よしの冊子9(寛政元年6月3日より) 
一.
長谷川平蔵、もっぱら高慢いたし、おれは書物も読めず、何も知らぬ男だが、町奉行と加役のこと、生得承知している、今の町奉行は何の役にも立たぬ、町奉行はああしたものではない。いかような悪党があっても、町奉行やまたほかの加役を勤めた者は、その悪党を独りのほかはつかまえぬが、おれは根から葉から吟味をしだす。だからといってぶったり叩いたりして責めはしない。自然と白状させる仕方がある。町奉行のように石を抱かせたり、いろんな拷問にかけて白状させることはせぬ、と自慢しているよし。
(出所:町奉行所の与力か同心か)

西尾注:
「拷問はしない」というのは平蔵の主義ではあり、尋問も、まるで相談事をしているようだという記録もあるが、いっぽう、長谷川組に捕まった蕨市(埼玉県)のある男が拷問されているのを見聞したという逸話ものこっている。
一.
松平左金吾がいうに、平蔵はやたらと火付や盗賊を捕らえ、彼らをお仕置するのを大いに自慢しているが、あれは当座の功績というものだ。火付や盗賊が出ないようにするのが本のことだ。たとえば巾着を切ったり、小さな盗みをしているあいだに早く捕らえれば、世の中もおだやかだし、盗賊も軽い罪ですむ、これが本当のご政道というものだ。長谷川のように大泥棒ばかり捕らえるのは、政治の本末を取りちがえている。大泥棒にならないうちに捕らえるのすがほんとうなのだと、高慢な理屈を吐いているよし。



よしの冊子10(寛政元年6月13日より) 
一.
博奕ばかりご禁制で、岡場所遊女などをそのままに放置しておいては、博奕の吟味が行きとどくまい。いずれ、初めは遊び場へ足を入れ、あげく、博奕場へも出入りするようになる。博奕は末、遊所は本なのだから、本からとめるようにしたいものだと噂されているよし。
(老中首座・松平定信の理想主義にかぶれた従兄にあたる松平左金吾の言葉か?)
一.
田舎は博奕は止んだが、江戸では小身のご家人などがいまだにやっているよし。少禄の家は蔵宿(札差し)にもかなりの借金をしてるいから、お切米(春四分の一、夏四分の一、秋半分)が出ても、金を一分(米一斗分)にも替えることができなくて、ただ割符を持ち帰るだけ、博奕でもしなければ金ぐりがつくまいともっぱらの噂。
一.
小石川に住んでいる座頭の悪党が、先日市ヶ谷で召し捕られたときのこと。長谷川平蔵の役所へ引だされた座頭が、与力に会いたいという。で、与力が何気なく側へ寄ったら、しがみつかれ、狂ったように肩やほうぼうへ食いつかれた。同心があわてて十手で座頭を打ちうえて引き離したよし。仲間もなく、自分だけがお仕置になるのは心のこりで噛みついたという。この座頭が働いたかずかずの悪事の一、二の例をあげると、離縁したいと思っている人妻を預かってただちに女郎として売り払ってしまうとか、麹町四丁目の無尽茶屋で日がけ無尽があったとき、店の前であばれるので若い者がとりおさえ、日がけ無尽に来たのなら二階へあがれというと、日蔭無尽は法度のはず、とゆすりをかけたりするよし。座頭は女房連れで浅草馬道の蕎麦屋で蕎麦をとったが、その前に女房のほうが銭箱へそっと代金を入れておく、で、蕎麦やの亭主が蕎麦代を請求したら、銭はすでに払ってある、銭箱にこよりをつけて印をしたのがそうだという。銭箱を改めると、なるほどこよりのついた銭がある、そこで目が見えないのをいいことに、とかなんとか因縁をつけて三分(一両は四分)もゆすりとったとか。女房も悪で、夫婦していろんな悪事をやっていたらしい。



よしの冊子11(寛政元年8月24日より) 
一.
松平左金吾が湯治願を、安藤対馬守(信成。若年寄)へ差し出した翌日、早速に認可された。蓮池御門の当番にあたっていたが、湯治願いが認可されたというので、当番を替わってもらいさっさと退出してしまったのには、なんぞ訳でもあったのか。このごろは湯治場が繁盛して湯女なども多く働いており、放蕩者も入りこんでいる模様なので、病気治療ということにして巡察を、上から内々にいいつかったのであろうか。先手頭の湯治願などは前例がない。だいたい左金吾には痔疾の持病があるが、湯治に行くほどの重症でもないから、きっと何かわけありだろうと。西尾注:先手組の通常の任務は、江戸城内の五つの門の警備である。蓮池門もその一つ。
一.
四谷あたりに先手同心の屋敷の一部を借りていた紀州家中の安藤長三とやら申す武士は放蕩者で、何日も家を明けて不在のことがしょっちゅうだ。あるときなど、仲間どもが訪ねても居ないので出奔届をした。その後、四谷坂町で長谷川平蔵の手の者に召し捕られたとき、紀州家中の者なので仲間か縁者のところへ連れていってほしいと頼んだが、縁者は見つからず、仲間は出奔届を出しており無宿人になってしまっていた。長三がいうには、出奔届のことはまったく知らなかった。留守しているうちに無宿人になってしまい大難儀していると。聞いた長谷川は、それは困ったことだ、といったそうな。
一.
松平左金吾どの、箱根の湯治から帰られたよし。このたび箱根の山を見られて絵を描かれた様子で、いわれるには、「このごろ、栄川(泉)が名人との評判が高いが、どうしてどうして、俺の絵には及ぶまい。正真正銘の山を見ることができたので山の山たるを知って描いた、おれほどに描ける者はおるまい」と自慢。
和歌のこと、天文のことまでも、それはそれは高慢のよし。

(寛政元年9月9日より) 
一.
長谷川平蔵は町奉行を望んでいたところ、池田になられてがっかりしているよし。まあ一般的にいって平蔵の評判はほどよくはない模様。このあいだも湯島で泥棒を一人召し捕って自身番  へ預け、いってきかせたには、明日までに自分の屋敷へ連れてこい。もし今夜火事でもあって混雑したならば、逃がしてもそのほうどもを咎めはせぬ。またただちに捕らえると見えをきり、その泥棒に手拭いは持っているかと聞き、供の者へ申しつけて近所で手拭いを一本買ってこさせ、
[あした日中、手拭いもかぶずにおれがところへ引かれて来るもせつなかろうからこれをやる」
と渡したよし。
長谷川平蔵は仁政を安売りをすると噂されているよし。
一.
長谷川平蔵は、なるほど盗賊を捕らえることにかけては名人のよし。長谷川は父の平蔵が本役をしていた時も用人のような格好であちこち探索に廻っていたとのこと。また父親が大坂町奉行(?)になった時も用人役を勤め、吟味などもして馴れているので、真相を探りだすことがはなはだ巧みで、おれほど上手はあるまいと自慢しているとも。

西尾注:
平蔵の父・宣雄が火盗改メの助役を命じられたのは、明和8年(1771)10月17日53歳のとき。本役の中野監物清方が翌年の3月4日に病死したので、後釜として助役の宣雄へただちに本役を発令。幕府のこうした緊急処置は、その6日前に江戸市中の半分近くが焼けてしまった〔行人坂の火事〕の放火犯を至急に逮捕する必要があったからだ。その放火犯を宣雄の組はめでたく逮捕し、その報償として、宣雄は京都西町奉行へ栄転した。「よしの册子」が大坂町奉行と報告しているのはまちがい。宣雄が火盗改メや京都町奉行をしているとき、平蔵は26歳から28歳で、立派に助手がつとまった。



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