2004年 3月

――敬称略・逆日付順――



3月29〜28日@26日  18日  11日〜8日


3月29〜28日
2004年03月29日(月)

佐藤雅美さんも長谷川平蔵を……

発信:管理者の西尾から

江戸期の経済・金銭事情をえがいて独自の境地をつくりだしている作家・佐藤雅美さんの『百助嘘八百物語』が講談社文庫になりました。


『百助嘘八百物語』(講談社文庫 \590)

中の[初めての恋]という章で、長谷川平蔵の銭相場について触れられます。
石川島に人足寄場を建設した平蔵、初年度につけられた予算 500両と米 500俵が 2年目には 300両に減額されます。そこで物価を引き下げるためと称して、幕府の金庫蔵から3000両借り出して銭を買います。下落している銭のレート……1両につき6200文(小説では6300文)……を上げるのが目的でした。
その上で、北町奉行所に両替商たちを呼び出し、北町奉行の初鹿野河内守信興(1200石。47歳)同席のもとに、銭のレートを上げるように申しわたしました。
銭の相場が1両=5300文まで上がったところで、買い置いた銭を売り払って差益を 400両ほど得たものを人足寄場の費用とし、元金の3000両を幕府へ返したのです。

(この顛末は、当HPの[現代語訳 よしの册子]第12回に掲出しているので、そちらをどうぞ)。

結果として老中首座・松平定信は、ことあるごとに平蔵を「山師呼ばわり」することになった、と佐藤さんは書いています。

うーん、定信が平蔵を「山師呼ばわり」するようになったのは、銭相場以前からで、定信方が放った隠密からの報告「よしの册子」によるとおもいますが……。
それにしても、江戸経済通の佐藤雅美さんとすれば、平蔵のやった銭相場の事実は無視できなかったのでしょうね。

 [現代語訳 よしの册子]第12回 ←こちらをクリック



2004年03月28日(日)  11:57

「波津」発見

発信:相州藤沢宿の秋山大兵衛さん

相良(さがら)藩1万石、田沼意次の領地を静岡県の地図で探していました。
「相良」には港があるということで海岸線をたどり、無事「相良」を見つけました。
「相良」の周辺を見ていると、気になる地名が……。
「波津」です。ビックリ、ドッキリ。
「波津(はつ)」って、たしか、鬼平の義母の名前でしたよね。
池波先生が田沼意次を調べていたときに、この地名を知って、義母の名前として使ったのでしょうか。


駿河湾に面した「相良町」と「波津」


管理者:西尾からのレス

これは一大発見といえるかも。
継母「波津」は早々と、文庫巻1[本所・桜屋敷]p57、新装p60に登場します。『オール讀物』1968年2月号、連載2話目です。

池波さんはいつごろ「波津」に目をつけたか?
推理その1 長谷川平蔵に着目した――すなわち『鬼平犯科帳』執筆の10年ほど前につくったとおもわれるノート[・長谷川平蔵年譜 ・基メモA]に、長谷川伸師の書庫の『寛政重修諸家譜』をあわただしく写したとしかおもえない、誤解と想像をまじえた家譜が残っています。
『寛政譜』は原則として女子の名前は記さないのに、この池波製家譜では、「波津」と名づけされているのです。


ノ−ト長谷川平蔵年譜の表紙


池波さんによる長谷川家家譜の模写(部分)
宣雄が実父・宣有の弟の位置にあり、
波津は実兄・宣尹(のぶただ)の妹



史実による家譜(部分) 宣尹の従兄弟だった宣雄は、
宣尹の実妹の波津と結婚した形で養子となった。


ということは、池波さんが相良町の波津を知ったのは、ノート[平蔵年譜]をつくったころともおもえます。

推理その2 池波さんが座右に置いていつも参考にしていた、静岡県が載っている吉田東伍『大日本地名辞書 巻5』(明治35年刊)には、

飯津(はつ) 今相良町大字波津(はつ)、延喜式、榛原飯津佐和乃神社は、波津の牛頭天王なるべしと云ふ。(神祇志料)

ルビを(はず)でなく(はつ)としているのは、吉田博士が机上の調べただけで現地調査をしていなかったともかんがえられます。
『角川日本地名大辞典 22静岡県』(昭和57年刊)は、

はず 波津(相良町) 牧ノ原台地の東南、駿河湾に注ぐ勝間田川河口右岸に位置する。地名の由来は船の泊所(はつるところ)にあるという。縄文時代の波津ノ谷遺跡……(略)……などがある。

(はず)としていますね。「牧ノ原」は、白羽牛、相良牛の官牧場があったための呼称です。
つづく解説文に、ここが元禄のころに田中藩領であったこともあると。そして天領から田沼意次の相良藩領へ属した当初は 1万2000石のうちの 322石の村だったとも。

