よしの冊子11のつづき(寛政元年9月9日より) 
一.
加役に仰せつけられるはずの左金吾が湯治へ行ってしまわれた。加役になる人が湯治へ行ったからには、湯治から帰ってくるまでは発令にはなるまい、と先手仲間が噂しているよし。左金吾は一体に大気象の人のよし。湯治にも、願いが聞き届けられるまで家人にも打ちあけず、認可されたその日、許可がおりた、さあ出発だといわれたので、家人は肝をつぶされたよし。左金吾が申されるには、とにかく泥棒が多く出るのはよくない、ことに重い科人が出るのは公儀の外聞が悪いからなるたけ出ないほうがいいと。長谷川のほうは、悪い者がいるから捕らえるのだ、悪い者を捕らえないでは、世間が静かにならないといっているよし。どちらも負けずぎらいの仁だからちょうどよいといわれているよし。
一.
左金吾はいろいろ切られているとのよし。ご老中の親類ゆえ、仲間内では恐れられているよし。かえってよくないともいわれている様子。

西尾注:
松平左金吾定寅は、老中首座の松平定信と同じ久松松平の家柄

左金吾は禄高(2000石)も高いので暮らし向きもらくで、組下への手当などもいたってよろしいよし。ほかの先手組の頭は、組下への手当が思うように行きとどかないから、左金吾一人がよろしくやるのは困るといいあっているよし。
一.
左金吾どのの評判はよろしいとも、悪いともいわれているよし。左金吾が申されるには、去年加役を勤め、今年も勤めるので、今年は馴れているので一工夫する、と。

西尾注:
松平左金吾は、平蔵が火盗改メの本役へ発令された天明8年(1788)10月2日の4日後、あたかも平蔵の監視役のごとく、急きょ、助役に発令された。火盗改メの助役(加役)は、火事の多い冬場だけのものだから、翌寛政元年(1789)4月21日には職を免じられたが、さらに同年10月7日、再度助役を買ってでている。平蔵と左金吾の心理戦、宣伝戦は小説になるほどの葛藤であった

左金吾どのは無理なことはいわない。その代わり、たとえ古参であっても理屈に合わないことをいったときには合点しないで反対を唱えると。左金吾は、お膝元が騒々しいのはよくないから、追い散らかしてお膝元さえ静かになればよい、とこのあいだまでにやっと七、八人ほどしか召し捕っていないよし。
一.
番町辺の旗本が知行地へ金を取り立てに家来をやったところ、その家来が帰り道に出会った旅人がいうには、

「私たちが親しくしている宿へお泊まりになりませんか」

というのでその宿へ泊まったが、旅人はいずれも盗賊で、夜中に取り立ての金子を残らず奪い取って逃げたよし。家来は仕方がないので宿の亭主を伴って江戸へ戻った。で、旗本から支配へも届け、その泥棒を捕らえてほしいと願いでた。そのところへ、長谷川平蔵組の与力がやってきて、泥棒はすでに召し取っているという。長谷川は捕り事は奇妙と思えるほどにうまいといわれているよし。

西尾注:
この件を考察した「夕刊フジ」の連載を掲げる


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夕刊フジ(平成11年11月9日 掲載コラム)
一.
平蔵組の同心が、召し捕った盗賊をあやまって逃がしたよし。重罪の盗賊なので、取り逃がした盗賊が三十日以内に再逮捕できなかったら、その同心は辞職ものだとと噂されていた。ところが二十日ほどたって、

「私はこのあいだ逃げた重罪の者だが、やがては町奉行所の者の手にかかるやもしれない、どうせ捕まるならお慈悲深い平蔵様の手にかかったほうが、と思って自首した次第、逃げるときには縛られていたので、その縄をなくさないように大切に扱い、こうして持って参りました」

と、役宅へ現れたよし。
平蔵が他の人へ、

「この泥棒には重い刑罰をいいわたさなければならないが、自首してきたところはうい奴じゃ。だから、こういう者のお仕置の仕方にはほとほと困る」

と頭をかきかき洩らしたよし。

西尾注:
この話をヒントに池波=鬼平流に換骨脱胎したのが、文庫第21巻に収録の「男の隠れ家」の結 末部分である。「男の……」は昭和57年(1982)3月号の『オール讀物』に発表されたが、この話の載った「よしの册子」を収録した『随筆百花苑 第8巻』(中央公論社)が出たのは約1年前の、昭和55年(1980)11月20日だった。



