった小島さんは、敏腕で年期の入った編集者らしく、パソコンはおやりにならないから、この感謝の駄文もたぶんお目に触れることはないでしょう。
それはそれとして、『作家の四季』に『鬼平犯科帳』にも関連するこんな文章があります。

  徳川幕府が十四年の歳月をかけて、諸大名と幕臣の家系譜(かけいふ)を編(あ)んだ。〔寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ〕)全九巻を、ようやく手に入れたのは約三十年ほど前だったろう。

エッセイは『オール讀物』の昭和60年のいずれかの号に発表されています。30年ほど前といえば昭和30年か32,3年かも。長谷川伸師が主宰している『大衆文芸』誌に「恩田木工(真田騒動)」や「応仁の乱」を発表しながら、芝居の脚本を書き演出もしていたころです。

  いま新版が出ているが、当時は大正六年発行の栄進舎版の稀覯(きこう)本のみで、値段はたしか二十万円をこえていたとおもう。

ぼくが蔵しているのは池波さんのいう新版のほうで、(株)続群書類従完成会から昭和39年 2月25日の巻1から全23巻と索引4巻が順次刊行されました。

新版『寛政重修諸家譜』で長谷川平蔵家の家譜が収録されているのは巻14。


  手に入れて、見ているうちに、私が心をひかれたのは、四百石の旗本・長谷川平蔵宣以(のぶため)の家譜であった。
  読みすすむうち、長谷川平蔵という人物は私の想像を無限にひろげてくれたし、何としても芝居にしたいとおもった。


池波さんが長谷川平蔵をみつけたとおもえる経緯は、当HPの[井戸掘り人のリポート]の「鬼平が肉づけされた経緯を探る」に記しましていますから、そちらもお読みください。『寛政重修諸家譜』で長谷川平蔵を確認したのでしょう。
同時に、前任者の堀帯刀秀隆の家譜もあたるべきだったとおもいます。そうしたら、彼が 500石ではなく 1,500石の幕臣であったこともわかったはずだし、堀が火盗改メの本役のときに平蔵はその助役をつとめたことも知れたでしょうに、ね。

  おもいもかけず、小説のほうへ身を移すことになり、直木賞を受賞したので、ふたたび、平蔵の小説化をおもいたったわけだが、書けるようになるまでに五年はかかった。
  当時の私の文章は、平蔵を書くのに適していなかったからだ。


直木賞受賞は昭和35年(1960)池波さん37歳、『鬼平犯科帳』の連載開始は昭和43年(1968)からです。

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 鬼平が肉づけされた経緯を探る
 (井戸掘り人のレポート内)       ←こちらをクリック



6月12日〜8日
2003年06月12日(木) 09:29

火盗改メの本役、助役(加役)のこと

発信:西尾のリポート

06月08日付の猪名川さんあてのレスで、『鬼平犯科帳』執筆前に池波さんが読んだ本の中に、松平太郎『江戸時代制度の研究』をあげておきました。
幕府陸軍総裁の息だった著者が、一念発起、私財をなげうって史料をあつめ、まとめた上巻は大正8年(1919)に刊行されました(下巻は原稿が昭和20年5月25日の空襲で焼失、未刊。上巻の復刻 1964(昭和39年)柏書房)

           『江戸時代制度の研究』復刻版

単行本巻3(初刷 1970年11月25日)の「あとがきに代えて」に同書から引用しているところをみると、池波さんはこのころには復刻・新訂版を所有していたといえます。
(当HP[井戸掘り人のリポート]「長谷川伸邸書庫」の写真、東側B列最上段をクリックして拡大すると、『江戸時代制度の研究』の旧版が見えます)。
ただ、火盗改メに本役、助役(加役)があることを同書によって知ったのは、連載開始2年後の1970年前後ではないでしょうか。
と類推するのは、文庫巻4[あばたの新助](『オール讀物』1970年03月号掲載)に本役、助役の担当を暗示する、

