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2003年08月17日(日) 17:56 |
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鬼平の教訓:養子先の思惑
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発信:管理者・西尾からの1日1話
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長谷川平蔵の家禄は 400石だった。
家康のころ、浜松郊外・三方原で数倍する武田勢と戦って戦死した先祖の次男がうけた禄高がそのままつづいた。 200年間、いってみれば昇給なし。
長男がついだ本家は、 1,750石から、のちに断絶した分家へ 300石をわけた。本家の次男には別途に 500石が給された。
特筆すべきは戦死した先祖の三男。つまり平蔵家の祖の弟。11歳で秀忠の小姓に召され、しばしば加増をうけてしめて 4,070石! と渋谷に 8万5000坪の別荘地をもらっている。異例だ。寵童だったとの推察もできなくはない。
長谷川一門でもっとも富裕な家柄なので、つねに一門の養子先として狙われていた。
平蔵の時代…寛政元年(1789)ごろ、ここの 9代目をつぐべき嫡子が夭折(ようせつ)した。
残ったのは女子2人。上は病みがちでとても嫁げそうもない。下は7歳。当主の栄三郎正満(まさみつ)は平蔵よりも一歳年上の45歳だがいちども役職につけないほどの病身だった。名奉行・大岡越前守忠相( 1万石)直系の孫娘だった後妻は出産年齢をとう
にすぎていた。
まわりを見わしたところ長谷川一門には、平蔵の次男で 9歳の銕(てつ)五郎のライヴァルはほとんどいなかったものの、係累の多い大岡家のほうには数人いた。
平蔵はさっそくに根まわしをはじめた。一門の長老で火盗改メをつとめたときに若かった平蔵がその助手のようなことをした本家の当主・太郎兵衛正直(79歳)を説いた。「これまで、あの家へ一門以外から養子に入った者はありません」
言外に、 4,070石をむざむざほかからの血にむしられることはないとにおわせた。
このときの平蔵の論理はいささか滑稽でもある。 4,070石は家についているのであって、それが守られれば血は関係ないというのが当時の考え方だった。
したたかな太郎兵衛は、曽孫2人の顔を思いうかべたがなにぶんにも幼なすぎた。しょうことなく銕五郎の養子入りに賛意をあらわした。
徳川幕臣の次男、三男は養子にいけなければ一生を実家で厄介者として送るのがふつうだった。だから平蔵とすれば、次男・銕五郎の養子口が決まらないかぎり死んでも死にきれなかった。もっとも、そのころの平蔵はピンピンしていて火盗改メの仕事に腕をふるっていたが。
平蔵が次男の養子先として 4,070石の裕福な一族へ白羽の矢を立てたのは、火盗改メの役目を長くつとめればつとめるほど、わが家の資産が激減していくことを予想していたためだ。いや、持ちだしになったもこの役目は立派につとめあげよう、つとめなければならない時代に生きている―との使命感に燃えていたともいえる。
平蔵が 8年間も火盗改メをつとめたため、平蔵家の家計は逼迫の極におちた。
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