よしの冊子13(寛政2年3月21日より) 
一.
松平左金吾どのが同役方のところへ参られた節、これは老中・(松平)定信侯の手製のものだといって鰹の塩辛を差し出されたよし。定信侯のご領地の白河には海はない。(定信の越中守にかけて)越後でなら鰹が漁(と)れることもあるかもしれないが……。ご老中が塩辛なんぞをおつくりになるはずがないことは見えすいているではないか。左金吾どのとしては、ひけらかしたいのだろう。ありようは、どこかの藩からのご老中への献上品のお裾わけを貰い、それを自家製塩辛ということにしたのだろう、ともっぱらの噂。
一.
佃島の無宿人の人足寄場のことはいろいろと話題にのぼっているが、どうせ長つづきはすまい、まあ、発案者で運営責任者の長谷川平蔵が担当している期間だけのことだろう、との声が多い。無宿人どもも、なーに、きついことはない、長谷川のところへ6年の年季奉公へ行ったとおもえばいいのだと申してるよし。
一.
長谷川は島奉行というのに任命されたよし。

西尾注:
平蔵が貰った辞令は、先手組頭として火盗改メをつづけながら、人足寄場の〔取扱〕を命じるといもので、この隠密の報告書がいうような〔島奉行〕ではなかったが、世間では〔奉行〕と俗称していたのかもしれない。 平蔵の後任の村田鉄太郎昌敷(まさのぶ)は〔寄場奉行〕として発令された。


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夕刊フジ(平成11年11月23日 掲載コラム)
与力の佐藤某も以後は島掛りに命じられ、10人扶持の役料(原米、1日5升。1升= 100文とすると2朱=2万5000円。年に912万5000円)が決まったらしい。そうなったら(牢獄奉行の)石出帯刀がおもしろくなかろうとの噂されている。毎日佃島を見廻る与力同心はそっちで飯などを炊いてもらい(もっとも米は持参)、ほかにも弁当などを持参するわけだが、出費がふえて困ると愚痴っているよし。無宿島はとてもじゃないが続くまい、とこの節は長谷川平蔵の評判が悪いそうな。(初年度の、米500俵、金500両の)お手当金ではの不足で、平蔵はいろいろと工面しているようだが、それぐらいのことではなかなか続くまいといわれている模様。



よしの冊子14(寛政2年7月24日より) 
一.
筒持(持筒頭 もちづつがしら)の堀帯刀は、組から差し出した願い書なども上へ取り次がず、とにかく世話をやくのが嫌いらしい。組にも家柄のいい与力などもいることはいるが、3、4年前から与力たちが頭へ願いを出しても帯刀が上へ進達しないので、与力たちは恨らんでいるらしい。
一.
森山源五郎が大番筋から徒頭を仰せつかったのは、まことに厚恩、ことに莫大な足高(たしだか 役料と禄高との差額)も入るくせに、自分では先手頭を望んでいたらしく、徒頭では不足とのこと。「人は足ることを知らざるを苦しむ」と昔からいわれているのは、なるほどもっとものことと笑われているよし。

西尾注:
この森山源五郎孝盛は長谷川平蔵のライヴァルというか、老中首座・松平定信へ平蔵の悪口を吹き込んだ気配が濃厚である。というのも、森山は冷泉家の門人で、短歌が詠めたために、学問好きの松平定信が引き立てたのだ。『鬼平犯科帳』では、平蔵の後ろ盾は丹後・峰山の藩主・京極備前守高久(1万1000余石)となっているが、森山源五郎の書きのこしたエッセーでは、平蔵の死後、火盗改メの地位を手に入れた森山と平蔵を備前守が評し、「森山は王道、平蔵のやり方は覇道」といわれたと自賛している。記録を調べてみると、火盗改メとしての森山の実績は、はるかに平蔵に劣っているのだが。ちなみに、この寛政2年、平蔵45歳、森山53歳、京極備前守62歳。
一.
勘定奉行と吟味役が集まった席で、長谷川平蔵から提出されている(人足寄場の臨時出費の)議案が審議され、一同不承知との所存であったが(勘定奉行の)柳生(主膳正久通。600石)が「越中殿が、平蔵も出精している、とおっしゃっているから、幾分かは認めてやろうか」といったので、列座の者もなるほどと合点したが、(佐久間)甚八(茂之。廩米100俵。寛政2年3月から勘定吟味役にのぼる)一人だけが承知しない。「自分はご老中から、よく吟味するようにと仰せられて今の役職に取り立てられているので、自分が納得できないことを無理に承知とはいえない。もしみなさんが自分に賛成してくだされないならば、自分一存でも上申書を上程する」といったそうな。そういう甚八のいい分はもっともだが、しかし甚八もご老中:定信の信頼がいたって厚いから、恐れることなく自説をいえたのだ。そうでなくては、あれだけの理屈を列座の中で主張することはできまい、と噂されているよし。
一.
柳生(主膳正久通)が長く勘定奉行の座にいることを、(佐久間)甚八(茂之)はかねてから不承知に思っていたよし。ほかの者たちは、柳生はご老中:定信に受けがよいからと遠慮しているが、甚八は、「自分もご老中から御贔屓をいただいているゆえ、柳生に遠慮ばかりしてはいられない」といっているよし。甚八は人をそしるような男ではないが、といって  君子というわけでもない。このごろは人からあれこれ悪くいわれている様子だ。もっとも役人衆は、定信侯の近くでは甚八の悪口はいわず、逆に褒めているとのこと。

西尾注:
こ柳生主膳正は町奉行を経て、天明8年(1788)9月から勘定奉行を勤めている。佐久間甚八は、この時63歳。普請役、禁裏御入用取調役などを経て、安永8(1779)年に勘定(46歳)、寛政2年3月から勘定吟味役。



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