  平蔵は、江戸市中を二区に分け、一ヵ月ごとに人名の配置と巡回区域を定めてあった。

『江戸時代制度の研究』は、

  安永二年(1773)十一月巡邏地域の分担を定め、日本橋以北以南の地を区ち……

日本橋以北を本役、以南を助役の分担と記述しているからです。池波さんは当初、助役を無視(不知?)し、以後もずっとその存在には触れませんでした。

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 長谷川伸邸書庫(井戸掘り人のレポート内)←こちらをクリック



2003年06月09日(火) 11:18

長谷川家の家系

発信:居眠り隠居さん

04月09日付の西尾先生の「長谷川家の系図(2)」での、『今川氏家臣団の研究』(2001年 2月20日刊行 清文堂出版)の紹介、ありがとうございました。
脳梗塞のため、禁じられていたPC操作がやっと解禁となりいの一番に開いたこのHPで、長谷川家の家系に関する新史料発見のニュースを知り、さっそく小和田哲夫教授(静岡大学)のご本を取り寄せて読み、驚くとともに感激しました。
静岡市瀬名の中川家古文書発見によって下河邉四郎政義次男・小川次郎左衛門から長谷川藤九郎長重に至る、これまで知られなかった長谷川氏のおよそ 300年におよぶ家系の不明部分がほぼ明らかになりました。
これによって文庫巻3「あとがきに代えて」の、

平蔵の家は、平安時代の鎮守府将軍藤原秀郷のながれをくんでいるとかで、のちに下河辺を名乗り次郎左衛門政宣の代になって、大和国・長谷(初瀬)川に住し、これより長谷川姓を名乗ったそうな。のち藤九郎正長の代になってから、駿河国・田中に住むようになり、このとき、駿河の太守・今川義元に仕えた・…。

も、大筋で正確であることが立証されました。
池波先生も長官(おかしら)もこれでホッとして、いまごろは〔五鉄〕あたりでくつろぎながら一杯やっているのではないでしょうか。ご同慶の至りです。
政平の子に長教の名を記した文献が見あたらない、名前のわからない者が多い、時代が合わない等、まだまだ解明すべき点、今後の研究に待つべき点はありますが、すばらしい発見であったと思います。
以下にこれまで不明であった、正長までの長谷川氏家系を整理して記してみます。ご笑覧ください。

下河邉四郎政義
長男・行幹 後の益戸二郎兵衛尉
母 河越重頼女

初代 小川次郎左衛門政平下河邉四郎政義次男
   建久2年(1191)頼朝公に奉仕、富士之巻狩之節仕候
二代 大膳亮長教 大和国長谷川村ニ住居、其後駿河国志田郡小川(こが
   わ)村ニ住居
三代 不詳 長教より1
四代 不詳  々  2
五代 不詳  々  3
六代 不詳  々  4
七代 小川藤兵衛尉長重 長教より5代、明徳4年(1393)今川上総之介源
   義忠ニ仕え、文明6年(1474)遠江国塩買坂ニおいて戦死
八代 次郎左衛門尉政宣 妻長重女 実父・加納彦右衛門義久
九代 元長 伊賀守
十代 次郎左衛門尉正長 藤九郎 駿河国小川に住し、のち同国田中に移
   り住す。今川義元に仕え、没落ののち東照宮に仕へ奉る。元亀3年
   (1572)三方ヶ原合戦で討死

正長三男・惣次郎:静岡市中川家先祖


管理者:西尾からのレス

ご隠居の執念には、ただただ敬服あるのみ。
中川家については、おなじ静岡市瀬名にお住まいの SBS学苑パルシェ(静岡)の〔鬼平〕クラス・中林正隆さんが取材結果を[井戸掘人のリポート]にお寄せになっていますから、そちらへもアクセスなさってみてください。
一日もはやいご回復を……。

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 長谷川家系図(井戸掘り人のレポート内)←こちらをクリック



