よしの冊子5のつづき(天明8年8月30日より) 
一.
左金吾の屋敷は広くて 8,000坪ほどもあるよし。植木好き庭好きのよし。普請も立派で1,2万石の大名もかなわぬほどと。

西尾注:
8,000坪はオーヴァーで、史実では2,500余坪ほどだったらしい。現在の港区元麻布三丁目。中国大使館の敷地と麻布消防署がその跡地。
一.
長谷川平蔵は追従上手だが、学問のほうはダメのよし。左金吾どのと対等にやりあえるほど弁が立つとは思えない。議論で左金吾どのに太刀打ちできるはずがない。殿中でいいあったという噂もあるが、なんのなんの、一ト口もいいかえせることではない。まあ、初日から頭巾と笠のことでいいあったようだが、あれでいい納めだろう。なんとしてもかなうはずはない。長谷川平蔵が左金吾どのへ伺いを立てて勤めるという噂すらあるようだ。
(出所:松平左金吾の近辺か)
一.
与力同心が急に雨に降られて、傘下駄の無心をしても貸さないようにと町々へ触れが出された。ただし、代価を出すなら売ってやるようにとも。同心どもへの手当は当方でまかなっているから、貸すようなことを決してしないようにと。

(天明8年11月6日より) 
一.
左金吾が殿中で話すことには、このごろ、天下に学者は一人もいない。武術者もこれまたいない。歌詠みも天下に一人もいない。歌を詠むなら武者小路実陰卿のように詠むのがよろしい。そのほかの歌は歌ではない。
拙者の娘も先年歌を詠むことになったので、実陰卿のように詠まないのなら無用だといって辞めさせたことだ。これを聞いた者が、最初から実陰卿のように詠めるものではない、というと、最初から実陰卿のように詠めないでは役に立たない、といい放ったよし。
かつまた、絵描も天下に一人もいない。いま栄川(泉)などが上手といわれているが、あれは絵ではない、墨をちょっとつけて山だといい帆と見せるような絵は、ほんとうの絵ではない。絵はものの形をしたためるものだから、舟の帆は帆らしく、山は山らしく見えるように描いたものがほんとうの絵である。法印でごさる、法眼でござると、名称だけは立派でも、ほんとうの絵が描ける者は天が下に一人もいない、といい放ったよし。
その席に山本伊予守もいたが、言葉に困って一言も発言しなかったよし。伊予守は奥の御絵掛である。

西尾注:
山本伊予守(茂孫もちざね。38歳。1,000石。堀帯刀の後任の先手弓第1組の組頭。長谷川平蔵は弓第2組の組頭。
寛政7年5月、長谷川平蔵が死ぬと、松平左金吾はすぐに弓第2組の組頭へ組替えしてきて、組の平蔵色の一掃にはげんだほど、平蔵流を嫌悪していた。
一.
(左金吾は)すべて何芸でも、ほんとうにできる者は天下になしとつねづね申されているよし。
一.
左金吾は、明け七ツ(午前4時)から六ツ(午前6時)までのあいだを、おもに廻っておられるよし。
一.
左金吾は町方にたいへん悦ばれ、町奉行よりは評判がよろしいので、このあとは町奉行になられるであろうとの声が出ているよし。
(出所:左金吾を「よいしょ」する先手組頭あたりか)
一.
長谷川平蔵も負けずに懸命に勤めている様子。ただ心中が苦しくてなるまい。おれがおれがも出まい。おれが負けぬようにと、勤められるであらうと噂されている。
(出所:上記におなじ)
一.
左金吾のさしている大小は、縁頭は手向茶碗に樒(しきみ)の花、目貫に位牌、鍔はしゃれこうべ、栗形(鞘の下げ緒を通すための半円形のもの)が石塔、小柄は名号(仏の名。ふつうは阿弥陀仏)なりとのこと。

西尾注:
なんと悪趣味!!
一.
長谷川は、山師、利口者、謀計者のよし。この春の加役(助役)中も、すわ、浅草あたりで出火といえば、筋違御門近辺にも自分の定紋入りの高張りを2張、さらに馬上提灯を4,5張も持たせた人を差し出す。
浅草御門あたりも同様にしておき、自分は火事場へ出張っているが、3か所や4か所に長谷川の提灯が数多く掲げられているから、ここにも平蔵が来ている、あすこにも平蔵が出張っていたというように思って、町人どもはうまくだまされているらしい。
もっともその提灯が高張りして掲げられているところには与力か同心が出張っているのだから、とうぜん御頭もいるように見える。
だから町火消しなどもきちんと指図に従っている。出費をともなうことはまったく意に介さず、ほかの先手の組頭が提灯を30張こしらえるところを長谷川は50も60もこしらえているらしい。
はなはだ冴えすぎたことをする人ゆえ、まかり間違うと危ないと陰でいう者もいないでもない。
一.
先年、神田御門にあった田沼屋敷の近くで火事があったとき、長谷川平蔵は御城へ断って登城せず、自宅からじかに田沼屋敷へ行き、風の方角がよくないから、御奥向きはお立ちのきになられたほうがよろしいと存じます、私がご案内いたしましょう、と下屋敷まで案内したよし。
自宅を出がけに本町の鈴木越後方で餅菓子をあつらえさせ、下屋敷へ到着する頃あいに届くように申しつけておき、早速右の菓子を差しだしたよし。自宅の者へも、もし火事が大火になった時には夜食をつくって田沼の下屋敷へ持参するようにいい残しておいたので、右の夜食も届き、つづいてふるまったそうな。
じつに気くばりの行きとどいたことだと、田沼も感心したとのこと。
他からは一件もまだ届いていないところへ、平蔵からの鈴木越後の餅、自宅からの夜食が届いたように、すべてかくのごとく奇妙に手や気がまわるご仁らしい。

西尾注:
鈴木越後は、当時、江戸一番との評判の菓子舗。
新しい役に就任したら、同役たちにこの店の菓子を振る舞わないと意地悪をされた。

『江戸買物独案内』(文政7年 1824)
菓子屋


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