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よしの冊子2 | |
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該当項目なし |
よしの冊子3(天明8年2月17日より) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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先手の火方盗賊改メの堀帯刀は、いままでに組替えを3度しているよし。組替えの理由はというと、火盗改メというのは外聞もよく、また町へ出向くときには威勢もいいし、とりわけ最近のように米価が高値傾向にあるので、帯刀へ80両や100両遣っても、わずかのあいだに元がとれるというので、われ先に堀帯刀へ賄賂を遣ったせいとか。2度目の組替えは80両を届けて帯刀の組になったよし。ところが次の組はほかから手をまわして100両を贈って帯刀組へおさまったとか。本役で3度の組替えはこれまで前例がない。だいたい、帯刀は金繰りに困っており、組替えをタネに金銀を少しずつ取りつづけているらしい。 で、堀帯刀の評判は悪く、そろそろ解任すべき時期だとの噂。 |
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西尾注: 火盗改メの組頭の役料は40人扶持…1日あたり玄米2斗。1升100文として搗き減りを見込むと1分2朱100文。(1両=20万円だと1日8万)。与力の役扶持は20人扶持…1日あたり玄米1斗。3朱と50文。(換算すると4万。月に120万円=6両弱) 同心の役扶持は3口…1日に玄米1升5合。月に1斗4升(搗き減りを見て換算:月額7万円)。組替えに80両を贈ったとして、与力が1人あたり5両(100万円)10人で計50両、同心1両(20万円)ずつ、30人で計30両、合計80両拠出したとしても、すぐに元はとれる。 (役扶持は松平太郎著『江戸時代制度の研究』。米価は『生業物価事典』) |
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先手・火方改の堀帯刀組与力:大森宗右衛門は、先年お役を勤めたときもほかからまったく賄賂を取らず、町々でもふるまいを一切受けなかったよし。そのほかの与力はお役を勤めて家計を立て直したが、宗右衛門は逆に借金をしたほどだとか。この役は下に通り者(博打打ち)を使っていないと成績があがらないよし。宗右衛門が下谷あたりで通り者を呼び 「その方たちなら悪者のことは熟知していよう、いま、どんなのがいるか」 と尋ねたところ、 「承りましたが、ここではなんですから、まずは茶屋へお立ち寄りください」 料理茶屋へ与力同心をあげ、あれこれ料理を注文するので、宗右衛門が、 「自分はいま腹は空いていないが、注文してしまったのではしょうがない。この料理の代金はいかほどかな」 「とんでもございません。手前どものおごりございます」 「冗談いうな。こちらで払う」 「ほかのお役人さまはどなたもお受けくださいますよ。ぜひ、箸をおつけさすって……」 「もってのほかのこと」と宗右衛門は立腹、 「役人の身でその方たちから接待を受けるなどは、 とんでもないことだ。その方がここでごまかしをするなら、まず、その方からお縄を打たねばならぬ」 その通り者を縛り、料理の代金を自分で支払ったとか。もっともこれは田沼時代のお役中のこと。 さて、堀帯刀組が金銀を取って組替えすることが知れわたったので、いろんな組が手をまわしたらしい。こんど帯刀組になろうとしたのは、右の大森宗右衛門が所属する組で、与力たちが申しあわせたのは、 「組替えのためには帯刀へ賄賂を遣わなければならないが、宗右衛門はどうせ承知すまいから、彼に声をかけないことにしよう」 と、与力同心で金を拠出して百両余をつくった。 で、めでたく組替えがなり、宗右衛門へ割当金を請求したところ、宗右衛門は立腹して一文も出さなかったため、彼の分をみんなで分担してすませたよし。 火方盗賊改メのお役中、与力には10人扶持ずつが下されるので、宗右衛門が組下の同心へきつく申しわたしたのは、 「仕事で出費が必要なら、自分への10人扶持を差し出すから、町々で賄賂を受けとらないうに」 その代わり、悪人を容赦なく縛り、総体に厳しいとのこと。 |
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西尾注: 『冊子』のいうとおり、火方盗賊改メのお役中の与力の役扶持が10人扶持なら、月額は60万円=3両弱。 ただし、精米が1升100文として試算。1升150文が時価なら3割増。1升5合100文なら3割減。 蔵宿の手数料は計算外。 |
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堀帯刀は、寒中もゼゲン縞の綿入れに小倉の羽織を着てブルブルふるえながら炬燵に入っているほどの極貧なのに、用人は女を囲っているほど身代持ち。帯刀は単に気のいいばかりで私欲もないのに評判が悪いのは気の毒だ、と同情されている。 |
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堀帯刀の屋敷の門前に町家から願訴訟人がやってきて待っているとき、敷物を借りているが、その1枚に200文(約1万2千円)もの借り賃をとられるらしい。やはり田沼時代の町奉行みたいだといわれているよし。このほかにもなんのかんのと掛りが多いし、遠国へ犯人逮捕に与力や同心が出張ったときのやり方もよろしくないようだ。 |
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長谷川平蔵は姦物なりとの噂があるよし。しかし時節柄をよくのみこんで、諸事に出費かかからないように計らっているので、町方はことのほか悦んでいるらしい。去年も雪の降る夜、品川辺で賊一人を召し捕ったところ、自身番所へ預ければ、町内の出費も増えようから、その晩のうちに自分の屋敷へ連れてくるように申しつけたそうな。そこで長谷川の屋敷へ連れて行ったところ、夜更けだったけれども、さっそくに門を開けて、白洲みたいなところへ通されると、向こうの障子の内にアンドンが見え、ただちに障子の内から同心がまかり出てきて囚人を受けとり、送ってきた者へ休息していくようにと申したそうな。3畳ほどの屋根つきの休息所で茶や煙草をふるまわれて帰ったよし。そんなわけで町方は悦んでいるらしい。 |
