2003年 10月

――敬称略・逆日付順――



31日〜26日  25日 15日〜12日  11日〜5日  3日〜2日

10月31日〜26日
2003年10月31日(金)  16:32

同心筆頭・酒井祐助は独身がふさわしい

発信:千葉の辻売り屋さん

10月26日付の管理者さんからのレスで、酒井同心は妻帯者でもあり、独身でもあり……と教わりました。
文庫巻1[座頭と猿]で、彦の市が姿をくらませてから、ふたたび愛宕山下の茶店で茶汲女へ戻ったおそのが、客の気を引いているのをに酒井同心に示し、

「酒井。あの女は、もう座頭のことも死んだ小間物屋ののことも忘れているらしいな。あの色っぽいからだへ、男のにおいがしみつくごとに、あの女は得体の知れぬ生きものとなってゆくのさ。いやどんな女にも、そうしたものが隠されているらしいが……」

と実地教育されるところから推して、酒井同心には独身がふさわしいと思うのですが。


管理者:西尾からのレス

『鬼平犯科帳』の七不思議の一つ……といっていいとおもっているのが、酒井同心が主役になった物語が書かれていないこと。

 沢田小平次:[6-3  剣客][12-6 白蝮]
 小柳安五郎:[8-2  あきれた奴]
 山田市太郎:[3-1  麻布ねずみ坂]
 松永弥四郎:[13-3 夜針の音松]
 木村忠吾: [2-2  谷中・いろは茶屋]
       [2-6  お雪の乳房]、[3-3  艶婦の毒]ほか
 細川峰太郎:[18-1 俄か雨][18-6 草雲雀]
       [20-2 二度あることは]ほか




2003年10月30日(木)  19:14

お詫び

発信:(株)都恋堂(編集プロダクション)
   代表取締役 大場 勝一さん

別冊宝島 904号『「鬼平犯科帳」盗賊のすべて』(2003年10月 宝島社刊)の中に転載いたしました「よしの冊子より長谷川平蔵人物評」の記事中に、資料をご提供いただいた西尾忠久先生のクレジットが脱落しております。
上記の記事はすべて西尾先生の著作物であり、訂正するとともに、掲載の明確な許可なく転載してしまったことで、西尾忠久先生ならびに関係各位に多大なご迷惑をお掛けしたことを、謹んでお詫び申しあげます。

増刷・再版時には、「よしの册子」の出典を、
http://homepage1.nifty.com/shimizumon/
([『鬼平犯科帳』の彩色『江戸名所図会』の「現代語訳よしの册子」より編集転載)
「御仕置例類集」統計リストの出典を、
西尾忠久著『江戸の中間管理職 長谷川平蔵』(文春ネスコ)と明記します。


管理者:西尾からのレス

『よしの册子(ぞうし)』は、鬼平こと長谷川平蔵宣以のファンにとって、貴重な史料ではあります。
しかし、アンチ田沼派として登場した老中首座・松平定信派の目で書かれた長谷川平蔵像であること、しかも、徒目付(かちめつけ)や小人目付(こびとめつけ)といった身分の低い報告者の目でなされた特殊な人物評であることを承知した上で読まないと、偏った受けとり方になってしまいがちです。
とくに、長谷川平蔵は飛び抜けたアイデアマンであったため、幕臣のあいだでも毀誉褒貶がいろいろ分れた人ですから、情報提供者を推理しならが読むべきなのです。
当HPの[現代語訳 よしの册子]への転載申し入れがあったら、こうした注意書きを付することを条件にしたはずです。
クレジットの脱落のことだけでなく、あやまった読み方・受けとめ方をされることを恐れて、無断転載を版元へ抗議した次第です。

 現代語訳 よしの册子←ここをクリック



2003年10月30日  12:11

『鬼平 盗賊のすべて』買ってきました

発信:cさん

先ほど、本屋さんで『鬼平盗賊のすべて』買ってきました。
なぜ校正、転載申し込みがなかったのでしょうか?
また確かに担当者の強い思い入れも感じますだけにとても残念です。
相関図の方は、転載とまではー。
もしかしたらヒントにしたという感じですかね?
私の相関図は、WEB上の公開GIF用に、大きいものをどれだけ軽くできるかを一番気にして作っていますので、紙用ではないです。
まぁ、事前にご連絡いただければ、喜んで、印刷物用として工夫し、版下まで作成しましたのに。
もう少しいいものになったことでしょう、なんてー。


