よしの冊子13(寛政2年3月21日より) 
一.
水戸様が上野(寛永寺)へ御参詣になったときの供侍のうち、合羽箱持ちどもが博奕を始めたところを平蔵組の同心が召し捕ったよし。平蔵がちょうど廻ってきてことの次第を聞き、さっそくに水戸へ掛けあったところ、ご三家方の身内の者には手を下さないという規則だが、博奕の現行犯だから組の者も逮捕したのだろう。しかし、この者どもは町日雇いと見える者で、その口入れ屋へ渡す所存。口入れ屋へ不届きの赴きをいい渡したあとで、お引き渡しになるのがよろしかろう。軽い者たちゆえ、いま召し捕って、ご行列から外し、口入れへ渡しましょう、と引き立てた。翌日、水戸侯の上屋敷へ出向き、「昨日は組の同心がご行列の人数のうちを、お許しも得ないで召し捕り、はなはだ恐縮しております。もし、なにかのご沙汰がおありなら、よろしくお頼み申します」と挨拶したので、水戸側は大いに感服し、「なるほど、この節に火盗改メに任命されたほど人ゆえ、丁寧な取り計らいだ」と褒めちぎっているよし。
一.
松平左金吾が同役に話すときには、なにかにつけて「越中、越中」で、同役たちへも、「役向きのことでいいたいことがあったら越中へ内々に伝えよう」と、いちいちご老中:定信侯を笠に着られるので、同役たちは恐れるとともに困ってもいるよし。他組では当番を助けに行ってもその組の与力が、「横柄(おうへい)じゃ」と叱られるので与力たちも悦んではいないよし。先日、ご老中方がお上りになったとき、与力どもが薄縁の上へつま立っているのは見苦しく失礼でもあると申しきかせるがいい、といったので、同役が、「これは先規をとくと読み返した上のことだから」と抗弁し、与力たちも、「出てきた、先規を改めた書付には、ご三家の方のほかは土下座はしなくていい規定になっている。そんなことも弁えないで、ご老中:定信侯を笠に着てあれこれ口をきかれるのは、あまり知恵のある人ではないな」と噂しているよし。
一.
佐野豊前守(政親。59歳。1,100石。鉄砲組頭。この年10月7日から助役)への役の仰せつけは、ごもっともなこととみんな評判にしているよし。このごろ、先手(の組頭)のうちで、加役を仰せつけられるような人材は、さしづめ佐野だけ、と噂していたよし。ご選定は大当り、とあちこちでいっている模様。
一.
佐野豊前守は長谷川を師匠と頼み、万事問いあわせて勤めて、はなはだ仲がよろしいよし。役向きでも昼夜張りつめている模様。町人どもが召し捕った者を連れてまいっても手間をとらせずに済ませているそうな。役羽織の紋どころを町々へ触れさせるのがしきたりだが、佐野は助役の紋どころは知られぬほうがいいといって、紋どころの書付をまわしていないらしい。佐野はつねづね、自分は落ち度をしでかしたおぼえはない、評定になれば申し開きができるから、評定にしたいものだといっていたところなので、このたびのお役を間違いなくありがたがっているよし。これは松平石見守(貴強? 1,100石)が百日目付へつかれたとき、目付違いを上申する落ち度があったよし。このごろの評判では、松平(石見守、あるいは左金吾?)が御先手に任命され、佐野がまた大坂町奉行に戻る、と噂されているよし。
一.
長谷川平蔵は、無宿島(寄場)ではこのごろ至極困り果てているよし。無宿人どもがなかなか思いどおりに手にのってくれないので、最初の見込みどおりにはいかない模様。それは分かりきったことだ。上の方でもあの案をお取りあげになったのは軽率であったと噂されている。土を運ばせても、おれたちは公儀の人足さまだといって百姓をいじめているよし。紙を漉かせても思うようにできず、内々、江戸の町人の素人に頼んで漉かせているよし。
一.
寄場人足が竹橋内の空き地へきて、勘定所が出した反古紙を切って寄場へ持ち帰ったよし。同心が一人、監督をしていたよし。反古を切っているときにそばで聞いていると、いろいろ小言をいい、人足たちのいうには、どんなことをしてもせいぜい首が落ちるだけのことだ。首が落ちるのをこわがっていてはどうしょうもない、などと大きな口をたたいて傍若無人の振るまいだったよし。なるほど、あれでは長谷川も手にあまろう、が、まあ、ああした者どもだろうともいわれているよし。監督の同心も困ったいたよし。寄場に行っている平蔵組の同心は、いずれも遠方からなので塩味噌まで持参して2、3日も泊まっているよし。4日に一度、5日に一度家へ帰り、また翌朝には詰めているので、用事がいっこうにはかどらず、難儀している。その上、役料は火盗改メ分だけで、余分には出ないので、火盗改メ分としての2人扶持だけでは島通いは続けられない、と愚痴をこぼしているよし。2、3日も泊まると、島で銭を多く遣ってしまうといっているよし。
一.
先手勤め方、その他の組与力同心の勤め方のあれこれの規定をつくろうと、松平左金吾と安部平吉(信富 筒頭。 1,000石。き61歳)が、筆頭:浅井小右衛門(元武。 540石。81歳。56歳から組頭で25年間同職)、二老:村上内記(正儀。 1,550石。74歳。59歳から組頭で15年間同職)、三老:松(杉)浦長門守(勝興。 620石。70歳。55歳から15年間同職)へ話を持ちかけたが、いずれも老衰で、相談相手になってはくれず、貴殿たちでどうにでもいいように頼む、というだけだったよし。先手が担当している御門は総じて出入が多く、持ち物も勝手にもあいなるようだ。御先手から御鎗持へ転役になっても出入り場の役にはつくわけだ。倉橋三左衛門(久雄。 1,000石。この年の8月に御筒持へ転任)が御持になったけれど出入場は、担当しているよし。この際、土方宇源太(勝芳。1,560余石。47歳)を御鎗奉行にして、右の出入り場を持ちながら勤めたいとところどころ拵えているよし(意味不明。土方勝芳が翌寛政3年5月に転役したのは普請奉行)。宇源太はまだ50そこそこの男らしい。あの若い男が御鎗へ行くのはつまりは出入り場を持って行きたいというばかりで御鎗を願うのだそうな。御先手なども人物さえよければ筆頭から順に抜けさせていくのが公儀としても本意であろうに、下のほうから栄転してはみんな気受けが悪くって人びとのおさまりもわるいことだと、左金吾が腹を立てて、人に話しているよし。先記の三老はいずれも老衰で相談をかけても埒があかないから、このごろは安部平吉あたりがおもに世話をやいているよし。このたび御番入りの順でいくと、村上、松(杉)浦、安部、中山(下野守直彰。 500石。75歳)、酒依(清左衛門信道。 900石。73歳)ということになるが、安部ばかりが抜きんでているのはどういうことかといわれているよし。70歳以上ということではあるけれども、70歳以上ならば御番入りこれあるべき者を、と評判しているとのこと。
 *浅井元武は、この年の12月に卒。
 *村上正儀は、この年11月に卒。
 *杉浦勝興は、6年後の寛政8年2月に卒。