2003年06月08日(日) 18:09

ガセ・ネタ……「牛伏」への返信

発信:学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラス
   堀 眞治郎さん

05月23日のこの欄で西尾先生が、文庫巻11[穴]のサブ・キャラクター、〔平野屋〕の番頭でかつての〔馬伏〕の茂兵衛に関連し、「牛伏」が茨城県東茨城郡内原町の字名として存在するとした上で、池波さんがご存じだったとしても、〔帯川〕の源助とは接点がないので、採用しなかったでしょうね、と冗談めかしてお書きになっています。
それでいろいろ調べて、結論が出ました。
私の回答は、いまは京扇の店〔平野屋〕の老主人におさまっている〔帯川〕の源助と「牛伏」の茂兵衛というコンビでもOKです。
もっとも「牛伏」も茨城県のそれではなく、長野県の美ヶ原にある「牛伏山」からの「牛伏」ですが…、〔帯川〕の源助と同じ長野県ということで接点を見つけました。〔帯川〕の源助が長野県下伊那郡阿南町「帯川」の出身としての話ですが……。
池波さんは長野県にはお詳しかったので、牛伏山をご存じだったと思います。
またこの「牛伏山」のとなりには「鹿伏山」もあります。池波さんは、『雲霧仁左衛門』にかっての〔雲霧〕一味でいまは火盗改方の密偵となっている〔鹿伏〕の留次郎を登場させていますね。
「鹿伏」を郵便番号CDで検索したら、

・新潟県佐渡郡愛川町
・兵庫県宍栗郡波賀町
・香川県木田郡三木街

の字名として、また愛知県津島市鹿伏兎町の四つがありました。
山岳名として小生の知っているのでは長野県の鹿伏山と大分県の鹿伏岳ですが、これらの中のいずれかから命名したのでしょう。
ところで、「馬伏」の読み方についてすこし気になっていたのですが、浅羽町HP「くらしのガイド――町の文化――文化財」の「馬伏塚城址」の説明文に、「馬伏塚」の読み方は「まむしづか」「まぶせづか」と両方あるが、いまでは一般的に「まむしづか」と読んでいるとあり、安心しました。
ついでに、郵便番号CDの検索で出てくる愛知県渥美郡渥美町の「馬伏」は「ばぶし」、大阪府門真市の「上馬伏」「下馬伏」の「馬伏」は「まぶし」と読みます。


管理者:西尾からのレス

堀さん。またまた、池波小説の新しいたのしみ方をご提案くださいましたね。
こんな知的な地名遊びが後世に生まれようとは、さすがの池波さんも予想されてはいなかったはず。爽なるかな! 快なるかな!

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6月5日〜1日
2003年06月05日(木) 14:34

鬼平の出生地は?

発信:茜陵学校OB

鬼平ファンとしては超初心者の私ですが、先日、長谷川平蔵の出生地が赤坂であるという事を初めて知りました。果たしてそれは現在のどの辺りになるのか、ぜひ、ご教授下さい。


管理者:西尾からのレス

辰蔵が幕府へ提出した「先祖書」に、平蔵宣以の生地は、「武蔵」とありますから、母親がだれであれ、江戸で生まれたとかんがえていいのでは。
で、当時の、長谷川家の江戸の屋敷といえば赤坂築地……現在の、港区赤坂6−11。
享保10年(1725)は平蔵宣以が生まれる21年前ですが、そのときの江戸大絵図の氷川神社のそばに「ハセ川イ兵」とあるのがそうです。「伊兵衛」は平蔵宣雄が家を継ぐまでの長谷川家で代々受け継がれた名前でした。

享保10年の江戸大絵図(部分)
画像内 をクリックすると、拡大画面が表示されます。

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2003年06月03日(火) 21:46

「鬼平犯科帳」について

発信:森下文化センター〔鬼平〕クラス 御台さん

とても初歩の質問をさせてください。
鬼平犯科帳の「犯科帳」とはどういうものなのですか?
今でも残っているのでしょうか。
池波さんが「鬼平犯科帳」という題名をつけた経緯は?
小説を書くときって、先に題名が決まるのでしょうか。
「浅草・御厩河岸」が最初の作品だとお聞きしましたが、そのときは一話完結の短編のつもりで、鬼平・・・の題名はまだついてなかったのですよね。
そもそも、長谷川平蔵という人物に、鬼の平蔵=鬼平、と名付けたのは池波さんであり、池波さんは名前をつける天才だと思います。
少年時代は、友達のあだ名などをすぐ考えついてしまったのでしょう。
もし、「鬼平」という名前が登場しなかったら、『鬼平犯科帳』という題名もこの世に現れなかったことになり、もし別の題名だったら(○○捕物帳とか)小説のイメージがまた違ったものになったでしょうね。


