2004年 8月

――敬称略・逆日付順――


8月27日  20日  13日  4日


8月27日
2004年08月24日(木)

鬼平の先祖の戦死場所

発信:管理者の西尾

吉川弘文館のPR誌『本郷』No.53に寄稿したエッセイ。

 江戸幕府の火盗改メとして腕をふるった長谷川平蔵宣以は、池波正太郎『鬼平犯科帳』で有名になったため、小説やテレビをテキストにした自称〔鬼平〕研究者が輩出している。しかし、その先祖にまで言及したのは、〔小川(こがわ)長者〕を登場させた司馬遼太郎『箱根の坂』のほか、ほんの少数である。
 〔小川長者〕の息だか孫にあたる長谷川紀伊守正長の墓は焼津市の信香院にある。彼は、徳川家康の生涯でただ一度の負け戦――元亀三年(一五七二)十二月二十二日の三方ヶ原(みかたがはら)合戦で、弟の藤五郎とともに討ち死にした。
 この合戦の戦死者として兄弟の名をあげているのは『四戦紀聞』『浜松御在城記』『松平記』で、それぞれが記した戦死者名は五十五、十三、八人。ちなみに、『寛政重修諸家譜』が記す戦死者は二十七人。
 鬼平の息・宣義(小説では幼名の辰蔵)が『寛政譜』のために提出した〔先祖書〕は、正長兄弟の戦死を「於御馬先」としている。 「於御馬先」を文字どおりに受け取ると、家康の旗本団の一員、といえないこともないが、書き出すときに先祖の死を故意に飾ったともいえる。各家の〔先祖書〕を整理して『寛政譜』をまとめた幕府の学者団は、長谷川家のそれに「於御馬先」の四字を採っていない。
 長谷川本家と分家三家の〔先祖書〕も取り寄せて検分してみた。四家とも申し合わせたように「於御馬先」としていた。
 『寛政譜』の近藤久内吉成の項に「御馬前に於いて討死す」とあったから、学者団が「於御馬先」を疑って外したというより、文字量の制約ともおもってみた。
 それはそれとして、武田軍団に攻められた今川方の紀伊守正長が、徳一色城(藤枝市。のちの田中城)を一族二十一名を含めて三百余人と逃れて徳川の麾下となり、姉川の戦いにも扈従したのち、三方ヶ原ではどこで戦ったかさらに調べたいと、
URL =
http://homepage1.nifty.com/shimizumon/ でも情報提供を呼びかけているところである。


エッセイは、毎号筆者を変えてつづいている「歴史のヒーロー・ヒロイン」欄に掲載。

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2004年08月24日(火) 19:19

薄木の赤観音

発信:会津のおくまさん

福島県の石川郡に流鏑馬の町として知られる古殿町があります。
そこは1994年に白川郡から石川郡へ変更となりましたが、塩の道といわれたいわきへ抜ける御斎所街道の途中に薄木地区といわれる集落があります。
そこに赤観音があると聞きました。
これって、[妖盗葵小僧]に顔見せする盗人の一人ですね。

で、付け加えますと、薄木は、正式には福島県石川郡古殿町大字松川字薄木(ヤフーの地図検索 古殿町松川八ヶ久保1 or21)。
なお、赤観音はいいつたえによりますと、ここを通りかかった人の馬が崖下へ落ち、奇跡的に立ち上がりいなないたので、感謝して観音さまを彫らせたとのことです。
生業の盗人宿のほうが一段落したら観音様を拝みに行ってみようと思います。


管理者:西尾からのレス―――

会津のおくまさん。みごとに、〔赤観音〕の久兵衛をつかまえてくださいました。お手柄、お手柄。
8年ごし、手配中だった盗人なんですよ。あ、拙著『「鬼平犯科帳」を助太刀いたす』で公開して以来の……ってことですが。
お参りに行かれたら、全国の鬼平ファンに見せてあげるため、観音さまかお堂の写真かなにか、お撮りになってお送りください。

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8月20日
2004年08月18日(水)

辰蔵の配慮

発信:管理者の西尾から―――

午前10時半から二番町のオフィスで、雑誌『サライ』10月7日(第1木曜日)発売の[池波正太郎特集]のための取材を、特派記者K氏からうける。

長谷川一門の『寛政重修諸家譜』のコピーをK氏へわたし、

「鬼平の父・平蔵宣雄の履歴から火盗改メのことが抜けているのは、持ち出しの多い火盗改メの家系とおもわれるのを避けて、提出した辰蔵が意識的に脱落させたのかもしれませんよ」

