当ホームページ管理者:西尾忠久

西尾忠久から
    小楠和正さん
(浜松在住・郷土史家)

お心をわずらわせている三方ケ原合戦における長谷川紀伊守正長とその一族の討ち死の状況ですが、『寛政重修諸家譜』のために、鬼平の総領・長谷川宣義が書き出した「先祖書」を整理してみましたら、

 於御馬先 両人共討死仕候
  (西尾注 当HP[井戸掘り人のリポート]コーナーの「長谷川家の
  〔先祖書〕参照)


との文言がありました。

「於御馬先」を文字どおりに受け取りますと、家康公の前となり、先手組か馬廻り役に編成されていたようにもとれます。

『寛政譜』の長谷川家の項にはこの文言は採用されていません。
「於御馬先」でなかったとも考えられますが、『寛政譜』では、他の討ち死の武将たちの家譜にも「於御馬先」という文言は使用していないところを見ると、編者がことさらに避けた、ともかんがえられます。

また、自家のことをより華々しく飾るために、先祖なり宣義なりが「於御馬先」と書いたのかもしれません。

小楠さんがお目をお通しになった諸記録に、「於御馬先」という文言はございましたでしょうか。
また、この文言についての、先生のおかんがえをお聞かせいただければ幸いです。



小楠和正さん(浜松在住・郷土史家)から
              
 西尾忠久

お送りいただいた、長谷川家[先祖書]にある、「於御馬先」の件について、集めた史料を調べ直してみました。
しかし、『信長公記』『松平記』『三河物語』『甲陽軍鑑』『家忠日記増補』『浜松御在城記』『織田軍記』『四戦紀聞』『武徳編年集成』『改正三河風土記』などには、「於御馬先」の文言は見当たりませんでした。

「於御馬先」の意味はご指摘のように家康の馬前であり、先手組か馬廻り組にいたのではないかと思います。
しかし、それらを裏付けるような史料がおりません。

また、『寛政重修諸家譜』の編者がことさら避けたと考えられるのはどうかと思います。
それは『寛政重修諸家譜』だけでなく、それ以前に書かれた『信長公記』『松平記』『三河物語』『甲陽軍鑑』『家忠日記増補』などの史料にも「於御馬先」の文言がないからです。

討死した者すべてにこの文言がないことは、家康の馬前で死んだ者がいなかったというわけではないと思います。
合戦ですから大将の馬前で死んだ者はいたはずです。合戦の最初でなくても、乱戦となり浜松城へ逃走する家康の馬前を警護していて討死したとも考えられます。

残念ながら、合戦の様子を具体的に記した当時の記録が発見されていませんので、推測する程度のことしかご報告できなくて申しわけありません。




西尾忠久から
    
小楠和正さん(浜松在住・郷土史家)

『寛政重修諸家譜』の整理ぶりを検証するために、「夏目次郎左衛門吉信」の項をお届けします。

永禄4年(1561)三河国長澤城攻のとき軍功あり。
6年一向門徒叛きしとき逆賊に與(くみ)し、大津半右衛門某、乙部八兵衛某等と共に野羽(のば)城に籠る。松平主殿助伊忠(これただ)兵を発してこれをせむるといへども、固く守りて城陥らず。ときに八兵衛内通して伊忠が兵を城内にひきいれしかば、城兵防ぎがたきことをしりて城をのがれさらんとす。このときにあたりて吉信擒(とりこ)となるといえども、乙部こころざしをあらためて伊忠に降参し、吉信が助命をこひたてまつりしかば、ゆるされてともに伊忠に附属せらる。
のち伊忠吉信が忠士たらむことをしり、こふて御麾下に仕へしむ。
7月3日三河遠江両国の郡代となる。

