〔大滝〕の五郎蔵について




2004年12月11日(土)  

大滝村について

発信:(滋賀県犬上郡))多賀町役場企画課

お問い合わせの件につきまして、お答えします。
1.大滝村が多賀町に編入された経緯
明治22年(1889)4月1日に町村制が施行されて、多賀、久徳、芹谷、脇ヶ畑、大滝村として五つの行政単位となった。
昭和16年(1941)11月3日、多賀、久徳、芹谷の3か村が合併して旧多賀町となった。
昭和30年(1955)4月1日、脇ヶ畑、大滝村が多賀町に合併された。このときの旧多賀町の人口 6,765人、大滝村 3,685人、脇ヶ畑村 264人。

2.江戸時代の大滝村の人口・戸数など
明治22年に大滝村となったわけで、江戸時代には同村名はなかったので、計算不可能。、

3.池波さんが多賀町を訪問されたかどうかは残念ながら不明。

管理者:西尾からのレス―――

以上は、10月22日、当コーナーに寄せた、朝日CC〔鬼平〕クラスの堀之内勝一さんの、〔大滝〕の五郎蔵の〔大滝〕をめくっての、『侠客』(新潮文庫)p 215の文章により、多賀町役場へ送った問い合わせへの回答です。
池波さんが座右に置いて離さなかった吉田東伍博士『大日本地名辞書』(冨山房 明治38年〜)は、大滝村について、

大滝(おおたき) 東甲良村の東なる山村にして犬上川の源なり、大字富之尾、一之瀬、佐目、大君畑(おぎがはた)等に分れ、山谷方三、四里の広を占め、東嶺は三国岳と称し、江濃勢(注・近江と美濃と伊勢)三州の交界なり。
北は芹谷と峰を隔て、南は小椋谷(愛知郡)と峰を隔つ。其勢州員弁郡に通ずる山径を焼尾(ヤギヲ)越と曰ふ。
○大滝は、犬上明神を滝宮と称し、傍に瀑布あるによる。山槐記、近江名所の一に大滝山と云は是なり。 布さらすふもとの里の数そへて卯の花さける大たきの山〔藻塩草〕 俊成


大滝村を構成した大字・富之尾、一之瀬、佐目など
画像内 をクリックすると、拡大画面が表示されます。



2004年10月22日(金)  

〔大滝〕の五郎蔵の出身地

発信:朝日カルチャーセンター(新宿)
   〔鬼平〕クラス 堀之内勝一さん

近江の国・犬上郡・富之尾は、彦根城下から南へ三里。
琵琶の湖の東岸、二里半のところにある。
このあたりは、近江と伊勢の両国にまたがる山塊の、その山ひだにかこのこまれた山村で、総称を〔大滝〕とよぶ。
江戸からここまで、中山道を約百二十里。
       『侠客』(新潮文庫 1969.03.26)p215


〔大滝〕の五郎蔵の初登場…『オール讀物』1970.5月号
『侠客』サンケイスポーツ連載…1968.10〜1969.09



『侠客』(新潮文庫

〔大滝〕の五郎蔵は〔蓑火〕の喜之助の下から一本立ち。
・〔蓑火〕の喜之助のホームグランドは京都。
  お美代の墓は京都市中の北方の瓜生山の裾。
  配下の源吉にまかせた旅籠〔藤や〕は五條東詰。
               ([1-5 老盗の夢])
・〔井尻〕の直七は大坂から上方にかけて、むかしから名
 のきこえた〔淀〕の勘兵衛の手下で、かつて盗賊だった
 ころの五郎蔵とは顔見知りの間柄であった。
              ([7-2 隠居金七百両])

以上のことから、〔大滝〕の五郎蔵の出身は近江と推定します。


管理者:西尾からのレス―――

うーむ、みごとな推理です。
堀之内さんのご提案で、現・滋賀県犬上郡甲良町大滝も有力候補地の一つに浮上してきました。
京都に次いで、彦根が「とりわけ好き」という池波さんは、東近江を探索しつくしていますからね。

