|
よしの冊子6(天明8年10月16日より) | |
|
|
|
|
|
殿中にて長谷川平蔵、松平左金吾と御役筋について大いにいい争ったもよう。どちらもきかぬ気の人だから、負けずにいいあったらしい。 |
(出所:松平左金吾の近辺か)
|
よしの冊子7(日付なし) | |
|
|
|
|
|
左金吾の組の同心は30名いるのに、うち11名が病気と称して出仕してこないので、こんなありさまでは、せっかくお役についたのに、欠勤者が多くて他の組から人を借りてこなければならない。これはあまりに外聞が悪い。で、30人全員の家族状況を書きださせてたみたら、11名の者は家族数が多いから、出勤しないのは貧窮のためだろうと見てとって、11名に3両ずつ支度金を渡したよし。そうしたらたちまち11名が出勤してきたよし。手当てをお出しになっても、よくもまあ、全員出勤の実をおあげになったと評判上々のよし。 |
西尾注: 松平左金吾屋敷…麻布桜田下町(現:港区元麻布三丁目) 先手鉄砲第7組 組屋敷……………麻布龕前坊谷(現:港区麻布台一丁目) 左金吾屋敷まで、徒歩二十分。 松平左金吾の墓は、品川の東海寺に現存する。 |
画像内 をクリックすると、拡大画面が表示されます。 | |||||||||||
画像内をクリックすると、要所拡大画面が表示されます。 |
|
|
|
|
|
|
|
上州の百姓が1人、博奕場で殺されたので、堀帯刀組の与力同心が出向いて吟味をしたとき、上州の岡っ引きの栄次がいうには、近郊の金持ちの弥右衛門が加害者だといい、金子20両を取って弥右衛門をゆるし、さらに身代のいい百姓5、6人も加害者だといって金子を取り込んだよし。栄次はその後、召し捕られて江戸表へ送られ、入牢したよし。 栄次の江戸宿の藤田屋がある日、掛りの羽田藤右衛門へ金千疋に鮮鯛一折を持参し、藤右衛門の留守に置いて帰ったよし。 そのあくる日、羽田が藤田屋を根岸(鎮衛)の宅へ呼びだし、 「その方が岡っ引き栄次の金子と鮮鯛を私宅へ持参したのはもってのほかのことだ。入牢申しつける」 と、きめつけたよし。藤田屋がいうに、 「それは人違いでございます。私は昨日はお宅へ参上してはおりません」 羽田藤右衛門が叱った。 「その方に間違いないはず」 そのとき呼びにきた者がいて藤右衛門は中座したが、ふたたび着座し、 「来なかったというなら仕方がない。それではその方へ頼みがある。栄次からの賄賂をことづかった者へ、その方は栄次の宿主なのだから、この目録と肴を返してくれるように。さて、このたびは見逃すが、以後、こんなことがあったらその方に入牢を申しつけるから、このこと江戸宿一同へよくよく伝えるように」 と、きびしくいって帰した。 栄次の手から根岸の用人2人にも300疋と1樽が贈られていたよし。このことが根岸に知れたのできびしく叱られ、早々に目録を返し、樽はすでにいささか手をつけていたので内田屋で酒を買いたして返した。用人どもがいうに、自分たちが外出した留守に妻どもが受けとったことゆえ、今後は妻どもへもきつく申しつけておきます、と約束したよし。 栄次に金子をゆすられた百姓どもも根岸の宅へ呼びつけられ、きつく叱られてから帰村したもよう。栄次は死罪ときまったよし。 |
|
|
|
|
|
|
|
松平左金吾が加役中は役料を40人扶持ずつ下されているが、日々五ツ(8時)前に出勤してきた与力同心へは、宅より弁当を持参するにおよばず、と炊き出しをして食事をあてがわれているよし。 五ツ過ぎに出勤してきた者へは振る舞われないとか。お役についていらっしゃる間は物入りが多いのに、こんなお心遣いまでされては、いよいよ大変。まあ、ご本家がいいから家計のほうは大丈夫とはいえるが。 |
|
|
|
|
|
|
|
本役の与力同心が田舎で出張った節、盗賊ていの者を召し捕り、金持ちの家の多い村方へ行き、盗賊を預ける。預かるのはたまらないと、金子を差しだして、 「ほかの村へどうぞ」 と頼む。昼どきでも身代のよい百姓家では庭で盗賊を拷問にかけ、きびしく責める。それを迷惑がって早く立ち去ってもらうようにと金子を差しだすそうな。 偽役人もいるとのこと。 |
|
|
|
|
|
|
|
田舎は博奕がきびしく止まったようだが、江戸はまだ止んでいない模様。 |
|
|
|
|
|
|
