●〔伊兵衛〕から〔平蔵〕へ

 ほぼ一年前から開設しているホームページ[『鬼平犯科帳』の彩色『江戸名所図会』]http://homepage1.nifty.com/shimizumon/ にあげておいた「平蔵の嫡男・宣義の年表」が目にとまったとかで、長谷川家の三人の平蔵――宣雄、宣義、宣昭をスケッチせよと編集部から指示がきた。
 長谷川家の本来の通称は〔伊兵衛〕で〔平蔵〕ではない。宣雄が七代目を継いだために〔平蔵〕となった。
 平蔵宣雄は四代・宣就の三男・宣有の一人っ子だった。宣就には男子が三人いた。すなわち五代目を家督した伊兵衛宣安、40代のはじめまで居候をしていて母方の同朋頭・永倉家へ養子へ入った次男・正重、そして病身で養子の口もかからなかった宣有である。
 平蔵宣以の実の祖父・宣有も病身であったが、その父・宣就も番についたり休んだりで健康体ではなかった。長谷川家の当主は四代目・伊兵衛から六代目・宣尹まで病魔に苦しんだ。
 したがって五代目・伊兵衛宣安のまさかにそなえて、病気がちな宣有が家にとどめられていたともいえる(そのまさかは六代目・宣尹で現実のものとなったのだが)。
 スペア要員のこの宣有の看護係をしていた女性が宣雄を産んだ。備中松山藩(高梁市)の水谷家で百石を食んでいたが、主家が取りつぶしになったために浪人をしていた三原七郎兵衛のむすめである。水谷・松山藩の改易は元禄6年(1693)であった。
 余談だが、この松山城の受け取りを命じられたのが播州・赤穂藩で、首席国家老・大石内蔵助が総指揮官としてことにあたった。
 大石は、水谷家の対処ぶりから多くを学び、8年後の逆の立場のそれの資にしたはずである。
 水谷家の藩士だった三原七郎兵衛のことを高梁市教育委員会へ問いあわせたところ、たしかに存在した仁で、多くの中級家臣が屋敷を与えられていた柿の木町に居住していたと教えられた。
 三原七郎兵衛がむすめを帯同して江戸へ下ってきた時期は不明だが、禄を離れた元禄6年に3歳だったとすると、宣雄を産んだ享保4年は29歳。浪々の家庭環境から嫁ぐこともかなわなかったとみてよかろう。宣雄が生まれたとき七郎兵衛は存命していていて祝ってくれたかどうか、このあたりのことは一切不明のままだ。
 想像だが、宣雄の生母は、浪々の育ちとはいえ、武家のむすめとしてのしつけ・教養を教えこまれていたろう。しかも5万石の小藩での百石は、中・大藩の7百石、千石取りにもあたる。教養の水準はかなり高かったとおもう。宣雄の生母がいつまで長谷川家にとどまったかはわからないが、彼女が宣雄のしつけにあたったことは容易に推察できる。
 というのは、宣雄の伯父にあたる五代目・宣安はいささか変わった仁で、正妻を娶らず家女(召使い)に子を産ませていた。のちに六代目となる権十郎宣尹である。権十郎は宣雄より5年早く生まれていた。武士の子弟の教育・しつけは家女にはむずかしい。で、宣雄の生母がそれにあたったとみるのが至当であろう。宣雄の質素、周到、配慮……はそのたまものとみたい。


●宣雄の真妻と正妻
 宣雄の年譜をかかげる。

享保4年(1719)
延享3年(1746) 銕三郎生(宣雄28歳)
寛延元年(1748) 宣尹の養子。婚姻
   〃 西丸書院番士(30歳)
宝暦8年(1754) 9月15日小十人五番組頭(40歳)
明和2年(1765) 4月11日先手弓七番手組頭(47歳)
 〃 8年(1771) 10月17日火盗改メ助役(53歳)
 〃 9年(1772) 3月6日本役(54歳)
安永元年( 〃 ) 10月15日京都西町奉行
 〃 2年(1773) 6月22日卒(55歳)