よしの冊子4(天明8年4月10日より) | |
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長谷川平蔵は加役を解かれたよし。先だって、召し捕りものの実際を本弾(本多弾正少弼忠籌ただかず…側用人、のち若年寄、老中)へ申しあげたので、首尾よく本役に任命されるかと期待していたらしいが、加役は予定どおりに解任だったと。 |
西尾注: 解任というより助役は、火災の多い冬場の警戒のためだから、暖かくなると誰も任を解かれる。この助役期間中の作品が「唖の十蔵」「本所・桜屋敷」 |
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堀帯刀組の同心が麹町で町人を縛ろうとして逆に町人の手ごめにあったことを、内密にしていたが発覚してしまい、入牢させられたよし。 |
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堀帯刀の同心が組屋敷にいたとき、表を按摩が通りかかったので、呼び込んで揉み治療をしたところ、座頭がいうに、 「あなたさまのように無理をなさってはご子孫のためによろしくないから、早くお辞めやさい」 と。同心が、 「これもお役のことだから仕方がない」と答えると、 「いや、お役でもいけません」 という。 で、口論になり、按摩を打ちすえてしまった。按摩はますます罵るので、自身番所へ引き連れて、さらに打擲した。このことを堀から申し立ててきたので、同心は入牢、按摩は町預けになったとか。 |
よしの冊子5(天明8年8月30日より) | |
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堀帯刀がいうには、奈良奉行の任期が明けるので、繰上げで自分が任命されると世間ではいっているが、おれには高齢の母親がいるので、遠国奉行にでも発令されたら母が喜ぶまい。この母のためにもどうぞ遠国奉行はご勘弁願いたいものじゃと申しているよし。 |
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ただいままで、京都町奉行の用人は年に100両(約2千万円)ほど、取次は年に40両(800万円)ぐらい賄賂がきたものらしい。ところが去年、池田筑後守のところへ住み込んでいる取次が江戸へ寄越した手紙には、 「去年からたったの3両(60万円)にしかならぬ。 悦んで住んでいる甲斐がない」とあったよし。 |
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堀帯刀のこれまでの勤め方はいいとはいえず、組の取締りがよくなかったことを知っている者は、 「あれでもよい幸せだ。四ツ(午前10時)のお召しでよかろう」 と噂しているよし。 中川勘三郎(忠英ただてる。千石。目付)の様子を知っている者はお目付へ仰せつけられてもよろしい人物といっているよし。事情を知らない者は、 「とんだことだ、小普請組頭からお目付とは」 といっているよし。 |
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本役は、山本伊予守(茂孫もちざね。38歳。1000石。小姓頭取から翌9月に先手弓組頭)か松平左金吾(2000石)か、松平庄右衛門(親遂ちかつぐ。61歳。930石。天明6年から翌7年まで弓組頭)の3人のうちだろう、と申しているよし。 |
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加役の長谷川平蔵は出精して勤めているよし。高慢することが好きで、なににつけてもおれがおれがというらしい。こんども、この春の加役でのおれの勤めぶりがよかったから本役を仰せつけられたのだ、と自慢しているよし。 |
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堀帯刀は先手の同役の中でも一体に正直者だが、用人が悪いから自然と世評も悪い。にもかかわらず御役をそのままつづけていられるのは、まず、ありがたいことと思わねば。解任されても仕方がないのに、との評判が立っているよし。 |
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松平左金吾は加役を仰せつけられたのはいいことだと、人びとがいっているよし。左金吾殿は、去年の米屋打ち壊しの騒動のとき、鎗をもって市中を巡回された人だと噂されているよし。 |
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松平左金吾は、ご老中・定信様とご縁がつながっている方だが、とうからあのくらいには成られて当然の人だ、先手では不足なくらいだと申して、ご老中とのご縁で任命されたとは、だれもいっていないようだ。当然の人事だと申しているよし。 |
西尾注: 松平左金吾定寅は、天明8年9月28日に、先手鉄砲組頭に任命。左金吾定寅はいわゆる久松松平の一族。松平定信は田安家から久松松平一門である白河藩へ養子に出された。家禄2000石の左金吾が職格1500石の先手組頭へ任命されたのは、火盗改メの助役となって長谷川平蔵を監視するためとしか解釈のしようがない。それほど、定信は、平蔵を嫌っていた気配が濃厚だ。長谷川平蔵が同年10月2日に火盗改メの本役に発令されると、左金吾も追っかけるように10月6日に助役に任じられた。 |
松平(久松)左金吾家の墓 |
※墓の所在は品川区 東海寺
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松平左金吾の墓 |
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堀帯刀はむごいことだととも、幸せ者だとも、丁度よい転任時期ともいわれている。帯刀は人物はいたってよろしく、馬鹿にする者もいるくらい気もいいよし。それだから用人や組の者にもいいように利用されているよし。 |
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