検証その1 相良町役場の総務課は、「波津」は「はず」と読むのだと。つまり、池波さんが現地へ取材に行っていたら、「はつ」でなく「はず」とルビをふったかも。地図や『地名辞書』だけの探索なら「はつ」とふる可能性が高いですね。

検証その2 「郵便番号CD−ROM」で「波津」を検索してみました。

静岡県 榛原郡 相良町 波津
福岡県 遠賀郡 岡垣町 波津
沖縄県 中頭郡 西原町 小波津

やはり、地図や『地名辞書』で相良町を調べていたときの発見と見るべきですね。

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3月26日
2004年03月25日(木)

武田信玄に使えた長谷川能長

発信:管理者・西尾からのコメント

2003年10月05日の本欄へSBS学苑パルシェ(静岡)の[鬼平]クラスの中林正隆さんが、焼津市総務部市資料編さん室による小川城跡の考古資料調査報告書『小川城』についてリポートなさっています。


焼津市総務部市資料編さん室の報告書『小川城』

同報告書を精読していて、驚くべき記述に出会いました。長谷川平蔵の先祖で、武田方に攻められた今川方の田中城(藤枝)城主だった紀伊守正長は、城を捨てて徳川方へ走り、のち弟藤九郎ともども三方ヶ原で戦死したことは『寛政重修諸家譜』にあります。
ところが、正長の兄弟なのか伯父あるいは従兄弟か甥か不明ですが、長谷川次郎左衛門尉能長というのが焼津市越後島に住んでいて武田の家臣になり、信玄から永地(相伝の所領)を安堵されているとあります(「武田晴信判物」反町十郎文書)。
この能長の子孫が江戸時代、越前福井松平氏の家臣となっていることが、同藩「諸士先祖之記」に記されているともあります。
家名存続のための戦国時代の知恵でしょうか。

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3月18日
2004年03月18日(木)

島田宿の参考資料

発信:SBS学苑パルシェ〔鬼平〕クラス 杉山幸雄さん

5月に予定されている島田史跡ウォーキングのご参考に、島田市博物館(河原 1- 5-50)で求めた、島田市教育委員会刊行の2冊の資料を紹介します。

1.『島田宿と大井川』(平成4年刊。平成14年再版)
江戸期の宿の構成のほか、刀鍛冶、文人たち、神社とまつりなどを多数の図版入りで解説。 140ページ。


『島田宿と大井川』の表紙

2.『大井川の川越し』(平成4年刊。平成14年再版)
江戸期の川越制度の組織や越立の種類、蓮台越しのほか、広重などによる浮世絵を収録。 140ページ。


『大井川の川越し』の表紙



3月11日〜8日
2004年03月11日(水)

鬼平の生母の戒名

発信:管理者・西尾からのコメント

03.11の[お気軽 書き込み帳]へジパング倶楽部の山本さんが書き込んでいらっしゃる長谷川平蔵宣以(鬼平)の生母の戒名について、ジパング倶楽部のクラスで配付したデータは下記のとおりです。

長谷川平蔵の継母(小説では、波津)は、菩提寺「戒行寺」の過去帳によると、

寛延3年(1750)年7月15日歿 戒名:秋教院妙精日進

となっています。
この時、平蔵は、

延享3年(1746)生まれで5歳。

平蔵の生母の歿年は、

寛政7年(1795)5月6日戒名:興徳院殿妙雲日省大姉

 この時、平蔵は、50歳。この4日後、

寛政7年(1795)5月10日歿
           戒名:海雲院殿光遠日曜居士


 平蔵の実父:宣雄(備中守)の歿年は、

安永2年(1773)6月12日
           戒名:泰雲院殿夏山日晴大居士


 この時、平蔵は、28歳。
平蔵の息:辰蔵(山城守)の歿年は、

天保7年(1836)2月26日
          戒名:興雲院殿見竜日冫占大居士

★ヒント
実父:宣雄が従五位下、備中守に任じられたのは、

安永元年(1772)11月15日(当日、京都西町奉行拝命)

平蔵が布衣(従六位相当)に任じられたのは、

天明4年(1784)12月16日(この 8日前西城徒士頭拝命

息:辰蔵が従五位下、山城守に任じられたのは(57歳)

文政9年(1826)12月16日(同年4月3日より西城小納 頭取を拝命)

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2004年03月08日(月)

日本左衛門の遺品

発信:管理者の西尾

03月08日、静岡の[鬼平]クラスで講義のあと、 5月の島田市ウォーキング・コースの確認のために島田市へ宿泊。夕食をとりに立ち寄った店で、日本左衛門がお礼に置いていったという鎗の穂先を所有者のご仁と同席しました。
日本左衛門といえば『おとこの秘図』(新潮文庫)ですよね。で、翌朝、そのご仁の宅を訪ね、実物を拝観。


日本左衛門がつくらせたという、島田の刀匠・義助の銘を刻印した鎗先






おとこの秘図、上、中、下巻(新潮文庫刊)




5日



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