2004年 6月

――敬称略・逆日付順――


 6月27日  24日  17日  7日  2日


6月27日
2004年06月27日(日)  22:32

「性信坊」の横曽根について

発信:学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラス
   堀 眞治郎さん

親鸞の弟子の「性信坊」の出身地について、私の持っている昭文社発行の日本地図帳(昭和60年 9月 第 9刷)によれば、茨城県水街道市に横曽根があります。また「ぽすたるガイド」では水街道市に横曽根新田町というのがあります。
先生がお探しの横曽根かどうかは判りませんが、ご参考までに。


管理者:西尾からのレス

堀さん。いつも変わらぬ素早いリサーチ、ありがとうございます。
水街道(みずかいどう)市だと、『日本人名大辞典』(平凡社)にあった「下総横曽根」の「下総」ではないんじゃないかな……とおもいながら、「そうだ、本法寺さんが親しいとおっしゃっている、台東区東上野の報恩寺へ問い合わせればいいんだ」と、あつかましく電話を入れました。(『江戸名所図会』に所載の現存している寺社の住所と電話番号は7年かけてすべてリスト化しているのです)。
結果は、堀さんのリポートどおり、

 水海道市 豊岡町 丙1586-1

とのご返事をいただきました。
で、この件は早々と落着。インターネットの威力をまざまざと実感しました。
あとは、機会をつくって水街道市の聞光寺にお参りするだけですな。



2004年06月27日(日)

性信坊について

発信:文京区小日向 1- 4-15 本法寺さん

6月22日の[週刊掲示板]で紹介されていた性信坊について、一言させていただきます。

性信坊はなんといっても親鸞聖人の一番弟子、知恵第一の性信坊という言い方で、真宗のお寺の寺族のものは耳慣れております。

京都の法蔵館という仏教書を専門に扱っているところから出ています、真宗新辞典(昭和58年第1版)というものがございまして、それで「性信」で引きますと、以下のような説明が書かれております。ご存知のことばかりと思いますが、一応書き写してみます。

しょうしん 性信 文治3年(1187)〜建治元年(1275)(89)。二十四輩の第1。坂東報恩寺の開基。寺伝によると、大中臣与四郎と称し、常陸鹿島郡の人。18歳で法然の弟子となり、親鸞に師事し、のち下総横曽根に住して報恩寺を創建したという。親鸞の高弟として高田門徒に次ぐ横曽根門徒の中心であり、建長の念仏弾圧には関東の門弟を代表して幕府での訴訟処理にあたった。
親鸞の消息によると、善鸞から「念仏者のものにこころえぬは性信坊のとが」と幕府に訴えられたので、性信は法廷で「念仏まふさん人々は、わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家の御ため国民のために念仏」すると主張した。
親鸞はこの処置を賞賛している.東本願寺に蔵する親鸞自筆の教行信証(坂東本)は弘安6年に性信から明性に譲るとの奥書があり,報恩寺に伝来された。


報恩寺さんとは私の知る限り拙寺の先代から親しくさせていただいておりました。ところが坂東性純さんとおっしゃる何代目になられるのか、ご住職が今年お亡くなりになられまして、奥様だけになられてしまわれました。うちの住職が通夜見舞いに伺ったとき、玄関に(多分)彩色されていない江戸名所図会が飾られていたようです。


管理者:西尾からのレス

本法寺さん、ご教示、ありがとうございました。
ご解説の中に、

「本中臣与四郎と称し、常陸鹿島郡の人。18歳で法然の弟子となり、親鸞に師事し、のち下総横曽根に住して報恩寺を創建」

とあります
『日本人名大辞典』(平凡社 1937.10.22)には、

「鹿島に生まれたが、性兇暴であったので悪五郎と綽名された」「然るに年18にして法然の弟子となり、のち親鸞に常随した」
親鸞が稲田を去って京へ帰洛したので、
「下総横曽根に帰り、報恩寺を建立」


とあります。
この報恩寺は、のちに東京都台東区東上野6丁目へ移転したことは[週刊掲示板]に記載されています。
横曽根の報恩寺の旧址には、聞光寺が建てられたといいますから、聞光寺のある町がかつての横曽根でなんでしょうね。下総のどのあたりでしょう。



