2004年 7月

――敬称略・逆日付順――


7月30日  23日  12日  5日


7月30日
2004年07月27日(火)

白い木槿(むくげ)が花ざかり

発信:管理者の西尾から―――

マンションの西北角に、木槿(むくげ)が白い花を咲かせています。
当HPの[有朋(UFO)]コーナーの「ガーデニング・スペシャリスト村上孝子の花写真館」の主…村上さんが植えた木槿です。
晩夏から秋口へかけての花なのに酷暑のせいか、ことしは開花がすこし早いようです。


いまがさかりの白い木槿

或朝。居間の庭に咲いている木槿(むくげ)の花を眺めつつ、長谷川平蔵が茶を喫していると……。
(文庫巻4[おみね徳次郎]p234 新装p245 )


役宅の内庭の木槿も、早ばやと鬼平の目を引きつけているのでしょうか。

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2004年07月26日(月)

〔寝牛〕の鍋蔵

発信:管理者の西尾から―――

[お気軽 書き込み帳]No.75堀 眞治郎さんの「レスが大変遅くなりましたが」で、文庫巻5[乞食坊主]に登場する盗人、〔古河〕の富五郎一味の〔寝牛〕の鍋蔵の「通り名」……〔寝牛〕探索の経緯が語られました。
これについて、文庫巻3[艶婦の毒]で、木村忠吾が京の三条大橋上で知り合った女賊お豊と、北野天神裏の料亭〔紙庵〕へしけこみますが、その天神の参道に置かれている牛からの発想かと類推してみました。


京都・北野天神参道の牛の銅像。頭を撫ぜると効用あり、と信じられている。

あるいは、文庫巻5[女賊]の牛天神(北野神社 文京区春日 1- 5- 2)を描いた『江戸名所図会』の裏門・女坂下の「寝が牛」と呼ばれている「牛石」がヒントかとも。


「牛天神 牛石 諏訪明神社」(『江戸名所図会』) 左端の中ほどの女坂下に「牛石」の注記がある。

上のボタンをクリックしていただくと、拡大画像がご覧いただけます。



いまは、社殿前に移されている「寝が牛」石。



7月23日
2004年07月22日(木)

清水門外の役宅跡

発信:管理者の西尾から―――

池波さんが、長谷川平蔵の拝領屋敷を目白台に置いた経緯は、『IBM USERS』への連載を当HP[参考データ]に再録した、「鬼平を斬る! データで読む『鬼平犯科帳』」(10)で推測しました。
役宅が目白台では偏りすぎていると考えた池波さんは、近江屋近吾堂板の切絵図を眺めて、清水門外に「御用屋敷」があるのに目をつけ、火盗改メの役宅をここに置いたとエッセイで明かしています。


清水門外の「御用屋敷」(近江屋近吾堂板)

南原幹雄さんの『御庭番十七家』(角川文庫)は、ここにもお庭番の長屋があったことにしていることは7月20日の[お気軽 書き込み帳]に書きました。
「御用屋敷」跡地は、戦前1934年(昭和 9年)憲兵隊の下士官のアパートが4棟 120戸建てられ、戦後は接収した米軍が同施設で働く日本人などを住まわせました。


4棟のアパートが建っていたころの地図

返還後は大蔵省(当時)の〔竹平寮〕(千代田区九段南1丁目)となり、2000年まで老朽化した建物に少数の家族が住んでいましたが、2000年に退去した後は、数日で撤去して更地とし、関東財務局管理下の駐車場となっています。財務省としては合同庁舎の建設を検討中とか。



7月12日
2004年07月11日(日)

盗賊〔千代ヶ崎〕の源吉

発信:管理者の西尾から―――

文庫巻10[消えた男]の主役のひとり、高松繁太郎はもと堀帯刀組(先手弓の第1組)の同心でした。8年前の天明6年(1776)のこと。火盗改メの役についていた堀組が凶悪な〔蛇骨〕の半九郎一味を追っていたとき、盗人宿を教えるとい女賊お杉の逃走資金30両を高松同心が懇願したにもかかわらず、堀帯刀は一文も出しませんでした。
お杉の命を護るために同心の職と江戸を捨てた高松でしたが、いまはのきわに、お杉が盗法を教えてくれた父親の〔千代ヶ崎〕の源吉の墓の横へ埋めてとの頼みをかなえるべく、江戸へ戻ってます。
源吉の墓のある松久寺(架空)は、中目黒の「千代ヶ崎」から目黒川を西へわたったところです。
つまり、源吉の呼び名〔千代ヶ崎〕は生地によるのでしょうが、池波さんは『江戸名所図会』の「千代ヶ崎」の絵に刺激されたのだとおもいます。


「千代ヶ崎」(『江戸名所図会』)

絵中にはこんな文章が添えられています。

行人坂の北、永峯松平主殿頭侯(徳川松平18家の一……深溝(ふこうず)松平。肥前島原藩。 7石)k別荘( 2万1,000 坪余)の後ろ、中目黒の方へすこし下るところなり。初め鎗ヶ崎といひしを、のちに千代ヶ崎と改められしといふ。(略)
新田義興の室(千代の前)、義興矢口の渡にて最後のことを聞きかなしみに絶えず、この池に身を投ぐるといへり。


『江戸名所図会』にはこからさほど遠くない……ということは池波さんの家からも近い「矢口の渡」の絵もあります。


「矢口の渡」(『江戸名所図会』)