よしの冊子12(寛政元年11月22日より) 
一.
長谷川平蔵だと早く済んで出費もあまりかからない、と町々で悦んでいる様子。先ごろ、捕りものがあり、吟味したところ、行跡がよろしくないので親から勘当を受けているとか。しかも格別お仕置をいい渡すほどのものでもないので、親を呼び出し、勘当を許し、説教してきかせるように申しつけ、科人のほうも呼び出して、きびしく叱り、この後は孝行するように申しわたしておしまいにしたので、親子ともありがたがり、思ったよりも軽く、かつ早いお捌きでありがたい、と評判のよし。
一.
去年中より旧冬この春へかけてたびたび火事があったが、左金吾殿が去年のご加役のとき以来、気がよったから火事があるとのことだった。左金吾どのも一徹の気性で立身はなるまいと思われていたのが、このごろは気を取りなおして、立身でもするか、という気分になられたみたい。左金吾どの気が直ったから、世間の火事ざたでそうぞうしいとの様子。
一.
町方では、長谷川平蔵はいままでにない加役だと悦び、とにかく慈悲深い方だ、といっているそうな。長谷川平蔵が組の者へ申しつけたのは、十手は腰の物と同じと心得て、みだりに抜くことのないようにと。これから先、十手で人を殺めたなどと耳にしたら、それなりの処分を申しつける、と申し渡したので、よくよく手にあまった時でなければ十手を抜かなくなった、と町々で悦んでいるそうな。召し捕った者を自身番所へ預けるときにも、半紙へ割判を捺し、送り状を認めることにしているので、間違いも少なく、手短でよいと口々に噂しているとのこと。
一.
長谷川は頭も切れ、与力同心も先年から勤めてきている者どもで、いずれも名高い士が多く、功績のほどもこの上ない者たちとのこと。しかもこのごろは町でゆすりなどもいささかもせず、まことに潔白のよし。かつては同心の内には、四谷や新宿の女郎を揚げづめにして与力もおよばぬ勢いの者もいたらしい。しかも行きには四谷の自身番へ立ち寄り、女郎へのみやげを貰い、また帰りには自身番にて内へのみやげを貰って帰ったとか。与力にも、吉原で女郎の手を引きながら十手で人を打ったものもあったよし。右のようなあぶれものは当節はなくなり、ひしとかたまり、召し捕りに出精しているもよう。左金吾どのの組には手違いもこれあり、同心の中には暇を出された者いたとか。
一.
捕まった巾着切り(掏摸)どもはみんな(水替人夫として)佐渡ケ島へ送られるので、なるたけ捕まらないように心がけた。もし捕まりそうになったら、没義道(もぎどう)であれなんであれ、かまわずに引き切って逃げることにしているよし。そんなことだから、このごろは掏摸が手荒くなって長谷川組の与力や同心がこぼしているよし。
一.
手先組の与力たちが、鉄砲の稽古のために与力仲間でいくらかずっ分担金を出しあって、射撃上手の浪人たちを師匠格として雇うことにしたら、とは左金吾どのの発案だが、それではこれまでは鉄砲撃ちはどうしていたのだ、これまでの訓練は無駄骨だったのかとか、浪人者たちよりも御家人の中に師匠になれる射撃上手者がいくらだっているはずだとか、いろいろ議論が出、けっきょく、浪人案は中止になったよし。そんなことで、江目純平、斎藤庄兵衛などへ弟子入りする者が出ている模様。先手の柴田三右衛門よりも斎藤庄兵衛を頼りにしていて、与力同心がみなみな弟子になった模様。庄兵衛は極貧で、蔵宿(札差し)棄捐も大分あって、年賦にしてもらっていたところ、家督して以来初めて二十両という金を御切米(注・春に4分の1、夏4分の1、秋2分の1に区切って渡されるから切米という)の売却代金として受けとったと悦び、その上に柴田の組弟子になれたので、暮れには柴田から銀(南鐐二朱銀? 二分=五万円前後)二枚、組から十枚(二両二分=五十万円見当)も来るだろうと楽しみにしていたところ、柴田からは塩引き一尺、組からは鴨一番が来たきりなので当てが大外れ。さても武芸は金にならないものだが、そうはいっても師匠は出精して教えなければならない、まあ、そんなものかと笑っていたそうな。
一.
先手の松波平右衛門(正英。68歳。鉄砲組頭。700石)組では、左金吾どのが紹介した浪人者を師匠にして稽古しているよし。乗馬の訓練も始めたところ、組の中には地借りもいて不承知なので、同心の地面を借りて馬場をこしらえたよし。
一.
先手の中山下野守(直彰。弓組頭。500石)は、同心に芝を射させたので1人につき七両ずつかかったので、これでは続かないと止め、百射に切りかえたよし。百射だと2分ずつですむ模様。どちらにせよ、このごろは先手頭もこんな調子でいろいろと物入りが多く、与力同心も出費が重なっているらしい。
一.
長谷川平蔵掛りの養育地(人足寄場)が六万坪に出来たので、諸組から同心を11人雇ったとか。平蔵はなにかと工夫をしているらしいとの噂。
一.
石川島の養育地(人足寄場)については、長谷川の努力は大いに有りがたいことだ、行きだおれなどもいなくなった武家屋敷でも町でも悦んでいるよし。このことについて、平蔵は与力同心の人員が不足なので、与力1人、同心11人を増員したとのこと。与力は中山下野守(直彰。弓組頭。500石)組の中山為之丞という者。もっとも与力が5人の下野守の組は大いに迷惑と感じて平蔵の要請を一度は断ったらしいが、為之丞はできる人物なので、平蔵にたってと望まれ、よんどころなく移籍させたらしい。もっとも為之丞は火盗改方の与力としてもできる与力らしい。
一.
長谷川平蔵組へ移籍した中山下野守(直彰。弓組頭。500石)組の与力:中山為之丞は、大島流の鎗を得意としているよし。大島流では為之丞ほどの遣い手はいないといっているよし。先だって加役を勤めたときに中間を捕らえて手を斬られた男のよ。為之丞はいたって人のかわゆがる(人望がある)男のよし。中山下野守組の与力の定員は5人なので平蔵の要請を断ったが、強引に引き抜いてしまったらしい。

西尾注:
中山組が火盗改メの任についた記録はない



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