元亀3年(1572)12月22日、三方原合戦のとき、吉信濱松城の御留守にあり、合戦の期にいたりて櫓にのぼり、其様子をうかがふに、御味方利あらずしてあやうかりしかば、ただちに戦場におもむき、東照宮に言上しけるは、敵兵をみるにもっともおほく且かさみて軍勢きそひすすむ。御味方はあしなみあしし。早く濱松城に入御ありてときを待たまはむにはしかじといふ。
このときおほせありけるは、いま城下の合戦に、勝負を決せずしてしりぞかば、敵いよいよ力を得てのがるることかたかるべし。しかるにおいては退くとも何の益かあらむ。ただ敵軍にはせ入て討死すべしと。すでに御馬をすすめられ、鐙をもって御馬取を蹴させたまふ。
吉信馬より飛おり、御馬の轡にとりつき、君御身を全うせさせ給はば、のち時をえさせ給ふ事もあるべし。ねがはくばひとたび御帰城ありてながく昌運をひらかせたまふべしと言上す。
かさねておほせありけるは、たとひしりぞくといふとも、敵兵追きたらばのがれがたからむ。いさぎよく討死せんにはしかじとのたまふ。
吉信又諫めたてまつりていはく、敵もし御あとをしたはば、某(それがし)此所に踏とどまって防戦し、君に代りたてまつり討死をとぐべし。しからぎ危急をのがれ給ふべしといひつつ、御馬を濱松の方へ引向、刀のむねにて3頭をむちうち、とくとはしらしむ。
敵兵これを見て大軍を率いて追事急なり。ときに吉信与力僅に25,6騎をしたがへ、敵中へ駈入て聲高に御名を称し、十文字の鎗をもって力戦し、敵兵2人を突ころし、終に討死す。年55。法名行誉。
そののち東照宮吉信が忠死をあはれませ給ひ、三河国額田(ぬかた)郡山中法蔵寺に石碑を立しめたまひ、信誉徹忠と號し、月拝を命ぜらる。
妻は松下石見守之綱が女。


小楠先生。『四戦紀聞』が戦死者名を夏目長三郎と記しているのはどういうことなのでしょう。「長三郎」は「次郎左衛門吉信」と同一人物でしょうか。

念のため、深溝(ふこうず)松平主殿助伊忠(これただ)の『寛政譜』の該当箇所を見る。

このとし(永禄6年 1563)一向専修の門徒蜂起し、大津半右衛門某、夏目次郎左衛門吉信、乙部八兵衛某額田郡野羽城(のば)郷の古塁にたてこもり近郷を略す。伊忠しばしばいどみ戦ひしに、乙部志を改めて伊忠に内応し、終に彼塁を攻めやぶりしかば、大津は針崎にはしりて賊兵に加はり、夏目も囲をのがれんとせいかども遂に捕へらる。
伊忠使いをはせて其よしを注進しければ、夏目は世に聞こえし勇士なるに、伊忠日あらずして其塁をやぶり、しかも彼をいけどりしは神妙の働きなりとて、おほいに感じたまふ。
乙部八兵衛伊忠に申やう、某(それがし)かねて夏目と交り深し。このたび同じく賊徒にくみせしもこのゆへなり。しかれども其塁のたもちがたからんことをはかりしり、夏目が命を助けむとてこそ降りたれ。ねがはくばこのたびの功に申かへても、かれをたすけたまはるべしといふ。
伊忠深くその志を感じ、具に其よしを申ければ、すなはち2人ゆるされて伊忠にたまはる。伊忠これを扶助すること2年ばかりして、また御前に参りて、およそ忠義武略の士をえらびて君にすすむるは臣たるの任なり。某夏目がひととなりを見るに勇にして忠あり。御家人になされむには忠功抜群たるべしと申ければ、伊忠が忠志を御感あり。すなわち夏目をめしかへされしに、はたして三方原の御危難にのぞみ、忠死をとげしこと、ひとへに伊忠がよく人をしりて推挙せしによれり。
乙部はながく伊忠が家臣となる。



小楠和正さん(浜松在住・郷土史家)から
               
西尾忠久

『寛政重修諸家譜』の夏目次郎左衛門吉信と『四戦紀聞』の夏目長三郎とは同一人物か、とのお問い合わせですが、私は別人ではないかと考えます。

理由は『四戦紀聞』は、夏目長三郎を三方ヶ原の戦死者を56人列記した中の1人として扱い、夏目次郎左衛門吉信は別のところで下記のごとく記しているからです。

時に浜松に留め置きたる夏目次郎左衛門正吉(或は吉信に作るは非也)、危きを知って馳せ来りけるが、馬より下り立って、神君とって返し戦はせ給うを、強く諫め奉り、臣御名をかりてここに戦死すべしとて、家来の長畔助九郎等をして、御馬の口を浜松の方へ向はせ、鎗の柄にて駿馬の汗溝を敲きければ、飛出して浜松の方へ馳さす。
夏目則ち手勢二十余人勇を現し遂に戦死す。


ただ、夏目次郎左衛門家の家譜に長三郎という者が見あたらないのは不思議です。


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