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よしの冊子9(寛政元年4月26日より) | |
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上州(群馬県)の大盗人:進藤徳次と申す者、長谷川平蔵の組与力が出張って召し捕ったとか。この徳次は進藤流の剣術をよく遺い、大の手利きのよし。この徳次、手下の者を大勢引き連れ、白昼に大路をあるく大盗人で、評判の者のよし。先日、江戸の麹町で召し捕らえた大盗人もこの徳次の手下だったとか。 |
西尾注: 進藤徳次は、徳次郎とする史料もある。真刀、新稲、新道とも書くらしい。茨城県の金井村(現・笠間市金井)の生まれで、埼玉県大宮宿(現・大宮市)の村はずれのお堂にひそんでいるところを長谷川組に捕まり、処刑されたときは二十代後半だった。剣術は生地に近い石井(茨城県笠間市)の明神社の神職に一刀流をならい、自分の工夫をくわえて真刀流と唱えた。長谷川組が捕らえたときの模様を夕刊フジにつぎのように書いた。 |
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夕刊フジ(平成11年10月9日 掲載コラム)
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長谷川はすべてこのごろ評判がいいところへもってきて、このあいだ播磨屋吉右衛門を召し捕ったので、いよいよ評判があがっている。 |
西尾注: 播磨屋吉右衛門は下谷かいわい(上野近辺)の岡場所の顔役で、十手も預かっていることをいいことに、いろいろと悪行を重ねていた。 |
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ことに長谷川組の与力同心はたびたび本役加役の両方を勤めてきているのでいささかも抜け目なく、とりわけ盗賊や火事のことについては少しもぬかりがなく、その巧者ぶりは比べる者もないみたいである。この時節をとくと呑みこんでまことに一心不乱に打ちはまり、召し捕りもの出精しているので、松平左金吾はかげも形もなきよし。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
西尾注: 平蔵の以前50年間に、火盗改メの職務についた先手34組の就任延べ月数を表にしてみた。
ご覧のように弓2組(長谷川組)の経験月数がダントツである。つまり火盗改メの経験がもっとも豊富な組の組頭へ長谷川平蔵を発令したということは、幕府とすれば、彼を早々に火盗改メの任務に就かせる腹づもりだったと見ていい。 |
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堀帯刀が乗馬を上覧にいれるためにまかり出たよし。ねんごろな上意を頂戴し、ありがたく思っていると吹聴しているよし。帯刀、人物はよろしい様子。 |
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(京橋の)中橋にいた大盗賊のところへ二人の同心がゆき、この盗賊を捕らえにかかったところ、怪力の盗賊は同心の脇ざを引きぬき、一人に傷をおわせたよし。同心も必死に働き、ようやく両人で盗賊を取りおさえ、大家どもを駕によび寄せたところ、大家どもはかえって盗賊に荷担し、混雑にまぎれて盗賊を押さえるふりをして同心を押さえ、盗賊をわざと逃がしたよし。というのも、右の盗賊がその地へ住んでいたたに、つね日頃、この近辺へはほかの盗賊がやってこず、このあたりはしごく穏当だったので、大家どもは盗賊に荷担した次第。なんともふとどきな大家ども、といわれているそうな。 |
(寛政元年5月12日より) | |
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平蔵は加役で功を立て、とにかく町奉行になるつもりのよし。人物はよろしくはないが、才略はある様子。 |
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松平左金吾がこのあいだ四ツ(午前十時)のお召しで登城したところ、加役中、出精し、かつ与力同心も骨折って勤めていることが上聞に達しご満足に思し召しているとの、お言葉のご褒美をくださったよし。これまでの加役にはなかったこと。これは畢竟、愛宕下のご縁のせいだろう。左金吾どのはいろいろとむずかしくいい出し、町々ではそこそこ困っていた。この仁の加役が終わって悦んでいるとは、みんな口ではいわないが。 |
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長谷川平蔵はいたって精勤。町々は大悦びのよし。いまでは長谷川が町奉行のようで、町奉行が加役のようになっており、町奉行は大いにへこんでいるとのこと。なにもかも長谷川に先をとられ、これでは叶わぬといっているよし。町奉行もいままでと違い、平蔵に対しても出精して勤めねばならぬようになり、諸事心をつけていると申されたよし。町奉行もとかく平蔵へ問い合わせているていたらくとか。 |
(出所:町奉行所の与力か同心か)
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西尾注: このときの町奉行は、 北……初鹿野河内守信興 45歳 1200石 武田系名門の依田家から養子。この2年後に、平蔵の銭相場の片棒をかついだことを苦に病んで、病死。 南……山村信濃守良旺(たかあきら) 61歳 500石 在任中に病死した宣雄の後任として京都西町奉行に着任、残された平蔵の面倒をなにくれとなく見てくれた以来の親平蔵派。この4か月後に大目付へ栄転。後任は池田筑後守長恵(ながしげ)。平蔵のライヴァルのひとり。 |
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