「宣雄が京都西町奉行へ栄進したのは、火盗改メの長官時代、明和9年(1772)の行人坂大火の放火犯人を逮捕したご褒美でもあったのですから、隠しきれるはずはないのですがね」

言ったあとで、寛政11年(1799)に、『寛政譜』編纂のために辰蔵が幕府に提出した「先祖書」を再確認する必要があるとおもい、[井戸掘り人のリポート]にあげておいたその「先祖書」を再読してみました。
(案のじょう−−−)

「先祖書」には宣雄の火盗改メのことは記されていませんでした。

史実の辰蔵は、小説の彼とはくらべものものにならないほど頭が回転したのかも。

 わいわい談義 長谷川辰蔵 をクリック



2004年08月14日(土)

同心・木村忠吾の年譜

発信:管理者の西尾から―――

5日(木)の朝日CC〔鬼平〕クラスでのテキストは文庫巻2[お雪の乳房]で「木村忠吾の成長の足取りを見る」でした。

講義のために忠吾の年譜を作成したので、ご参考までに。


木村忠吾(同心 30俵2人扶持

   
亡母:あさ。叔父:中山茂兵衛。
  下女:お杉([影法師]p7)
  小柳安五郎と仲がいい([男色一本饂飩])p26
明和5年(1968) 誕生 先手同心の長男。
兄弟姉妹は不明
天明5年(1785) 18歳 亡父の後継者として家督入組
[2-2 谷中・いろは茶屋]
天明6年(1786) 19歳 長官・長谷川平蔵着任
天明7年(1787) 20歳 米騒動の鎮圧に出動。
組が火盗改メ(助役)
天明8年(1788) 21歳 組が火盗改メ(本役)
晩夏 いろは茶屋〔菱屋〕お松
[2-2 谷中・いろは茶屋]
寛政4年(1792) 晩秋 25歳 新堀端の龍宝寺門前町の
しる粉屋〔松月庵〕でお雪を抱く
[2-6  お雪の乳房]
寛政5年(1793) 26歳 長官・鬼平のお供で京へ
[3-2 盗法秘伝]
[3-3 艶婦の毒]
[3-4 兇剣]
寛政6年(1794) 正月 27歳 供で二本榎・細井邸へ
[9-4 本門寺暮雪]
男色浪人に誘拐される
[11-1 男色一本饂飩]
寛政7年(1795) 5月 28歳 長谷川平蔵病死
寛政8年(1796) 29歳 一本眉事件
[13-6 一本眉]
初夏 伊三次が刺殺される
[14-5 五月闇]
伊三次の墓へ墓参
[14-6 さむらい松五郎]
同心:吉田藤七の四女
おたかと結婚[15-5 雲竜剣]
寛政9年(1797) 霜月 30歳 藤田彦八の妻の事件
[19-4 逃げた妻]
寛政10年(1800) 1,2月 31歳 上記事件の続篇
[19-5 雪の果て]
1月 市口又十郎とお弓の事件
[21-3 麻布一本松]p75
「忠吾は釣りをやるか?」
[23 迷路 囮]p117

家督した天明5年(1785)から寛政3年(1791)春までの5年間、池波さんは兎忠になにもさせていませんね。

 [参考データ]年譜  ←こちらをクリック
 


8月13日
2004年08月13日(金)

池波さんの旅行先リスト

発信:管理者の西尾から―――

『鬼平犯科帳』に顔見せする盗人で、「通り名(呼び名)」をもっている 300
人近いうち、約80%は出身地を名乗っていますが、その土地と池波さんの旅行
先をつきあわせてみるのもおもしろい……とおもいました。
取材旅行はもちろん講演旅行であっても、慎重な池波さんのこと、出発前に吉田東伍博士『大日本地名辞書』をひらき、周辺の町村まで調べたと思うので
す。
幸い、『完本 池波正太郎 大成』別巻の年譜に旅行先の一部が公開されていたので、抜粋・補充してリスト化してみました。