絵をちょっと説明します。左上の白馬にまたがっているのは謀殺された新田義興(新田義貞の妾腹の子)です。雷鳴とともに怨念姿を現したのです。右の馬上で驚いているのは江戸遠江守。13日後の夕刻、江戸遠江守が恩賞を受け取ろうと矢口の渡しへきたとき
鎌倉方の管領・足利基氏、畠山道誓、竹沢右京などと謀り、延文13年(1358)10月10日の暁、矢口の渡しで舟に細工をして義興主従13人を殺したためです。
13日後の夕刻、江戸遠江守が恩賞を受け取ろうと矢口の渡しへきたときの情景です。江遠守はその後、7日があいだ水におぼれた幻想になやまされて息絶えたといいます。
その後も矢口の里や渡しに異変がつづいたので、新田神社を建立して慰霊したところおさまったと。

つまり池波さんは、この古事を知った上で、源吉の呼び名に〔千代ヶ崎〕をつけたとおもわれます。

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2004年07月10日(土)

[江戸怪盗記]と[妖盗葵小僧]

発信:管理者の西尾から―――

1968年の『オール讀物』11月号に発表され、文庫巻2に収録されている[妖盗葵小僧]は、その4年前の1964年1月6日号の『週刊新潮』の掲載された[江戸怪盗記]を、ふくらませた作品です。
原稿枚数でいうと、

[妖盗葵小僧] 135枚
[江戸怪盗記] 41枚


このふくらましには、06月05日と06月17日の当[週刊掲示板]にご披露した第40回直木賞候補作[応仁の乱]と第43回直木賞受賞作[錯乱]についての吉川英治さんの選評を強く意識しての「ふくらませ」とおもうのは、ぼくだけでしょうか。
再録しますと、

[応仁の乱]評
池波正太郎氏の題材負けはどうしたものか。むしろ東山時代の庭作りの眼だけにあれを凝縮させて、善阿弥、芸阿弥、相阿弥などの系譜をつらぬいたものとしたらなおまとまっていたろうと思う。


[錯乱]評
池波正太郎氏のたいする私の考えはこの前の「応仁の乱」のときの寸評で私はかなり言ってある。こんどの「錯乱」についてもあれと同じことをくり返すのみである。


つまり、せっかくのネタはゆっくりと熟成させ、それにふさわしい分量の作品にしあげたほうがいい……というのです。
長谷川平蔵を主人公に据えた『鬼平犯科帳』の連載が実現したとき、[江戸怪盗記]では幕切れにチラッとしか登場しなかった平蔵を事件の最初からからませた形で「ふくらませ」てみたいと、『オール讀物』編集部側の了解をとりつけたのでしょう。

さらにいうと、元の[江戸怪盗記]では、長谷川平蔵は市中見廻りをしていて偶然に葵小僧一味にであいますが、ふくらませた[妖盗葵小僧]では、「声色」という手がかりから人相書をつくり、その人相書によって声を騙られた側が犯人の一人を特定するという推理過程が書かれます。
『鬼平犯科帳』は第11話目[妖盗葵小僧]によって初めて、平蔵流の探索法を明らかにしたともいえます。もちろん、粂八という密偵がすでに存在していたことも、欠かすことができませんが。

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7月5日
2004年07月05日(月)  18:14

福島県 耶麻郡 西会津町 牛尾

発信:居眠り隠居さん

西会津町は福島県の最西端に位置し、新潟県に隣接する山深い県境の町です。
太平洋いわき市と日本海新潟市を結ぶ国道49号線が町の真中を走っており、この49号線から南に4,5キロ入った山岳地帯が旧牛尾村、現在も牛尾の地名が残っています。

昔から世帯数は15,6程で、これは今も変わっていません。土地の方に聞いても特記する程の事ナシ、というごくありふれた山村地区で、『西会津町史』にも2行ほどの記載があるだけです。

こんなノンビリした豪雪地帯の寒村から、同時期に3人もの頭領分の盗人が誕生したとは信じがたいことですが、あるいは当時、あまりの貧しさからつい悪の道にはまり込んでしまったのでしょうか。
3人の盗人とは、〔牛尾〕の太兵衛([9-3 泥亀])、〔牛尾〕の又平・弟の〔瀬田〕の虎蔵([20-1 おしま金三郎])のことですが、この3人、本当に牛尾村に関係があるのでしょうか。西尾先生の解説を期待しています。

牛尾村
端村 雲在家(くもざいけ)長谷川東岸の西方街道筋にあたる。
雲在家にある気付清水(きつけしみず)は、源義家がここに来て「渇きを覚えた時」にわかに俄に湧き出したと伝えられる(『新編会津』)。寛文5:家数17軒・窯24・男53人・女 496人・馬12匹。石高99石6斗6升6合。
明治3: 207石3斗3升。
『西会津町史第6巻(下)旧町村沿革』



管理者:西尾からのレス

ご隠居、お久しぶりです。体調もおよろしいようですね。ところで、西会津町の「牛尾」の情報、ありがとうございます。

>この3人、本当に牛尾村に関係があるのでしょうか。

とのお問いかけですが、[20-1 おしま金三郎]のほうの〔牛尾〕の又平・弟の〔瀬田〕の虎蔵は違うような気がします。というのは、京都府山科区にも「牛尾」があり、ここは大津の「瀬田」と隣り合っています。
また、〔牛尾〕一味の中で、おしまのほかにもう一人逃げおうせたのが〔高山〕の治兵衛ですが、この治兵衛、上方に近い飛騨の「高山」の出身とも考えられますし、ね。

[9-3 泥亀]の〔牛尾〕の太兵衛は、駿河・遠州から伊勢にへかけて盗めをしていたといい、ひとり働きの上州・沼田出身〔関沢〕の乙吉も一味にいたこともあるようで、ご隠居のご期待にもかかわらず、静岡県の大井川ぞいの金谷町「牛尾」ということもありえます。

しかし、家数17軒という貧しい西会津の「牛尾」も捨てがたい気がします。福島市内にも「高山」という町名がありましたね……。

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