管理者:西尾からのレス

さきほど、下請けの編集プロダクションの責任者が謝罪にきました。
cさんの相関図については、担当の女性編集者kさんから3週間ほど前に以下のような、cさんの連絡先の問い合わせがありました。

また、ひとつ改めてお願いがあります。
私どものほうで「盗賊相関図」を作ろうと調べてきたのですが、やはり先生が取材の時におっしゃっていたC’sさんの相関図以上のいいものに辿り着けず、どうしようか心底困っております。
そこで、C’sさんのつくられた相関図を、お名前やホームページを出典としてご紹介させていただき、転載させていただけないものかと考えております。


cさん製作のあのすばらしい相関図が世間に出れば……とおもって、メールアドレスを教えたのです。
ところが、本には、cさんの名前がない。それで、責任者に事情を確かめました。
「ダウンロードしたところ、タタミ1畳分になったので、収容しきれなかった]
というのです。
「それならそれで、cさんに連絡しないと、先方は待っていたよ、連絡ミスだね」
と抗議しておきました。



2003年10月28日(火)  20:34

春慶寺が日蓮宗の寺とは知らなかった?

発信:学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラス
   堀 眞治郎さん

クラスの先日の四谷史跡めぐりに備えて巻 8[明神の次郎吉]を読み返していて、何か変だなと感じました。
p98で春慶寺の老和尚が宗円を左馬之助へ引き合わせ、

「このお人はな、むかしむかし、わしが京にいて修行をしていたころの知り合いでな……」

の部分です。
クラスですでに春慶寺を訪れたことがあり、日蓮宗の寺と知っている私には、
(何か違う)
と思えたのです。
お坊さんの修行は、宗派の本山で行うのが一般的な常識だと思っており、京都にも日蓮宗のお寺は沢山ありますが、京ではなく、

「甲州の身延山久遠寺で修行をしていたころの知り合いでな……」

となるべきだと考えたのです。
池波先生が春慶寺を左馬之助の寄宿先に選んだのは、鶴屋南北の菩提寺が春慶寺であることを知ったことからだと、[井戸掘り人のリポート]に書かれており、宗派などにはとくに関心はなかったと推測します。
そこで、京で修行していたと書けば、まあ間違いなかろうと思ったのではないでしょうか?
変なところに気づいてにやにやしている読者が現れようとは、さすがの池波先生も予想もしていなかった?
平岩弓枝さんも堂々とやっています。文庫の『五人女捕物くらべ(上)』の花和尚お七の章のp224、

「本名はお七、頭を丸めているから本当ならなんとか尼と呼ぶんだろうが、何故か、花和尚という。名付親はお七の父親で、こっちは本職の坊さんだ。本所の押上村の春慶寺という寺の住職でね。真円というんだ」
「父は、只今、京都の本山の方へ参って居ります」



『五人女捕物くらべ(上)』(講談社文庫)

 フィクションだとしても、実在の寺名をそのまま用いる場合には宗派くらいは調べて、書いて欲しいと思うのは私だけでしょうか?


管理者:西尾からのレス

堀さん、あいかわらず、鋭い。
ご指摘の点、たしかに変といえば変です。尻馬に乗ってさらにいうと、日蓮宗だと、始祖日蓮、『江戸名所図会』の二天尊像を身延山まで背負った日荷、平蔵宣以の日燿のように法号も「日なんとか」となるのではないでしょうか。


六浦妙法日荷上人、(横浜の)称名寺の住僧と戯れに碁を囲み、
かの寺の二天尊を賭物とす。上人勝ちたりければ、つひにこれを負うて
甲州身延山へ至られたりという。大力無双の人なり。