池波正太郎 旅行記録
年号 西暦 年齢 旅行先
昭和31 1956 33 信州旅行([おおげさがきらい]所載)
静岡・梅ヶ島、身延(〃)
33 1958 35 鹿児島(新国劇に桐野利秋を書く
ための取材)
35 1960 37 信濃旅行。山田温泉、志賀高原・
丸池・発哺・長野市・飯山市・
柏原の一茶旧蹟、野尻湖
大阪、京都、松江、米子、弓ケ浜、皆生
36 1961 38 北九州旅行
37 1962 39 京都旅行。平安神宮、京都御所、
曼殊院、大徳寺
38 1963 40 京都、伊勢、大阪、岡山、倉敷、
鷲羽山、下津井( 3月)
松山、高知、京都、大阪旅行(4月)
北海道・東北旅行。函館、小樽、
月寒、弘前、松島、仙台(06月)
京都、伏見、大阪・中書島旅行( 8月)
仙台七夕祭、秋田竿灯祭( 8月)
大阪、神戸、京都、沼津、小田原、
箱根旅行、
京都、大阪、大津、膳所旅行
(12月 6日間)
39 1964 41 京都、大阪(2月末 3月初1週間)
連載[忍者大介]
京都、山科、琵琶湖旅行(3月末1週間)
彦根、佐和山、甲賀旅行(5月3日間)
新発田から小千谷、長岡
(12月)「堀部安兵衛」取材
40 1965 42 金沢旅行( 2月)
京都旅行。太秦( 3月 3日間)
志摩半島、関ヶ原、大垣、松阪
賢島旅行( 4月 3日間)
41 1966 43 近江国友( 6月)
(連載[スパイ武士道])
名古屋、京都、関ヶ原戦場取材
( 7月 連載[さむらい劇場])
塩原、那須旅行(秋)
長浜周辺(10月)
42 1967 44 上州取材旅行。前橋、上泉、
前川、伊勢守墓所( 3月)
能登、高岡旅行( 8月)
43 1968 45 駿河路取材( 3月)
([鬼平犯科帳]連載始まる)
上田市取材( 6月 2日間)
(連載[蝶の戦記])
飛騨古川・高山、彦根、下呂
中山七里旅行( 6月 4日間)
(連載[近藤勇白書])
京都・木屋町へ( 6月 1日)
彦根旅行( 8月 2日間)
44 1969 46 笠岡、徳山、長門、岡山
( 3月 4日間 文春講演)
犬山明治村( 5月 3日間)
熱海、島田、寒山寺、浜松、
伊那谷、豊橋( 6月 4日間 文春講演)
山陰取材、松江、大山、鳥取、三朝温泉
( 8月 連載[火の国の城])
深川、名寄、紋別、留萌、札幌
( 9月 5日間 文春講演)
彦根市(10月 1日 読売講演)
九州、大阪、奈良、彦根旅行
(11月 6日間)
45 1970 47 彦根、奈良旅行
( 1月連載[忍びの風]
唐津、名護屋、平戸(週刊朝日の取材)
五所河原、むつ、水沢、二本松
( 4月 4日 文春講演)
豊橋、静岡ほか東海道取材( 5月 4日間)
富山、金沢、武生、北陸取材旅行。ついでオール讀物の取材で、彦根、大阪へまわる( 6月)
46 1971 48 京都・山科の大石内蔵助旧居跡、
奈良東大寺取材旅行( 1月)
那覇、名護、ゴザ、石垣
( 2月 7日間 文春講演)
松阪、新宮、田辺、西宮、白浜
( 5月 5日間連載[まぼろしの城])
黒石、青森、十和田湖、古川
( 6月 4日間 文春講演)
山形( 8月 文春講演)
倉吉、米子、出雲、松江
(10月 4日間 文春講演)
埼玉県小川町、川越市取材旅行
(10月連載[忍びの風])
47 1972 49 富山、氷見、加賀、高山
( 5月 4日間 文春講演)
関ヶ原、名古屋旅行(12月)
48 1973 50 上田城趾、松代・長国寺ほか
(冬 週刊朝日[真田太平記]グラビア)
49 1974 51 白石、相馬、遠野、八戸
( 9月 4日間 文春講演)
50 1975 52 富山、勝山、大津、京都府峰山
(10月 文春講演)
51 1976 53 富士、岡崎、桑名、福知山
(10月 4日間 文春講演)
52 1977 54 ヨーロッパ(初夏)
53 1978 55 敦賀市内、朝倉氏遺跡、東尋坊、
永平寺、福井市内(11月 3日間)
54 1979 56 フランス、スペイン(秋)
55 1980 57 南フランス(秋)
56 1981 58 先祖の地・富山県井波町を訪ねる(10月)
57 1982 59 ベルギー、フランス( 5月)
シンガポールなど(冬)
58 1983 60 長野県真田町( 4月30日)
59 1984 61 フランス、ドイツ(秋)
63 1988 64 フランス、ドイツ、イタリア( 5月)
ドイツ、フランス、イタリア( 9月)