6月24日
2004年06月23日(水)

朝日新聞「デジまん」

発信:管理者・西尾からの遅すぎる報告―――

テレくさかったので、きょうまでアップしませんでしたが、やっぱり記録に残しておくべきだと判断しましたので。
じつをいうと、この4月17日(土)、朝日新聞 be 青版(ビジネス版)の新設コラム「デジまん」に紹介されました。


図版:朝日新聞 be 青版 4月17日(土)「デジまん」
   画面をクリックで拡大


この記事による当HPへの当座のアクセス増は約 4,500件、定着した鬼平ファンは 1,000人と推定されます。



2004年06月22日(火)

性信坊に出会えた

発信:管理者・西尾から―――

『江戸名所図会』に、江戸にまつわる故事として、「健長2年(1250)秋、性信坊夢想によって、みづからの過去生の枯骨の所在をしり、奥州信夫郡土湯山に至る。性信坊、猟者が持つところの弓箭をとって石上に投ずれば、その箭(や)おのれと発し、一つの鹿を射たり。師すなわちこれをあたふ。猟人驚いてただちに松下を穿ちすでにして枯骨を得る」という1枚の絵があります。
奥州信夫郡土湯山の話がなぜ江戸に? と思っていたら、丹羽文雄『親鸞(三)』(新潮文庫)に、稲田(茨城県笠間市)の草庵の項(p397 )に、親鸞の弟子の一人として性信坊の名が登場。
「親鸞上人24輩」といって、親鸞の有力門徒24人の旧跡寺院をまわる信心行事があり、その第一が性信坊の報恩寺(台東区東上野 6-13-13)なのだそうです。


性信坊夢想(『江戸名所図会』)


報恩寺(『江戸名所図会』)



6月17日
2004年06月17日(木)

吉川英治さんの[応仁の乱]評

発信:管理者の西尾―――

[錯乱]が第43回(昭和35年上半期)直木賞を受賞したときの『オール讀物』10月特大号に掲載された、各審査員の評は、文春のDさんのお手配により、すでに抜粋して掲げました。
その中で、吉川英治さんの、

池波正太郎氏にたいする私の考えはこの前の「応仁の乱」のときの寸評で私はかなり言ってある。こんどの「錯乱」についてもあれと同じことをくり返すのみである。

との文言が気になったもので、再度、Dさんをわずらわせました。申しわけありませんでした。
[応仁の乱]は、第40回の直木賞候補となった作品です。このときに受賞したのは、

 城山三郎 [総会屋錦城]
 多岐川恭 [落ちる]


でした。
[応仁の乱]は落選。
ところで、吉川英治さんの池波さんへの助言は――

池波正太郎氏の題材負けはどうしたものか。むしろ東山時代の庭作りの眼だけにあれを凝縮させて、善阿弥、芸阿弥、相阿弥などの系譜をつらぬいたものとしたらなおまとまっていたろうと思う。

と、短いものでした。構成のことをいっておられるのですね。
ついでに。
[応仁の乱]は『賊将』(新潮文庫)に収録。
[錯乱]は『真田騒動―恩田木工』(新潮文庫)に収録。

 わいわい談義 池波正太郎 ←こちらをクリック



2004年06月17日(木)

丹羽文雄『親鸞』(新潮文庫)

発信:管理者の西尾―――

丹羽文雄さんの『親鸞』に圧倒されたので、どれぐらい読まれたかを知りたくなって、版元・文庫部のMさんへ問い合わせてみました。

  第1巻 11刷  計10.3万
  第2巻 6刷  〃 7.5万
  第3巻 5刷  〃 6.5万
  第4巻 4刷  〃 6  万
  
(いずれも平成6年6月に絶版となった)

とのこと。

ぼくが所有しているのは、

  第1巻 初刷 昭和56年(1981)9月25日
      6刷 〃 59年(1984)7月15日
  第2巻 初刷 同上
      3刷 昭和59年(1984)5月20日
  第3巻 初刷 昭和56年(1981)10月25日
      2刷 昭和59年(1984)8月30日
  第4巻 初刷 昭和56年(1981)10月25日