 わいわい談議 岸井左馬之助 ←こちらをクリック

 岸井左馬之助と春慶寺 (井戸掘り人のリポート)←こちらをクリック



2003年10月26日(日)  15:18

酒井祐助が同心筆頭と書かれたのは……

発信:千葉の辻売り屋さん

ときどき掲載される管理者どのの「1日1話」は、どんな史料によるのか、『鬼平犯科帳』に書かれていない秘話が多く、鬼平ファンにはたまらない読み物ですが、 6月28日付の「同心・酒井祐助」について、疑念がありますのでご教示いただけましょうか?
前記「1日1話」によると、酒井祐助は 164話中83話に登場しているそうですが、肩書きが同心筆頭と書かれたのは文庫巻 9[浅草・鳥越橋]p186からです。
それ以前も同心筆頭と思っておいてよろしいでしょうか。


管理者:西尾からのレス

なるほど、巻 9[浅草・鳥越橋]p186 新装p194 では
同心筆頭となっていますね。
文庫巻12[密偵たちの宴]p171 新装180p180でも同心筆頭とあります。
人事異動や昇進があったことは、それまでどこにも書かれていませんから、ぼくたちファンちとしては物語の当初から同心筆頭だったとおもっておいてよろしいのでは。
それより、文庫巻 5[鈍牛]p276新装p290 に、

「酒井。来年は、ぜひとも女房をもらうのだな」
「は……いや、これは……」
「年老った母ごも案じているそうではないか」


とありますから、酒井祐助は独身ですね。ところが、文庫巻 1[本所・桜屋敷]p71 新装p76には、

そのお順……。
役宅内の長屋に住む同心・酒井祐助の妻から〔もらい 乳〕をし、平蔵夫婦が育てている。


酒井同心、ファンとしては独身、妻帯のどっちであった方がよろしいでしょう?

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10月25日
2003年10月25日(土)  21:51

茨城県の神崎村の情報

発信:てらさん

茨城県の神崎村については下記 URLに情報がありますよ。

http://www.town.naka.ibaraki.jp/hp/upload/freepage/KIKAKU/gappei/gappei/


管理者:西尾からのレス

てらさんのご指示のホームページへアクセスしました。
茨城県の那珂郡那珂町に編入されてしまっていて、その村名も残していない「神崎村」は、明治21年(1888)の町村大合併で本米崎村、向山村、横堀村、杉村、堤村が集まって誕生したのですね。
文庫巻 4[あばたの新助]p178 新装p187 に、武州・越ヶ谷まで出張った長谷川平蔵が、〔神崎(こうざき)〕の弥兵衛一味を捕らえたとあります。
この〔神崎〕の弥兵衛、出生地や育ち、年齢などの属性はまったく説明されていません。
ところで那珂町にかつてあった「神崎村」は(こうざき)と呼んだのでしょうか? それとも(かんざき)?
那珂町に編入されてしまった神崎村の命名は、明治21年の大合併前の「石神外宿」に由来しているのでしょうか?「石神」の訓じ方は?

〔神崎〕の弥兵衛のほかに、〔神崎〕を(かんざき)と訓ずる盗賊は、
巻10[蛙の長助]の〔神崎〕の伊之松p61 新装p65
         千葉県市原市の出身?
巻12[二つの顔]の〔神崎〕の倉次郎p238 新装p250
がいます。
ついでですから、「神崎村」を構成した村々を、明治20年の地図で掲示します。

明治20年陸地測量部による「水戸」図部分
本米崎村、石神外宿、向山村、横堀村、杉村、堤村

地図内赤枠の中をクリックすると拡大画像がご覧いただけます

 わいわい談議〔神崎〕の弥兵衛 ←こちらをクリック



10月15日〜12日
2003年10月15日(水) 08:11

続・池波先生の遊びごころ

発信:森下文化センター〔鬼平〕熱愛倶楽部
   おまささん

[鬼火]の西光寺(小石川片町)は架空のお寺さんだったのですかぁ。わたしの亭主の五郎蔵が襲われてあぶなかったところなのに、架空の寺とは知らなかったなぁ。
で、もう一つか二つ、公開できませんか。


管理者:西尾からのレス

先日もいったように、講義ダネですからね。
文庫巻12[いろおとこ]に、〔舟見〕の長兵衛という頭領が登場しているのを覚えていますか。この呼び名の〔舟見〕は、富山県下新川郡宇奈月町の温泉です。
〔舟見〕の長兵衛配下に〔松倉〕の清吉がいますが、富山県には「松倉」が2ヵ所あります。

 魚津市松倉(松倉村が1952年に魚津に合併)
 中新川郡立山町松倉(立山町の成立年は?)

