2004年 1月

――敬称略・逆日付順――



1月15日  2日


1月15日
2004年01月15日(木)

京都をウォーキング

発信:管理者・西尾のリサーチ

思い立って、成人の日の 1月12日(祝)、京都市内をウォーキングしました。
鬼平と兎忠の宿である津国屋(三条白川橋西入町)から、千本出水七軒町の華光寺(現在の標記:上京区出水六軒町西入ル7番 331)や北野天満宮までの距離を実感してみよう、と思いついたのです。


御宿 津国屋(『商人買物独案内』)



白川橋


白川



津国屋から北野天満宮まで

拡大図をご覧になりたい方は上のボタンをクリックしてください。


津国屋を出て、三条大橋を渡ると高瀬川ぞいに北へ。丸太町通を西。二条城の北をかすめながら千本通へ。ここまででたっぷり 4キロメートル。まあ、鬼平の足なら半刻( 1時間だろう)。
千本通を北上。観音寺と福寿院を東側に見たら向かいの慈眼寺側へ左折。本昌寺、真光寺を過ぎたところが毘沙門天で名高い華光寺。



華光寺山門


本堂 右の鳥居の奥が毘沙門堂



鬼平は墓参といっているが、史実では葬儀のみを頼んだだけで遺骨は江戸へ持ち帰ったから、墓はない。
池波さんは、墓参という口実で鬼平を、ご自分が好きな京都へ置いた物語をつくってみたかったし、『寛政重修諸家譜』に、
「法名日晴。彼地千本の華光寺に葬る」
とあるから、墓があると思いこんだのも当然であろう。

物語にしたがうと、墓参をすませた鬼平は、北野天満宮へ向かい、兎忠と女賊・お豊を見かける。華光寺から天満宮までは 1キロメートルそこそこ。
しかし兎忠とお豊は、東川端四条上ルの〔俵駒〕からだから、どんなに近道をとっても 5キロメートル以上はある。


料亭〔俵駒〕(『商人買物独案内』)


情事を目前にして 5キロメートルも歩くのは、いかなる魂胆によるのか。兎忠との道ならぬ道行きなのだから、長い距離を歩けばそれだけ人目に触れる危険も増す。
しかもお豊は、情事のあと、堀川の東を下り、下立売通りを左折、釜座の自分の店〔柏屋〕まで、鬼平に尾行されながら 3キロメートルほどを歩いて帰るのである。もっと近くの貸し座敷を選べは……と思うが、池波さんとしては、天満宮の裏門を出た紙屋川ぞいの座敷を書きたかったのだろう。


諸色絵具類店〔柏屋〕 小説の住所は隣の〔大和屋〕から借りた釜座になっている


とにかく、釜座下立売までお豊を尾行した鬼平は、また津国屋まで 2.5キロメートルを歩いて帰る。
それにしても、昔の人はよく歩いた。

今回のウォーキングでは、淡交社東京支社 書籍編集部の滝井真智子さんのお手配で入手できた美しい本、蔵田敏明さんの『池波正太郎が歩いた京都』が役立ちました。



蔵田敏明『池波正太郎が歩いた京都』(2002.7.27 淡交社\1,500+税)



1月2日
2004年01月02日  21:45

長谷川家ゆかりの地を訪ねました

発信:居眠り隠居さん

昨年、秋晴れの一日、長谷川家ゆかりの地を3箇所訪ねて来ました。(残念ながら体力、PC技能の貧困で報告が遅れました、すみません。)

(1)佐野市郊外、唐沢山神社
長谷川家の遠い先祖、藤原秀郷公を祭神とする神社。日和もよくて行楽客が多く、神殿に額づく参拝者の姿が多数見られた。秀郷公の子孫である佐野宮司さんは、 7月からロータリー地区ガバナーにご就任、傘下クラブへの公式訪問に精を出されている由で、お会いできませんでした。
神域でマツタケが採れるそうで、一角にマツタケ料理の店があり、芳香が四方に漂い私も「これはたまらぬ」とつい暖簾をくぐってしまいました。安価にして、しかも美味でした。


唐沢山神社


(2)千葉県 山武郡 成東町 寺崎地区
上総国武射郡寺崎の名主、戸村五左衛門のむすめこそが平蔵の実母であるらしいこと、寺崎地区と隣町の片貝が長谷川家の知行地であることことを、当HP[参考データ]と貴著『鬼平犯科帳に恋して候』で知り、訪ねました。最近の寺崎地区には、イチゴ栽培用のビニールハウスが立ちならび、シーズンにはイチゴ狩りの客が大勢訪れるようです。
『成東町史』に、

 寛文 8年長谷川猪兵衛(200)
 享保 2年長谷川恵左衛門(200)
 安永 3年(200)
 寛政 5年長谷川平蔵(200)
 明治元年(222.1664)


と石数が記されています。


寺崎地区


(3)同 山武郡 九十九里町 片貝地区
『九十九里町史』に、山辺郡片貝五郷は

 松平中務少輔領分(190.12)
 本間佐渡守知行所(238.9577)
 同知行所(46.7452)
 長谷川平蔵知行所(217.83)
 小田切土佐守組与力給地(120.65)


とそれぞれの石数が書かれています。
この地には畏友の墓所があり、 2年振りの墓参を果たすことができ、鬼平殿の功徳の賜物と感謝しました。


片貝地区


管理者:西尾からのレス

あ、遠出がおできになるほど、体力・気力が充実してきたのですね。大慶、大慶。
寺崎の庄屋・戸村家のむすめが銕三郎のちの平蔵宣以を産んだかどうかは、風説としてはありますが、なにせ、戸村家が古文書を、明治後、果樹園の実を守る紙袋として使ってしまったので、史実としては確認できないと、調べてくださった成東町の文化財・長谷川委員長(当時)が結論されました。




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