ですから、1984年ごろ、思いついて購入したのですね。
そのころは、池波家の宗旨が浄土真宗とは気づいていなかったのですが、無言の啓示でも受けたのでしょうか。



2004年06月16日(木)

吉川英治『親鸞』

発信:管理者の西尾―――

丹羽文雄『親鸞』を読んでいることを 5月 7日の当欄で報告しました。
これに関連して熱愛倶楽部〔田無の弱法師〕さんから、
「吉川親鸞に登場している玉日姫、丹羽親鸞にも描かれていますか?」
とのお尋ね。
登場しなかったようにおもったので、
「玉日姫とは、何者?」
で、吉川英治『親鸞』(吉川英治歴史時代文庫 講談社)の3巻を購入してきました。

    
吉川英治『親鸞』(吉川英治歴史時代文庫)

「大正期宗教文学の正嫡」と題した同文庫の解説で紅野敏郎早大教授が、

倉田百三の「出家とその弟子」、吉川英治の「親鸞」、丹羽文雄の「親鸞」、これでもう親鸞を描く作家はあるいは出て来ないかもしれない。いくら発想、角度、視点を変えてみても、この三作のなかにほとんど出つくしているといってよい。

とまで極言。
たしかに、吉川『親鸞』の重畳たる起伏と結構、丹羽『親鸞』の小説的技巧を排した宗論調・エッセイ風……極端から極端ではあります。
聖徳太子廟で親鸞に斬りかかる弁円の腕へ武者ぶりつき、あわやのところで親鸞の命を救った黒犬のくだりで、
「あ、これは、本門寺の石段で平蔵が命拾いしたのと同じ仕掛けではないか。池波さんは吉川『親鸞』を読んでいるんだ」
と合点しました。
直木賞受賞時の吉川英治さんの審査評がよほど嬉しかったせいかもしれませんね。

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6月7日
2004年06月05日(土)

[錯乱]の審査員評

発信:文藝春秋 デジタル制作部 檀原さん

ご依頼いただいた、池波さんの[錯乱]が第43回(昭和35年上半期)直木賞を受賞したときの審査員評の載った『オール讀物』10月特大号の当該ページをお送りします。
(西尾注:著作権のこともからむので、掲載は抜粋にさせていただきます)


審査員:吉川英治、大佛次郎、川口松太郎、小島政二郎、木々高太郎、海音寺潮五郎、中山義秀、村上元三、源氏鶏太(敬称略)

源氏鶏太 「錯乱」は、授賞作品だが、この人の過去に、もっといい作品があった。一種の努力賞であろう。
(西尾注:源氏さんがいわれる「過去のもっといい作品」というと、候補になったが受賞を逸した「恩田木工」「眼」「信濃大名記」「応仁の乱」「秘図」の中のどれかのことでしょうか)

小島政二郎 この作家は随分長いこと真田家ととッ組んできた。「信濃大名記」以来だ。「大坂の陣」「上田城にて」「青磁の碗」を経て、主人公信之も年を取った。「錯乱」では九十三になっている。
「信濃大名記」は、小野のお通に恋慕する若い信之が描かれている。続いてこの作者は「恩田木工」を書いた。この「木工」も真田の家来である。
入れ替り立ち替り真田家に取っ付いて離れなかったこの作者の執念を私は徒(あだ)や疎(おろそ)かに思いたくない。この際私の老婆心をいわせてもらえば、当分小説以外の物――例えば、戯曲などに手を出さずに、小説ばかりに専念してもらいたい。
このことが何を意味するか、私が何をいおうとしているのか分ってくれると思う。大事なのはこのことだ。

川口松太郎 直木賞の受賞作家が其の後の活動不活発で、存在のはっきりしなくなるのは何とも淋しい。
直木賞の目的は賞を与える事にあるのではなく、後進作家の育成が重点なのだ。その意味で今回は池波正太郎君の作品にたくましい意欲を感じ、最も強力に「錯乱」を押した。委員諸氏の中には強硬の反対もあり、「錯乱」の構成には幾分の乱れもあって、折角の好材料を安手に仕上げた恨みもあるのだが、大衆小説の本道にしがみついて喰い下る執拗な態度には消えて行かない作家と思う安心感があった。直木賞は受賞作品を厳格に審査する場合と、有望な作家にチャンスを与える場合の二つがあってよいのだと思う。
(中略)彼に直木賞を与えれば作家的自信を生み、大成する機会を与え、傑作を作り出す機縁になると私は信ずる。作家を一人作るという意味で「錯乱」反対の委員諸氏も池波君の今後を見守って頂きたく、池波君も奮起して我等の期待に応えてほしいと思う。