〔松倉〕の清吉がどっちの「松倉」の出身かは決めかねますが、〔舟見〕のとは地縁で結ばれたのでしょう。
池波さんが先祖の出身地・富山県東礪波郡井波町を訪ねた折り、ついでにあたりを探索した結果の命名かも。


1889年(明治22)測量部の地図には、「松倉」は山中にポツンとあるだけ。〔舟見〕の配下の〔松倉〕は、明治時代にあった……ということは、江戸後期にあったこれかも。

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2003年10月14日(火) 21:03

正統派・名越の松右衛門の出身地

発信:千葉の辻売り屋さん

いつも楽しませていただいています。とりわけ鬼平ファンの機関紙のような「わいわい談義」を堪能しています。ほんと、専門紙そこのけの多彩な内容で、ファンとしては随喜の涙で、読む目が曇りっぱなし。
ところで古い話で恐縮ですが、「わいわい談義」の〔名越〕の松右衛門の出身地を、05月23日分では、滋賀県長浜市の「名越」と推理されていますが、文庫17巻[鬼火]p320に小網町の線香問屋・熊野屋作兵衛方へ押し込んで三千数百両を奪った事件について、こう書かれています。

 このとき、熊野屋方の手代と小僧を合わせて四名、名越一味が重傷を負わせたのだ。
「これで、もう、わしの盗めは終りじゃ」
 ついに、掟を破ってしまった名越の松右衛門は、落胆のあまり盗金を残らず配下の者たちへ分けあたえ、ひとり、飄然と故郷の伊勢の国へ姿を隠した。


ということは正統派盗賊・名越の松右衛門の出身地は滋賀の長浜市の名越ではなく、伊勢のどこかになりませんか?


管理者:西尾からのレス

[鬼火]のp320 新装p330は、ご教示のとおりになっていますね。長浜市の「名越」と決めたのは、どうやら、早とちりでした。
CD-ROM「郵便番号」で「ナゴシ」を検索、三重県では、

 鈴鹿市長太新町(スズカシナゴシンマチ)

があるだけでした。ほかには、

 岐阜県各務原市鵜沼真名越町
 滋賀県長浜市名越町
 京都府八幡市下奈良名越
 熊本県下益城郡砥用町名越谷

いずれにしても、別のなんらかの資料をあたるか、「伊勢の国」にお住まいの方からご教示をいただくか、池波さんの記憶間違いとするか、ですね。
これからも「わいわい談義」をご堪能ください。

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2003年10月14日(火) 08:11

池波先生の遊びごころ

発信:森下文化センター〔鬼平〕熱愛倶楽部
   おまささん

[鯉肝のお里]の「鯉」のつくりの「里」から女賊の名前が「お里」……といったような、池波さんの遊びこごろがいろいろ隠されているから探してごらん……といわれても、なかなか探せません。一つ、二つ公開してください。


管理者:西尾からのレス

講義ダネだから、おいそれとは公開できないんだけど、せっかくだから1例を。
池波家の菩提寺が浅草の西光寺(真宗 台東区西浅草 1- 6- 2)なことは、おまささんも熱愛倶楽部の史跡ウォーキングで詣でたからご存じですね。
この西光寺は、『剣客商売』巻1[御老中毒殺]p281 新装p307 にさりげなく登場しているんだけど……。
『鬼平犯科帳』では、おまさ初顔見せの巻4[血闘]で、葛飾区の西光寺(天台宗 四ツ木 1-25- 8)の鐘が鳴るp126 新装p134 のは別として、巻17[鬼火]p98 新装p101 で、小石川片町の西光寺が登場します。架空の寺なので寺号はなんだっていいのに、わざわざ自家の菩提寺の名にしたのは、気がついた読み手が笑うことを池波さんが期待してのことでしょうね。

