SBS学苑パルシェ静岡 〔鬼平〕クラス 中林正隆

4月のクラス終了時にで西尾先生から小和田哲男著作集第2巻「今川重臣長谷川氏の系譜的考察」(清文堂出版『今川氏家臣団の研究』2001刊所載)をわたされた。
鬼平の先祖・法永(栄とも)長者の子孫「中川さん」が、私の住んでいる静岡市瀬名にいるから調べるようにとのことだった。
「中川さん」はかねがね瀬名の旧家とは聞いていたが、詳しくは知らなかった。
法永長者の孫の長谷川正長には2人の弟がいて、末弟の惣次郎が湯原郡(庵原郡)瀬名に住んだことになっている。平成12年発行の「西奈わがまち」(p36)に、大意、次の記述があった。

「大化の改新」の中心になった藤原鎌足の17代後裔小川次郎左衛門政平は源頼朝に仕え、その子長教(ながのり)は下野(栃木県)から駿河国坂本村(焼津市)へ移った。
さらに6代後の「法永長者」と呼ばれた小川(こがわ)政宣は志太(しだ)平野を治める小川城を築き、今川氏親が竜王丸と呼ばれた幼年時代、相続争いのまきこまれてた母今川殿ともども、世話をした富豪であった。
政宣の孫の長谷川紀伊守政長は、藤枝の田中城主をも兼ねたが、三方ヶ原の合戦(1572)の際、徳川家康に味方し、弟政久とともに戦死した。
三男の惣次郎は、幼かったので瀬名の光鏡院に入り、ここで学問を修めた。田中城の「中」と小川城の川をとり「中川」と姓を改めて郷士となった。
その子の中川惣太夫が中川家の初代となり、子孫が代々瀬名村の庄屋や名主を継いできた名門である。
中川家宗家は、明治維新以後も、村長、県会議員、郡会議員等を輩出している。
中川家の隠居7代目の中川雄太郎は、版画家として知られ、静岡文化奨励賞を受賞した。
本家18代、当主中川芳朗は光鏡寺檀家総代を勤めている。
幼少の惣次郎が、落ちゆく先を、なぜ武田勢に蹂躙されている駿府の瀬名にしたのか、武田と瀬名氏(今川の一族)の関係が興味を引く。
前出「今川重臣長谷川氏の系譜的考察」を参考にして「長谷川家系図」を、またクラスで配付された『寛政重修諸家譜』と正長の菩提寺である信香院でいただいた開山忌資料と『実録「鬼平犯科帳の世界」』(人物往来社)を参考に「正長系系図(1)(2)」を作成した(他の史料と重複するために他日紹介)。


瀬名中川家(隠居)の中川百代さんとは電話での連絡がとれ、近日中にお会いできそうである。

歴代の墓所である、林叟院、信香院、弘徳院、長福寺については改めて報告します。


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