管理者:西尾からのレス

ぼくは『鬼平犯科帳』を連載したときの『オール讀物』の編集部員ではないので、あくまで類推でしかお答えできませんが……。
池波さんは、昭和42年(1967)に『オール讀物』から4篇の単発短編の依頼を受けました。
[正月四日の客] 02月号  盗賊もの
[坊主雨]    04月号  仇討ちもの
[ごめんよ]   09月号  剣客もの
[浅草・御厩河岸]12月号  盗賊もの
この[浅草・御厩河岸]の原稿を受け取りに池波邸へ行ったのは、入社2年目の花田紀凱さん(のち『週刊文春』の編集長後、退社)でした。
その花田さんの文章があります。

「長谷川平蔵という、ちょっと面白い男がいるんだがねえ」 池波さんが、そう言い出したのは昭和42年の秋だった。「火付盗賊改方の長官でね……人足寄場を作った……」
 火盗改メも人足寄場も初耳だったぼくは、ただ、はあ、はあと頷いてばかりいた。


つまり、池波さんのほうから持ちかけたのですね。それまでに『週刊新潮』64年01月06日号の[江戸怪盗記]、『別冊小説新潮』65年夏号の[白浪看板]に長谷川平蔵をちらっと登場させたのに、どこからも注文がこなかったので、しびれをきらしたのでしょう。
すぐに連載ということになり、新年号に[唖の十蔵]。連載にはシリーズ・タイトルが必要……。

〔本所鬼屋敷〕〔本所の鬼平〕〔本所の銕〕〔鬼平捕物帳〕など、いろいろ出たが、ギリギリになって〔鬼平犯科帳〕に決った。犯科帳という語感が、実に新鮮だった。

そのとき、ひらめいたのは4年前の昭和37年(1962)に出た『犯科帳 長崎奉行の記録』(岩波新書)だったと雑誌『ダカーポ』(2000年12月06日号)で花田さんが告白しています。

『犯科帳 長崎奉行の記録』(岩波新書)

〔犯科帳〕に「鬼平」をくっつけて『鬼平犯科帳』。御台さんのおっしゃるように、『鬼平犯科帳』だからヒットしたのかもしれませんね。
さて昨夏、平岩弓枝さんからおもしろい話を聞きました。長谷川伸師宅へ集まる〔新鷹会〕で、岩波新書の『犯科帳 長崎奉行の記録』が出てすぐ、「これ、おもしろい」と吹聴したのが平岩さんだったと。
「その証拠に、わたしの『御宿かわせみ』の第1話[初春の客]は『犯科帳』がヒントの長崎がらみの話でしょ?」平岩さんはこういって、美しくにっこり。

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2003年06月03日(火) 06:30

岸井左馬之助、秋葉神社詣で

管理者:西尾のリポート

文庫巻3[駿州・宇津谷峠]、京都帰りの浜松で、岸井左馬之助が平蔵へ「二、三日がほどは木村(忠吾)がついておればよいだろう?」

「どこへ行くのか?」
「帰りに寄るつもりでいたのだが……」
「どこへ?」
「秋葉山(あきばさん)へ、さ」
秋葉山は天竜川をさかのぼること十余里。遠江(とおとうみ)の山地が天竜と気田(けた)の二川に別れるところ、森々(しんしん)たる樹木におおわれ、山頂には三尺坊大権現(だいごんげん)と称する秋葉神社と大登山(だいとうざん)・秋葉寺(しゅうようじ)がある。
p215 新装p225