木々高太郎 池波正太郎という作家は僕の好きな作家の一人で、もう五回か六回の候補であれば、その都度僕はこの作家を注目するという選評をかいた筈であるから、今回の受賞はよかったと思うが、今回の作品「錯乱」が必ずしもよい作品とは思わないので、努力賞の形になったのは不満である。
選考委員を長年やっているので人情が出ることに起因すると考えれば、やがて委員の交替をするという考えに賛成である。

大佛次郎 私は「錯乱」にも不満は残るが、質実な努力を重ねて来たのを買いたい。

村上元三 「錯乱」は、整理が足りなかったし、真田信之という人物を主人公に書くべきだったと思うが、これまで五回も直木賞候補になった実力は、受賞に値する。

吉川英治 池波正太郎氏のたいする私の考えはこの前の「応仁の乱」のときの寸評で私はかなり言ってある。こんどの「錯乱」についてもあれと同じことをくり返すのみである。
私ならこれを百枚前後の中篇などにはしない。いや、とても中篇などにはまとめきれない。それを巧妙に池波氏はまとめ上げる。このまとめ方の中に無理があり上手過ぎるきらいがありいくらでも短所をあげればあげられる。自重していただきたい。
そして私もさんざんやってきたことではあるが、せっかくの才を余り才走らず周囲の重宝にばかりならず大切につかってもらいたい。自愛ということがどうも氏の作風にも人間的若さにもいまがいちばん大事のように思われる。

海音寺潮五郎 作者も読者もウソばなしと知りながら楽しむ小説がある。ウソを感じさせてはならない小説がある。その点この小説(注:「錯乱」)は中途半端である。作者はリアルに書こうリアルに書こうと努力しているが、この話ではどうにもならないと、ぼくは見た。つまり、ぼくは全然買わなかった。(中略)
前回に候補作品となった「応仁の乱」でもその感があったのだが、この作家には小説というものがまだよくわかっていないらしいと思った。やたらに話の変化をもとめているところに、文章力の弱さ、気魄の不足があると見た。(後略)

中山義秀 候補作品を、一応全部読みとおした。(中略)読んでとくした作品はなかったし、すがすがしい感じもえられなかった。(後略)


管理者:西尾からのレス

ありがとうございました。これで、年来の宿願の一つが片づきました。候補者の中に、黒岩重吾、水上勉、佐野洋といった強敵がいらっしゃったのですね。いやはや。
「応仁の乱」が候補作となったときの、吉川英治さんの選評を読んでみたくなりました。

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2004年06月04日(金)  00:22

『ダカーポ』、超ラッキー!

発信:学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラス
   兎忠さん

『ダカーポ』、見ました!
府中をウォーキングしたときの写真ですね。
学習院クラスは、マスコミ関係初登場かしら?
私ときたら、いつもはたいてい最後尾を歩いてるのに、珍しく先頭に出ていたために写り、超ラッキー! 早速、友達に自慢できそう!
同じく先頭集団に写っている町娘さんは、もうすでに昨日買って、家中大騒ぎみたい。すごく喜んでました。
記録写真係の国光さんも、写真がこうしてマスコミに登場したのだから嬉しいでしょうね。
学習院の事務局もたいへんなPRになって……ね。


管理者:西尾からのレス

これからも、先頭集団で歩くんですな。2度あることは3度あるといいます。



6月2日
2004年06月02日(水)

鬼平ウォーキングが『ダカーポ』に

発信:管理者の西尾から―――

6月2日発売の『ダカーポ』(6/16号)が第2特集で「地図・地図本と散歩を楽しむ」を組み、〔鬼平〕クラスの代表として学習院生涯学習センターをピックアップしています。80ページです、書店やキオスクで立ち読み--じゃなく、「立ち見」をおすすめ。


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