池波家の菩提寺:浅草の西光寺

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2003年10月12日(日)  09:33

[鯉肝のお里]の名

発信:森下文化センター〔鬼平〕熱愛クラブ
   おまささん

文庫巻 9[鯉肝のお里]のことが話題に出ていますが、きのうの教室で、〔鯉肝〕のお里の名前が「お里」に決まった珍説を聞きました。
池波さんは、題名を「鯉肝の…」と書こうとして、「鯉」のつくりの「里」を書き終えて「お里」という名前をおもいついた、というのです。
『鬼平犯科帳』にはこうした作家の遊びがいろいろあるから探してごらん……とも。


管理者:西尾からのレス

[鯉肝のお里]はそれはそれとして、池波さんから呼び名をつけられた女賊は、

〔猿塚〕のお千代 [5-3  女賊]
〔掻堀〕のおけい [7-4  掻堀のおけい]
〔鯉肝〕のお里  [9-5  鯉肝のお里]
〔珊瑚玉〕のお百 [11-5 密告]
〔砂蟹〕のおけい [12-2 高杉道場・
三羽烏]
〔網虫〕のお吉 [16-2 網虫のお吉]
〔荒神〕のお夏 [23  炎の色]

7人のうちの、〔掻堀〕のおけい、〔砂蟹〕のおけいは呼び名が「か」行で、名前も「か」行から採られているので音読してすわりがいいことはたしか。

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10月11日〜5日
2003年10月11日(土)  22:15

もう一つの西尾隠岐守下屋敷

発信:横浜在住のムーさん

お初です、よろしく。
10月04日の遠州・横須賀藩主の西尾隠岐守下屋敷についての解説、拝読しました。文庫巻 4[敵(かたき)]に出てくる小梅の下屋敷とは別に、南八丁堀5目にあった下屋敷が巻 9[鯉肝のお里]に顔を出しています。

 この夜。
 鯉肝のお里は南八丁堀五丁目にある西尾隠岐守(遠江・横須賀三万五千石)下屋敷の仲間(ちゅうげん)部屋でひらかれている博奕(ばくち)場へ出かけていたのだが、いつまでたってもさっぱりつきがまわってこず、
(今夜は、もうやめにしよう)
 あきらめて、西尾屋敷を出て牛の草橋をわたりかけ、件(くだん)の炬燵やぐら売りを見たのである。
                           
p50 新装p53


管理者:西尾からのレス

ムーさん、ようこそ。ご指摘のとおりです。
ところで、ムーさんによる引用文について、こんな裏エピソードをご存じでしょうか。
南八丁堀にあった西尾隠岐守の下屋敷は「五丁目」ではなく「四丁目」(現・中央区入船1丁目 3あたり)でした。池波さんは、「五丁目」と、なぜ、誤記したか。池波さん愛用の切絵図〔近江屋板〕が誤記していたからです。
近江屋板には南八丁堀「四丁目」がなく、「五丁目」が二つ彫られています。

金吾堂近江屋板「日本橋南芝口迄」(部分)
画像内 をクリックすると、拡大画面が表示されます。

金鱗堂尾張屋板はきちんと「四丁目」ときちんと彫っています。
これからも、遊びにきてください。

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2003年10月09日(木) 19:13

鬼平のことでお願いです

発信:文藝春秋 デジタル制作部 檀原さん

鬼平ウェブ文庫立ち上げ時には、いろいろとアドバイスをいただき、本当にありがとうございました。
鬼平のことで迷ったときに、ご意見をうかがえることは、本当に幸せなことと存じます。
さて、お願いがございます。
『鬼平犯科帳の世界』(文春文庫)を文春ウェブ文庫から電子化したいと考えております。執筆者のお一人として、賛同いただけましょうか。


管理者:西尾からのレス

壇原さん。お仕事、快調のようですね。
電子化の件、賛同いたします。どうぞ、よろしく。

  
1989年 7月臨時増刊号『オール讀物』「鬼平犯科帳の世界」は
  1990年 5月10日に文庫化された。

『鬼平犯科帳の世界』(文春文庫)

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2003年10月09日(木) 12:55

鬼平ミニチュア人形です

発信:ミニチュア人形製作師 細矢千寿子さん(横浜在住)

うさぎの連作をやっているので、鬼平こと長谷川平蔵もうさぎに見立ててみました。でも、これだと兎忠が長官の物真似扮装をしている?