 年譜の2行目の銕三郎がいうまでもなくのちの平蔵宣以(鬼平)である。小説では、行儀見習いにあがっていた巣鴨村の大百姓・三沢家の次女・園となっているが実際はどうだったか。
 長谷川家の知行地は、千葉県山武郡成東町寺崎 220石、同郡九十九里町片貝 180石で、あわせて 400石であった。が、成東町寺崎には干拓すれば新田が開ける余地があった。開いた新田については幕府は黙認する。そこで長谷川家は居候・宣有の子で同じく厄介者でもある宣雄を寺崎へおくりこんで指導・監督させたとおもう。そのときに寄宿したのが寺崎の名主・戸村五左衛門方の離れだったとする。食事の世話や洗濯にあたったのが同家のむすめ……ごく自然の成り行きで懐妊。寺崎にはそのようないい伝えがのこっているが、明治以後、戸村家が古文書を果樹園や養蚕に転用して記録が消滅してしまった。
 新田開発に尽力した報償として、長谷川家から三反の田畑が村へ寄贈され、寺崎ではいまでもその村有地からのあがりで昭和40年ごろまで、年に一度、村をあげての宴会をつづけていた。
 『寛政重修諸家譜』編纂のために宣義が寛政11年に幕府へ提出した『先祖書』には、平蔵宣以(鬼平)の出生地は「上総」でなく「武蔵」とある。懐妊した戸村家のむすめは赤坂・築地の長谷川家へ引きとられて、そこで出産したようだ。このとき三原七郎兵衛のむすめ――宣雄の生母はまだ長谷川家にいたろうか。宣有は生存していた。
 さて、六代目を継いだ権十郎宣尹も妻帯もかなわないほどの病身で、番方(武官)勤務もとぎれがちだった。山村育ちの健康な女体から生まれた銕三郎(のちの平蔵宣以)へ長谷川家の期待が寄せられた。
 寛延元年(1748)正月10日、六代目権十郎宣尹がみまかった。享年34。急きょ、宣尹の妹が養女にされ、これと従弟・宣雄をめあわせることで家名存続の案がとられた。宣雄の妻となった従妹も寝たきりのことのほうが多くて家政がとりしきれる身ではなかった。そうでなければ銕三郎の生母が同じ屋根の下で暮らせるわけがない。小説では、園は巣鴨の実家へもどされたとされているが史実はそうではなかった。生家は真言宗の寺崎の女性は、平蔵宣以が没する4日前に長谷川家から菩提寺・戒行寺(新宿区須賀町9 日蓮宗)へ葬られたばかりか、宣以の指示により、[興徳院殿妙雲日省大姉]りっぱな戒名を贈られた。有能な武士へ育てあげてもらった平蔵宣以の感謝の気持ちのあらわれとみるか、正妻でもないのに備中守だった宣雄の勲位にあわせたか。
 結婚3年目に没した正妻のほうは、[秋教院妙精日進]あっさりした戒名。倹約家・宣雄らしい処置といっておこうか。本妻に対する彼の感情のありどころもわかっておもしろい。
 さて、宣雄が能吏だったことは、それまでの長谷川家は両番(小姓番組と書院番)の家柄とはいえ歴代ヒラのままで終わっていたのが、宣雄の代に小十人組頭、さらには番方のあがりともいえる先手弓組頭はもとより従五位下備中守へ叙勲、京都西町奉行にまでのぼりつめたことでも証明される。
 宣雄の火盗改メとしての手柄に、安永元年(1772)2月の目黒の行人坂・大円寺放火の犯人逮捕がある。江戸の四分の一近くを灰にした火事なので、功績は京都奉行下命の下地となった。犯人は高位の僧衣を着ているにもかかわらずひびわれた素足のかかとを不審がられて捕まった18歳の若ぞうだったが、この探索に息・銕三郎(のちの鬼平)が手を貸していたふしもある。
 宣雄がやったことでまだ解明されていないことがある。宣以の妹として記録されている二人の養女の意図が、それ。上は高崎藩家臣・三木久太夫忠位のむすめで、20以上も齢上の水原近江守保明( 200俵。のち 400俵)の後妻へ入り長子を産んだが、その子が不行跡ゆえの遠島に立ち会うまでは生きていなかった。三木忠位を高崎図書館で調べてもらったが、さほど高禄の士でなかったか記録がないとの由だった。
 下は朝倉仁左衛門景増( 300石)のむすめで、三木忠位の女が三人目の妻として景増へ嫁してきたとき、前妻の子の彼女を宣以が引きとり育てた。三宅半左衛門徳屋(廩米百俵)に嫁したが子ができず、離縁されてもどって平蔵宣以の厄介になった。朝倉景増は先手弓二番手組頭や火盗改メをつとめたのちに駿府奉行へ栄転した仁だが、弓二番手はのちに宣以が組頭に抜擢着任した組で、宣雄と宣義のそれは弓八番手。
 どちらの女性の場合も、宣雄の政略的意図があったと推察しているが目下は調査不足。ただ宣以の息・宣義の嫁は永井亀次郎安清の養女だが、生家は浅草・橋場の石浜神明の神職・鈴木大領。永井安清の実母は三木久太夫忠位のむすめの一人……となると再度、高崎の郷土史家に教えを乞い、かつこの婚姻を手配した宣以の真意をさぐりたくなる。

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