2004年08月07日(土) 21:13

〔櫛山〕の武兵衛一味

発信:奈水さん

『鬼平犯科帳』単行本8巻[明神の次郎吉]で、長官・長谷川平蔵は、次郎吉の量刑を軽くするために、〔櫛山〕の武兵衛一味の扱いを、火盗改メでなく南町奉行所の扱いにしていますが、この理由はなぜですか?


管理者:西尾からのレス

ご質問には、幕府の刑法「御定書(おさだめがき)」の知識がないと答えられません。
幸い、当[週刊掲示板]では、7月12日から「御定書」の条文の現代語訳を連載しています。

第17条 盗賊火附詮議致し方の事
盗賊火附詮議之儀、盗賊改火附改江不相渡、其手切にて可致詮議事。
(町奉行所側が捕らえた盗賊や火付の犯人は、火盗改メに渡さないで、奉行所側で詮議すること)。

これにより、長谷川平蔵は、

「今夜のことは盗賊改メには、かかわりのないことじゃ。みな、おぬしの手柄にしておいてれ」

と、南町奉行所の大山与力にいったのです。

櫛山一味の記録を持たない南町奉行所は、一味を初犯の未遂と誤認し、量刑を軽くすることもありえましょう。

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2004年08月07日(土) 19:15

東白河郡薄木の〔赤観音〕

発信:居眠り隠居さん

東白河郡には棚倉町、矢祭町、塙町、鮫川村の3町村があります。
棚倉町、塙町、鮫川村には薄木という地名も赤観音もありません。
矢祭町に「薄木」と云う地名があると聞き、調べたのですが、よく判りませ
ん。
同町の「下積河内」と云う所が昔「うすき」と呼ばれた所ではないか、という人もいますが、確証はありません。この地区にも赤観音はおろか、馬頭観音もなく、昔もあったような形跡は皆無です。


管理者:西尾からのレス

おや、ありませんか。じつは数年前に、メル友の一人から「福島県東白河郡薄木の赤観音で知られる馬頭観音」と教示えられ、確認しないまま記録しておいたのです。
文庫巻2[妖盗葵小僧]p144 新装p153 に、上州・高崎で捕縛されたとある
〔赤観音〕の久兵衛一味のリサーチは、ふりだしにもどしてやるしかありませんね。
CD『郵便番号』で「薄木」を検索したら、宮城県柴田郡村田町薄木だけがでてきましたが、ねらいは「薄木」でなく〔赤観音〕ですから。
いつも変わらぬ、念の入ったお知らせ、ありがとうございました。




8月4日
2004年08月04日(水)

「五月闇」

発信:管理者の西尾から―――

文庫巻14[五月闇]は、密偵の伊三次が刺殺される話ですが、『東海道名所図会』をくっていて小説の題名のネタはこれかな、という古歌をみつけましたので。

(古々井の杜 伊豆権現の西北にあり)
   五月闇 ここゐの杜の 時鳥
     人しれずのみ 鳴き渡るかな
    (藤原兼房)

辞書は「五月闇」を、梅雨のころの夜が暗いこと……としています。
さらに季語で引くと、

   五月闇 おぼつかなきに ほととぎす
     鳴くなる声の いとど遥けき
  (朗詠集・郭公)

   五月闇 しらはし山の ほととぎす
     おぼつかなくも 鳴き渡るかな
(拾遺・夏・一二四)

など、ほととぎす関連で歌われています。
「五月闇」のほかは、季語から援用されていそうな題名は文庫巻9[狐雨]、巻11[雨隠れの鶴吉]、巻21[春の淡雪]、巻22[引鶴]あたりでしょうか。