うさぎ見立ての長谷川平蔵


管理者:西尾からのレス

いつでしたか、鎌倉での展示会で拝観しましたね。
いろんな鬼平があって、ファンは楽しみです。こうして写真でまじまじと拝見すると、じつにかわゆい。

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2003年10月08日(水) 08:11

家康の人質時代の近習

発信:管理者・西尾

武田の大軍団を前に、駿州・田中城(藤枝市。当時の呼称は徳一色城)を一族21人と郎党 300余人ともに出た長谷川藤九郎正長兄弟は徳川方の陣営に加わります。
そして徳川軍団の一員として三方ヶ原で戦死しますが、頼っていった徳川方の人物推理する手立ての一つとして、竹千代(家康の幼名)が今川方の人質として駿府にいたときの近習たちの年齢をリストにしてみました。
家康の駿府人質時代に縁のできた人物を頼ったと見るのも一つの仮説かと。

●1549(天文18年):竹千代( 8歳 家康の幼名)駿府へ人質。

小姓(7人) 扈従
平岩七之助親吉( 8歳) 酒井与四郎正親(29歳)
平岩善十郎康重(?6歳) 内藤与三兵衛正次(20歳)
阿部伊予守正勝( 8歳) 上田万五郎元次(57歳)
榊原平七郎忠政( 8歳) 高力与左衛門清長(20歳)
石川与七郎数正( ?歳)
(助四郎)
野々山藤兵衛元政(24歳)
ほか 200人余とも。

参考:今川氏研究会編『駿河の今川氏』第三集所載の酒井貞次氏「私説・今川氏家臣団軍団の研究」(1970年代刊)欠けている人物を補充してください。

ついでに、その2年前の駿府行きの途次、戸田弾正少弼康光の奇計によって織田方へ売られたときの従者も添えました(『徳川実紀』ほか)

●1547(天文16年):竹千代( 6歳) 尾張方・織田信秀へ売られる。

小姓(3人) 遊びの友 護衛
天野三郎兵衛康景
(11歳)
阿部徳千代( 7歳)
(のち伊予守正勝)
石川与七郎数正( ?歳)(助四郎)
平岩七之助親吉
( 6歳)
松平(桜井)与市忠正
( 4歳)
上田万五郎元次(55歳)
榊原平七郎忠政
( 8歳)
金田与三右衛門正房
( ?歳)
江原孫三郎利全など28人
雑兵50余人

もう一つの仮説として、先に徳川陣営に走っていた今川方の武将を調べる必要がありますね。

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2003年10月05日(日) 14:33

調査報告書「小川城」

発信:SBS学苑パルシェ(静岡) 中林正隆さん

11月02日のクラスの史跡めぐりで、長谷川平蔵の先祖・小川(こがわ)長者(法栄長者)が住んでいた焼津市小川城跡を訪ねます。
じつは焼津市総務部市資料編さん室が、発掘のすすんでいる小川城跡の考古資料調査報告書『小川城』をまとめて今冬、市販するとわかったので、事前購入してきました。
第1章 第3節の 5ページが「小川の長谷川氏」にあてられています。
『駿河記』巻16志太郡巻之 3「小川」の項に、

 ○長者屋敷 小川の北に当り、三ヶ名不動院の前、田中 の古土囲あり。
  長谷川次郎左衛門尉正宣の屋敷跡なり。


とあることも記されています。


焼津市総務部市資料編さん室刊の『小川城』
明治22年の地図に、小川城遺跡と徳一色城(田中城の前の城名)の
立地を加(色)筆(上掲書より)



管理者:西尾からのレス

長谷川家祖先の足跡、文庫巻 5[女賊]の〔瀬音〕の小兵衛の仮住まいの場所、巻 6[狐火]の〔瀬戸川〕の源七の通り名のもととなっている瀬戸川などを訪ねる11月02日の史跡めぐりがいよいよ楽しみになってきました。
お蔭で、「小川(こがわ)の法栄長者」の長谷川次郎左衛門尉正宣、田中城主の長谷川正長は、当HPの定番になりましたね。

