2005年 8月

――敬称略・逆日付順――


8月05日  12日  19日  26日



8月26日
2005年08月26日(金)

渋谷区の大祥寺ほか

発信:相州藤沢宿の太兵衛さん

不明のブロックに区分されている渋谷区の「大祥寺」さん。
祥雲寺さんのお話で、明治に入ってすぐに廃寺になりました。とのこと。

台東区「長遠寺」、渋谷区「長全寺」は切絵図にも見当たらないので架空では、と思います。
「長全寺」は「長泉寺」ではないかとも思いますが。



8月19日
2005年08月18日(木)  

法光寺と了学寺の行方

発信:相州藤沢宿の太兵衛さん

新宿区「法光寺」さん。
日照山 法華宗(陣門流)法光寺。
探してびっくり。なぜって新宿から谷中へ。
新宿区教育委員会で「法光寺」跡地の発掘がなされ、
発掘報告がありました。その報告書から判明。
明治22年に荒川区西日暮里3-8-6 tel.3821-7226へ移転。
なんと富士見坂にです。

新宿区「了学寺」さん。
増上寺様のお力をお借りしました。
増上寺17代法主「照誉了学」の隠居寺。
日輪山 浄土宗 四谷伊賀町に正にありました。
現在はありません。
江戸幕府の庇護のあった「増上寺」は明治政府になってからは、大変な変遷があったそうです。資料もほとんど焼失してしまったとのこと。



2005年08月18日(木)

法光寺と了学寺

発信:管理者の西尾から------

法光寺は、文庫巻8[流星]p164 新装版p172と、巻13[夜針の音松]に出てきます。
[夜針の音松]のほうで説明しますと、非番の沢田小平次に稽古をつけてもらうべく、四谷・坂町の組屋敷を訪ねたものの、小平次の他出を知った辰蔵が、組屋敷から西の津の守坂へ向かい、法光寺裏から合羽坂へさしかかったところで、もみ合っている男女を発見---。

了学寺は、引退した上人の名前から了学寺とおもいましたが、史料によると切絵図どおりに、了覚寺が正しいようです。
文庫22長篇[迷路]p100 新装版p96に登場。四谷・坂町の組屋敷の東端に接していました。
帰宅途中の与力・秋本源蔵がさしかかったところ、矢が飛んできて刺さり、源蔵は了覚寺の塀に寄りかかったまま息絶えます。



8月12日
2005年08月10日(水)  

弘化3年に間違いなし

発信:相州藤沢宿の太兵衛さん

「天徳寺門前代地」は弘化3年に間違いないと思います。

新宿区の「地図による「四谷」の変遷」では、
文化8(1811)年では「尾張殿」
弘化3(1846)年11月、「天徳寺門前町屋代地」とあり
文章で「尾張殿屋敷之内新道敷出来天徳寺門前町屋代地に成」とありました。

2005年08月10日(水)  

弘化4年板

発信:管理者の西尾忠久----

>みやこのお豊さん
ごめんなさい。
たしかに、江見屋版には、文化7年(1810)と刻まれていますが、この地図は、その後、別の板元へ板木が売られたらしく、もっとあとの年号と板元が横に刻まれていたのです。
それを省略してしまって---。

「弘化江戸図」 弘化4年改板 西村版

これです。
弘化3年のお豊さんの発見と合致。

2005年08月10日(水)  

江見屋板の大地図

発信:みやこのお豊さん

「週刊掲示板」8月4日に西尾先生がアップされている文化7年(1810)の江見屋版(部分)には四谷御門前に「てんとくじ」と記されています。
弘化3年(1846)より36年前になるので(?)ですね。

弘化3年11月24日付けの証文には地割が非常に詳細に記されています。
最後にこんな文章がみえます。
「前書御絵図之通、新規道敷に相成候に付、以来境目等
不粉様可仕旨被仰渡、奉承知候、為後日乃如件。」
        尾張殿内  松岡貞蔵 印

2005年08月09日(火)  

弘化3年は1846年

発信:相州藤沢宿の太兵衛さん

みやこのお豊さん、すばらしい!
弘化3年というと1846年丙午ですね。
鬼平犯科帳の舞台としては、ちょっとまずいことになりますね。
切絵図に載っていたので使ったのでしょうか?

2005年08月09日(火)  

「天徳寺門前代地」

発信:みやこのお豊

「1−5老盗の夢」p178 新装版p189 に出ている、四谷御門南の「天徳寺門前代地」ができた年代が、ついにわかりました。

「四谷区史」で、「江戸時代における四谷の地を三地域(町地、武家地、寺社地)に大別し、現在(昭和9年)の町名と対比している中に「尾張町」−「天徳寺替地」(町地)をみつけました。

町地区を1枚1枚調べていましたら「天徳寺門前町屋代地」に給付された時の「弘化3年11月24日」付の証文をみつけました。 

「寛永14年来尾州徳川家の向屋鋪であった處の最北部である、弘化3年上地に成て、天徳寺門前町屋の代地に給せられた-----」

詳しくは昭和9年3月31日発行「四谷区史」p162
これでお寺は「天徳寺(光明山和光院 浄土宗)」
            (虎ノ門3−13−6)
代替地は弘化3年に四谷御堀端に給付されたことになります。



8月05日
2005年08月05日(金)

光照寺、決定!

発信:相州藤沢宿の太兵衛さん

わかりました! 光照寺のゆくえ

「光照寺 真宗西本願寺派 雲岳山」
昭和40年に永坂から、八王子市絹ヶ丘3-8-1へ移転。
東京オリンピックのため首都高並びに永坂の道路拡張工事に敷地がかかったためでした。


「正法院(しょうぼういん)」

豊島区西巣鴨4-8-1 (3917)2360
明治38年に現在地に移転。
今思い出しました、立派な真新しい木の門。
閉まっていて中をうかがい知ることができなっかたことを・・・。



2005年08月04日(木)

「天徳寺門前町替地」

発信:管理者の西尾から―――

文庫[1−5 老盗の夢]に出てくる、四谷御門南の「天徳寺門前町替地」は、芝同朋町(現・港区虎ノ門 3-13- 6)の天徳寺に関係のある土地ですね。
宝暦7年(1757)の万屋板の大地図には見あたりません。
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宝暦7年(1757)の万屋板(部分)


文化7年(1810)の江見屋板の大地図にはみとめられます。


文化7年(1810)の江見屋板(部分)



2005年08月03日(水)  

「上覚寺」と「浄覚寺」

発信:新兵衛さん

権之助坂にあった上覚寺というお寺ですが、この名前は尾張屋版に出てくる名称であって、池波さんが愛用されていた近江屋版では浄覚寺となっています。
鬼平犯科帳の執筆には近江屋版を使用したと教わりましたので、気になりましてコメント致しました。




管理者:西尾からのレス―――

たしかに、妙ですね。
ただ、近江屋板の目黒図は、品川地区図につけたりみたいに置かれているので、目黒にかぎって、池波さんは尾張屋板を見られたという考え方もできます。
しかし、近江屋板のほうの寺号「浄覚寺」のほうが正しいのですから、チェックなさってみるべきでしたね。

もっとも、「浄覚寺」は明治20年代に廃寺となり、ご本尊は瑞聖寺(港区白金台 3- 2-19)へ合祀されました。


近江屋板


尾張屋板



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