「景色の大へんによいところだと、おれの死んだ父親がいうた」と、左馬之助は出かけた。
 浜松から二股(天竜市)まで左馬之助は天竜川ぞいに10数キロ歩いたろうが、こちらは遠州鉄道の電車で新浜松駅から西鹿島駅まで約35分。 430円。
 左馬之助はさらに天竜川にそって北上、ついで気田川ぞいに山間へ入っていくが、こちらは西鹿島から遠州バス春野町役場行で二股川、気田川ぞいに秋葉神社前へ。50分。 630円。

参謀本部陸地測量部 明治22年製作

画像内 をクリックすると、拡大画面が表示されます。


しかし、バス停の秋葉神社(静岡県周智郡春野町)は、いわゆね下(しも)社で、昭和18年(1943)の山火事で山頂の社殿が焼失したときに仮に立てられたもので、左馬之助の時代にはなかった。
火伏の神社が焼失とは……とのいいようもあろうが、諸家の災いをお引きうけになった、と考えよう。
山頂の本社は平成8年(1996)にいたり、やっと落成。

 下社前

 下社拝殿

下社で駐車場を掃除していた若い禰宜さんに山頂までの所用時間を聞くと、「2時間ですね」。
社務所の中年の禰宜さんは「1時間半」と。若いほうは、白髪まじりの当方をよほどの高齢に見た気配。
3.8キロとあり、歩きはじめた。
麓の栗橋を渡る。浜松からも袋井からも9里(約36キロ)の地点にあるための名とか。すると左馬之助はここで一泊したかな。
登りはきつかった。30°から45°級の坂の連続。途中で何度引き帰えそうとおもったことか。ちょうどおなじ季節のあのとき、岸井左馬之助は48歳だった。こちらはあと1週間で73歳。
鴬が添うように鳴きながらずっとついてきてくれたので、2度と訪れることはなかろうと、渾身の力と汗をふりしぼる。


栗橋。浜松からも見付からも九里なので命名。

 登山道


ついに、楼門に達した。「やったあ!」

 楼門

 拝殿(本堂?)

 火防天狗の像

火防秋葉三尺坊大権現の天狗は、遠江天狗の総帥といわれ、修行のすえに、大阿闍(あじゃ)りとなったと。そういえば登山道に、常夜灯の石柱がいくつも残っていた。
ただ、参詣したのが秋葉神社だったのか秋葉寺だったかは不明。秋葉寺だとしても改めての徒歩参詣はしまい。
[疑問]左馬之助はともかく、池波さんは山頂の社へ参詣したのかな。いや、そのころは焼失再建中だったろう。

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2003年06月01日(日) 13:58

〔間取り〕の万三は、いつ解放された?

発信:おまさの亭主になりたい密偵さん

皆さんのメッセージや先生のレスを見ていると学問的なので、こんなメッセージはいいのでしょうか。
「鬼平犯科帳事件年譜」をつくっていて、文庫巻5[深川・千鳥橋]と同[乞食坊主]から妙なところを見つけました。
[深川・千鳥橋]p27 新装p28で「寛政元年十二月五日の夜ふけ」、己斐の文助が鈴鹿の弥平次に殺されます。
「その翌日の七ッ…」(p31 新装p32)万三が鈴鹿に呼び出され、殺されようとするところを、平蔵が割って入り、お元とともに解放します。
ところが[乞食坊主]では、「十二月三日が来た」(p71 新装p74)とあり、彦十からの情報をもとに古河の富五郎一味の押し込み日を「今夜だ」と推測しますが、「かの大工の万三事件が解決してから二日後にあたる」と。万三は12月 6日に解放され、事件解決のはず。
池波先生は、二日「前」とすべきところを「後」としてしまい、しかも万三が「翌日呼び出されている」ことを忘れてしまったのでしょうか?


管理者:西尾からのレス

旧版も新装版もご指摘のとおりですね。文庫の前には単行本もあることですから、これは「…なりたい密偵」さんのオリジナルな発見かも。
こういうミスって、池波さんの生前に雑誌、書籍、文庫の編集者が発見し、池波さんの了解をとりつけた上で訂正しておくべきことです。
池波さんが亡くなっている現在では、いまのまま行くより仕方がないでしょう。




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