西尾注:
筆頭、次老、三老……は、34人いた先手組頭の長老格の面々で、同役たちの取締りと意見の取りまとめ役のはずが、この時代には老齢化がすすんでおり、耄碌3役ともいえた。それでも、先手組頭は番方(武官。制服組)の終着駅といえる地位だから、しがみついていて容易に辞めない。

一.
御先手の一色源二郎(直次。 1,000石)の倅(作十郎直美。34歳)は、馬術が巧みで、上覧にもまかり出、その上お好みで両度上覧も仰いでいるとのこと。しかも源二郎は今年72歳になるので、先日、御番入りした節、これは辞めそうなものだ噂されていたが、倅への沙汰はなかったよし。小倉忠左衛門(正員。 1,200石。75歳)は365日引き込んでいるところ、このたび倅(永次郎正方。28歳)が御番入りしたが、その倅はようやく12歳(先記のように年齢に誤記がある)で、先日のご吟味のときも両度とも急病を理由にお断りを願ったそうな。このたび御番入りした挨拶のために御頭の家へ行けば泣きだすので、お頭も、早々にしてお帰りなさいといい、お礼参りも同役の世話でやっとのことで勤めたらしい。なるほど、ご吟味にも出さないわけだ。あれではご吟味に出ると御番入りはさせてもらえない。だからご吟味のたびに急病ということにしたのだ。これは京極(備前守高久。若年寄。丹後・峰山藩1万1,000余石。藩主『鬼平犯科帳』では、鬼平の後見役)がよくない。ご時節でも得手勝手をすると、京極のことを悪くいっているそうな。
一.
長谷川平蔵が口をきいた奉公人を雇ったら場合は、給金は1両2分(約30万円とも、15万円とも)とあちこちへいって様子。ただし給金は奉公人へは渡さないで、長谷川方へ預け、3月の季がわりに、長谷川から利息を添えて渡してやるとのこと。長谷川が雇い主たちへいうことには、使いなどに出すときは金子を1両より多く持たせないことだ、もし持ち逃げしても1両以下だから長谷川が補填すると。しかしこれは大部屋などではいいが、中間の2、3人も使うところでは嫌なものだ。そうはすまいといいあっているよし。



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