大江戸線[春日]駅を文京区役所側へ出、春日通りと交差する436号(通称・千川通り)を北へ800メートル行くと右手に、堀帯刀の菩提寺・喜運寺(文京区白山二丁目10)がある。
堀帯刀秀隆(1500石)は、長谷川平蔵の前任の火盗改メで、与力筆頭の佐嶋忠介はもともとこの仁の下にあって「忠介で保つ堀の帯刀」とはやされた。
『犯科帳』の前半では「なかなかの腕きき」([密偵])と評価されていたが、後半にいたると、
|
 |
なにしろ、堀帯刀は、盗賊改方の特別手当として幕府 が支給する役料までも、「あわよくば……」おのれのふところへ仕まいこもうという人物であったから…(「消えた男」)
|
と逆転。帯刀が経済的に困窮していたのは事実だが、それも妾までかこって私腹ごやしに精をだした用人のせいだった。
池波さんが上の史料である、老中首座・松平定信派の隠密の報告書〔よしの冊子〕 中央公論刊、『随筆百花苑』巻8、9を目にしたのは「消えた男」を書いてから7年もあとだから、作家の霊感と推理力のすごさには驚嘆するほかない。
|
|
「堀帯刀は先手の組頭たちの中でもいったいに正直者だが、用人が悪いから自然と世評も悪くなっている。解任されても仕方がないのに、お役をつづけていられるのはありがたいことと思わねばとの評判が立っているよし」
「帯刀は人物はいたってよろしく、馬鹿にする者もいるくらい気もいいよし。だから用人や組下の者にもいいように利用されているよし」
|
同情したくなるほど邪気のない仁みたいだが、用人がわいろを取りこんでいるのが世間でも評判になっているのに気がまわらないのだから組織の長としては落第だ。
先手組頭兼火盗改メをやめて持筒頭に昇進してからもこんなことを書かれている。 |
|
「堀帯刀は、配下の世話をやくのがとにかく嫌いらしい。組下の与力たちが頭へ願いを差しだしても上へ取りつがないので、この三、四年が間、与力たちは帯刀をうらんでいる」
|
家庭事情には同情すべきところがないでもない。徳川の一門、宮石松平の一族の若狭守(2500石)の次女だった最初の夫人は一女一男を産んで逝った。
後室にやはり徳川一門である形原松平の権之助(2000石)の出戻りの次女を娶ったが間もなく死去。三番目の夫人もはやばやと死別したことから、閨房ごとがはげしすぎるからとの陰口もたたかれた。四人目は離別。
持筒頭に栄達した帯刀が組下の者の願い書をにぎりつぶすようになったのは、夫人運・家庭運に恵まれなくて人生に絶望していたからとも思える。
五人目は武田系の室賀下総守(5500石)の四女。初婚。喜運寺の墓標に「秀隆院殿前武衛校尉雄高賢英大居士]と麗々しく刻まれた帯刀の戒名に並び、「円智院殿慧海秀和大姉」とあるのがこの女性。
喜運寺の住職:礒貝師に堀帯刀の墓碑の所在を尋ねたとき、維新でご多分にもれず堀家も落魄したものか、ご存じでなく、墓域はほとんど放置されていた。
その墓標から推察するに、帯刀は長谷川平蔵に先立つこと2年…寛政5年(1793)に57歳で逝ったが、令室のほうはその後も21年間生存して文化8年(1811)に60代初めで没。貧窮の堀家へ嫁いだときに30歳を大きくすぎていたのはなんらかの事情があったからだが、夫婦としてすごせた期間は5年にも満たなかった。
先達の家庭の不運に同情した平蔵はせめてもと、帯刀の長女を妻女・久栄の縁者である万年家(800石)の嫁に世話した。が、よかれと考えてやった好意が裏目に出た。舅の市左衛門が60歳代後半にもなってあろうことか突如として妾に狂い、息子夫婦の頭痛の種になったのだ。
平蔵の先見性をもってしても、老人の色の道はさすがに読みきれなかったようで、おかしい。 |