2005年 12月

――敬称略・逆日付順――


17日



12月17日
2005年12月17日(金)

沢蔵司稲荷の由縁

発信:小金井の住人さん

小石川寺社資料(真砂中央図書館蔵書より)によれば、

伝通院の学寮(梅檀林といって修行をするところ)に澤蔵司という修業僧がいた。僅か三年で浄土宗義を極めた。
元和六年(1620年)五月七日の夜、学寮長の極山和尚の夢元に立った。

「そもそも、余は千代田城の内の稲荷大明神である。かねて浄土宗の勉学をしたいと思っていた長年の希望ここに達した。今より元の神にかえるが、永く当山(伝通院)を守護して、恩に報いる」

と告げて暁の雲にかくれたという。

そこで伝通院の住職廓山上人は、澤蔵司稲荷を境内に祭り、慈眼院を別当寺とした。
江戸時代から、信仰する人が多く繁栄した。とあり、又「江戸名所図会」には

「東裏の崖下の狐棲の洞穴あり」と記されている。

慈眼院本堂の右手前の朱の鳥居をくぐり下へ降りて行くと霊窟(おあな)と称する窪地があり、奥の洞穴に稲荷が祭られてある。薄気味悪い曲がりくねった鳥居をさらに進めばまだ多くの稲荷が祭られていて、その中に何故か「勝抜稲荷」というのがある。

無量山慈眼院の本尊は、
慈眼院阿弥陀如来、
澤蔵司稲荷尊像、
十一面観音像、
が祭られている。

又、伝通院の門前の蕎麦屋に澤蔵司はよく蕎麦を食べに行ったが、澤蔵司が来たときには売り上げの中に木の葉が入っていたので、主人は澤蔵司が稲荷大明神であったのかと驚き、毎朝「お初」の蕎麦を備え稲荷蕎麦と称したという。
そこで、古川柳に、

澤蔵司 てんぷら蕎麦が お気に入り

というのがあるそうです。



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