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2004年08月03日(火)@ 21:13

「犬神村」について

発信::居眠り隠居

「犬神村」について、西白河郡表郷村文化財保護委員会発刊、同保護委員鈴木整著「いるやまのいのかみ」を見つけたので、抜粋を紹介します。

「いるやまのいのかみ」 アイヌ語のような書名をつけたか、これは実は入山、犬神地名の古語呼称だからと。漢字だと「冶る山の冶の神」。

位置は、福島県西白河郡表郷村大字金山字犬神部落。表郷村最南端で、西白河郡の最南端でもあります。
海抜 600mから 700mの八溝山系の山岳が連なり、そこを源として北へ流れる小渓黄金川の峡域に三方山に囲まれ、現在戸数31戸の小部落です。

行政は藩政時代の金山村(現在の大字金山)庄屋の支配下で、金山村の発祥地と伝えられが物証的何物もありません。
の字句は明治新政府の地籍改革で「犬神」に変更されたものだが、それまでは狼神(いぬかみ)と書かれ、ある時代は笈神とも書かれました。
その頃から入山村とも通称されて今に及んでいます。ずっと古くは、冶る山(いるやま)の冶の神(いのかみ)といったのが訛って「いりやま」、「いぬがみ」となったそうです。

いりやまを語るにはまず、金山(きんざん)を挙げるべきでしょう。。金山村の地名の起こりは、きんざん村であったろう。奈良時代に金を産したといわれ、「続日本記」には、天正年間(1580)に常陸国太田の城主佐竹侯支配のもとに、盛んに採掘され、荷駄場(にたば)1000軒、小手(おで)1000軒、霧伏(きりぶせ)1000軒、3000軒の人家があったと伝えられています。

黄金沢の奥まった所に大山祇命、並びに冶金の神金・山彦命、金山姫命を祀ります。権現様のおふねと称する岩場があり、この小沢を権現沢と呼び、一沢一帯を神域として尊厳を保っていました。地方最古の神社と考えられます。つまり、冶の神であり、村名の所以であります。
沢は聖地として、女人禁制はもちろん男子といえども年に一度の行、部落内の如来堂に集まり禊をして白衣(行衣)を着、行列で竹筒の法螺を吹き鳴らし、「サンゲザンゲ、ロッコンショウジョウ、オホヤマハンジョウ」と声高らかに呼称しつつ参詣するほかは、山菜採りにも栗拾いにも入るべきでないと固く守られていました。

悪習か美風かはともかくとして、各家の世帯主全部に綽名がついていました。

 きつねまだ亀次
 ぶっちめの幸左エ門
 かっか倉蔵
 まめくいひょろ松
 くろんぼ粂三郎
 どしなり東吾……など。


[犬神の権三]の権三郎は「鼻も口も大ぶりで眉毛が濃く、髭の剃り跡も青々とした役者顔の、なかなかにいい男」とあり、「槍の権三」を連想したのですが……。
こんな盗人のために命を落とした〔雨引〕の文五郎があわれに思えてなりません。

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2004年08月03日(火)

〔簔火〕の喜之助の生地

発信:管理者の西尾から―――

[わいわい談義]の「盗人の部」で〔簔火〕の喜之助を、出身地「未詳」に分類していましたが、文庫巻1[老盗の夢]を読み返していて、

信州・上田のつくり酒屋の子に生まれた喜之助の母は、上田城下の人びとから、「相撲小町」
と呼ばれた大女で、しかも美女であったという。その顔だちの美しさを、六歳の夏に母と死に別れた喜之助は、よくおぼえていない。         
p165 新装p174


〔簔火〕の母が上州・上田の生まれなことははっきりしています。嫁に行ったのも上田城下として、喜之助も上田出身とみていいのでは……とかんがえ、出身地「未詳」から「長野県」へ移しました。
〔簔火〕の喜之助は、池波さんがもっとも肩入れしていた本格派の盗人で、[血頭の丹兵衛]で初顔見せ、[老盗の夢]で本格派の時代の終焉をつげるかのように死んでしまいますが、その後もなにかというと名前が出ます。その篇数、なんと21話。
また、訓育した配下も京都の宿屋〔藤や〕の主人・源助や〔大滝〕の五郎蔵をはじめとして20名を超えています。つまり、『鬼平犯科帳』の影のヒーローといっていいでしょう。

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