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2003年10月05日(日) 14:30

塗り絵・田中城

発信:SBS学苑パルシェ(静岡) 下村 章さん

11月02日の宇津谷峠・岡部町・藤枝市(田中城跡ほか)・焼津(小川城跡ほか)の史跡めぐりのご参考に、藤枝市郷土博物館刊(藤枝市若王子 500 蓮華寺池公園内)「駿河国田中城絵図」ほかをお届けします。
「田中城絵図」は、なんと、西尾先生お得意の塗り絵です。


塗り絵の下絵入り「駿河国田中城絵図」封筒


管理者:西尾からのレス

塗り絵「田中城絵図」は畳1畳ほどの大きなもので、ここへ掲出できないのが残念です。
塗り上げたら、なんらかの表現方法でアップさせていただきます。

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10月3日〜2日
2003年10月03日(金) 17:02

京都の寺町にあった平野屋について

発信:ノビーさん

京扇の平野屋は雛問屋ではないのでしょうか?
茂兵衛の前の主の名前は何と言うのでしょうか?
また、何故主が変ったのか等、どんな事でもよいので教えて下さい。すこし関係のあるものです。
よろしくお願いします。


管理者:西尾からのレス

お尋ねの主旨がよくわからないのですが、このHPで話題にしている京扇の〔平野屋〕は、『鬼平犯科帳』の文庫巻11[穴]ほかに登場している江戸の店です。
京都での仕入れ先は、

 一条室町東入ルところの扇子所〔玉風堂・松井栄長〕
                          
p116 新装p121

となっています。この扇子所〔松井栄長〕を池波さんは京都の問屋の広告を集めた『商人買物独案内』の「あうぎの部」から採ったと推測しています。
『商人買物独案内』の〔御扇子調進所・松井栄長〕

また、番頭の茂兵衛は、店主の源助が〔帯川〕の源助を名乗る盗賊の首領だったとき、その配下で〔馬伏〕の茂兵衛と呼ばれていました。それ以前にどの首領の下にいたかの記述はありません。
あまりお役に立てなくて申しわけありません。これにお懲りならないでなんでもお尋ねくださいますよう。

ついでですから、『商人買物独案内』に載っている雛人形の問屋の広告をご参考までに引用しておきます。
『商人買物独案内』所載「雛人形並道具の部」の全広告

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2003年10月03日(金)

『田中藩史譚』

発信:SBS学苑パルシェ(静岡) 杉山幸雄さん

11月02日の藤枝市の田中城跡ほかの訪問にそなえ、『現代語訳 田中藩史譚(たん)』の、関係ページのコピーをお送りします。


池谷盈進著『田中藩史譚 別称 長尾藩史譚 現代語訳注・仲田義正』
(1994年 9月 1日刊 \2,100)



管理者:西尾からのレス

ありがとうございます。
ぼくも、月1で通っている静岡県立図書館でこの私家版を見つけていたところでした。
長谷川正長の前の城主で、桶狭間で戦死した由比美濃守の禄高は 1万3000石だったと、なにかで読みました。
そうすると、美濃守のあとに田中城に入った正長もそれぐいの石高だったのでしょうか。
武田方の大軍を前に城を捨て、一族21名、郎党 300名とともに徳川方へ走った長谷川正長の、徳川家での扱いを知りたいところです。
それと、正長が頼っていった徳川方の武将のことも。正長より先に今川から徳川方についた人物か、家康(竹千代)が駿府の人質になっていたときに従っていた徳川方の誰かと推測しているのですが。



2003年10月02日(木) 14:23

彦十の墓

発信:管理者・西尾のリポート

彦十の墓……もとい、初代:江戸屋猫八師匠の墓を、紅白の彼岸花が咲く雑司が谷霊園で偶然に見つけました。
一種西6号2側――です。
卒塔婆には、平成14年12月?日とありました。命日でしょうか。
猫八師匠の彦十になりきった飄々とした演技ぶりを思い出し、合掌しました。


初代:江戸屋猫八師匠墓

白い彼岸花は、ヒガンバナと近縁のショウキズイセンの雑種とか。




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