|
下総国香取郡で、盗賊を召し捕ったはいいが盗賊の妻の行き場がなくなったので、そっちで引きうけて善処しろといわれた村役人は難儀のてい。で、その方たちはこれまで村にいた盗賊を見逃していたのだから、その点を咎められるべきところだが、このたびは差し許す。妻のほうは吟味しても盗みには関係がなさそうなので咎めなしだから、その方たちへ預けるから百姓へでも縁づけてやれと申されたよし。 反対できなくなった百姓どもは承知。その捌きを人びとはさすが根岸どのとほめているよし。 |
|
|
|
|
|
|
|
左金吾はつねづね革柄の大小をさしておられるよし。加役(火盗改メ・助役)を仰せつけられて登城された日も革柄だったよし。 |
西尾注: 子どもっぽい見せたがり屋。この仁には、どうもそういう性癖がある。ぼくは、寛政のドン・キホーテとあだ名しているのだが…… |
|
|
|
|
|
|
|
加役を申しつけられたその日から犯人逮捕に働くのがこれまでは普通だったが、左金吾は急には諸事の打ち合わせも終わらない、4、5日過ぎてから捕らえはじめよう、無理に捕らえることもないのだ、といっているよし。これまでの加役とは流儀が異なっている。 長谷川は一体に毒のある人のよし。左金吾は毒のないと噂されている。 |
西尾注: 松平定信と親戚筋の左金吾の、このあたりの持ち上げようは、隠密の「よいしょ」である。 間もなく、定信方の隠密の間でも、左金吾のメッキがはげる。そこがおかしい。 |
|
|
|
|
|
|
|
松平左金吾は加役につくと、家来を江戸中の自身番へ差し向け、 「加役中に左金吾の配下の者と名乗り、町家々々でもし飲食物をねだったり、金銭を無心した者がいたら、召し捕って連行してくるように」 との触れを置き、五人組の印形をとって帰ったよし。江戸中へこれほどにするからには一大決心の上だろう、と噂しているよし。 先達てまでは本役加役の配下の者が自身番へ来たら、小菊の鼻紙、国府の煙草、中抜きの草履を差し出すのが常識だった。そのための費用が1町内で月に5、6貫(1両ちょっと)かかっていたよし。 いまのようなご時世になり、こんなこともだんだんにやんできたので、町内は大悦びのよし。 |
|
|
|
|
|
|
|
これまで加役に就任した当座は、張り切って捕物をしたものだが、ことしの加役はめったに捕物をしないので、かえって気味が悪いと悪党どもも用心しているよし。 |
|
|
|
|
|
|
|
松平左金吾が御先手を仰せつけられたとき、師匠番は松平庄右衛門(親遂ちかつぐ。天明6年から翌7年まで弓組頭。930石)のよし。 庄右衛門が左金吾へ、 「早々のお礼廻りとして、御先手筆頭ならびに師匠番へはぜひお廻りになるように」 と教えたところ、 「いや、拙者はそうはしない。あなたはいまは引退なさっている。引退なさっている方のところはあとまわしでよい、現職の方々が優先だ、引退のお方はいちばん後にまわればよい」 といってのけたので、庄右衛門は、 「それはそれは……」 と絶句して引きさがったよし。 |
西尾注: 庄右衛門は能見(のみ)松平の支流。祖は世良田二郎三郎信光の八男。 |
|
|
|
|
|
|
|
左金吾が加役を仰せつかった当日、殿中で長谷川平蔵がいうには、 「火事場へ出張るときは陣笠。頭巾はだめ。そのようにお心得あれ」 と。 「それは公儀よりのきまりでござるか」 と聞き返す左金吾。 「いや、そうではなく、本役加役の申し合わせでござる」 「それなら、拙者は頭巾をかぶります。公儀よりの掟として文書になっているのであれば頭巾であれ陣笠であれかぶりましょう。が、仲間うちの申し合わせということなら、自分の好きでよろしいではござらぬか。ことに拙者は馬が苦手なので、落馬しても頭巾ならば怪我がくない」 これには平蔵も、 「お勝手に」 というしかなかったよし。 |
|
|
|
|
|
|
|
左金吾は先手組の同役の30人ほどの組頭の前でいうことに、 「拙者、このたび加役を仰せつかった。せんだっての加役の勤めぶりはよろしくなく、いろいろと了見違いもあったから、その方が改めるようにといいつかった」 |
西尾注: 左金吾の前の火盗改メの助役(加役)は、長谷川平蔵だった。だからこれは本役の平蔵を公然と誹謗したことになる。 |
|
||
|
||