明治19年発行の彦根、大滝あたり
画像内 をクリックすると、拡大画面が表示されます。



2004年02月26日(木)  14:44

大滝(宿)のこと

発信:世田谷の金さん(ジパング倶楽部)

2月24日の講義で、〔大滝〕の五郎蔵の出身地の大滝についての考察結果を拝聴し、全国にわたっての調査に敬意を表さざるをえませんでした。
じつは小生が、以前に福島に勤務していた時、福島市から山形県米沢市へ抜ける国道13号線ぞいの谷間に大滝川が流れ、近くに「大滝宿」という宿場があり、休日のハイキングで立ち寄ったことがありました。
西尾先生のことだから、すでにご調査済みで、五郎蔵の郷里候補としては不適と判定されているとおもいますが、一応、お知らせします。
今回、再確認したところでは、明治初年、当時の山形県令・三島通庸が福島=米沢間に馬車の通れる道(のちに万世大路と命名)を建設したとき、栗子山隧道工事のため、人足宿場を設置したところだそうです。


明治21年(1888)陸地測量部製作

昭和54年までは住人もいたとのことですが、現在は無人のはずです。
(一時、地元のバス会社が手を入れて、観光資源として利用していたことがあるようです)。
13号線ぞいには小さなドライブイン大滝宿と大滝宿入口の大きな看板が健在です。


管理者:西尾からのレス

貴重な情報、ありがとうございます。
「大滝」の地名については、池波さんが座右においていた吉田東伍博士『大日本地名辞書』(冨山房 明治33年〜)の、11箇所から大滝から探しました。

 ・大和(現・奈良県吉野郡川上村)
 ・近江(現・滋賀県犬神郡甲良町)
 ・紀伊(現・和歌山県伊都郡高野町)
 ・越前(現・福井県今立郡今立町)
 ・越中(現・富山県西砺波郡福岡町)
 ・美濃(現・岐阜県不破郡垂井町)
 ・信濃(現・長野県下高井郡野沢温泉村)
 ・武蔵(現・埼玉県秩父郡大滝村)
 ・上総
 ・羽前(現・山形県最上郡小国町)
 ・羽後(現・秋田県大館市)


今日では「郵便番号簿」で検索すると、上記にさらに 7箇所加えられますが、池波さんは、『大日本地名辞書』の教室で読み上げた記述に魅せられ、秩父郡大滝村から採ったと判断しました。



2002年12月18日(水) 17:49

大滝の五郎蔵の出身地・続

発信:学習院・生涯学習センター〔鬼平〕クラス 堀 眞治郎 さん

前に千葉県説と中途半端な山形県説を唱えましたが、祖父江孝男著『県民性の人間学』(新潮OH!文庫)、NHK放送世論調査所編『日本人の県民性』(日本出版放送協会)を参考にして、県民性から再度〔大滝〕の五郎蔵の出身地を推論してみました。
鬼平が盗賊改方を務めていた天明、寛政の頃から 200年以上経過した現代では環境も大きく変化を遂げているので、当然気質も変化しているとは思いますが、まだ脈々と続いているものがあっても不思議ではないと考えています。
〔舟形〕の宗平と〔大滝〕の五郎蔵の親密な関係を考えると、前説と同じく同郷であると私は考えます。
そうすると〔舟形〕の宗平の出身地は現在の、
・山形県最上郡舟形町
〔大滝〕の五郎蔵の出身地は、
・山形県西村山郡朝日町大滝、または、
・山形県西置賜郡小国町大滝
になりますが、舟形町との地理的距離の近さから、取りあえず朝日町大滝としておきます。
山形県人の県民性は上記の参考文献に『人情が深く、人当たりのよい穏やかな性格で、人間関係を大切にする気持が強く、争いごとは嫌いで、万事丸くおさめるのがうまい、他人に対して疑いの気持など持とうとしない』とあります。
五郎蔵が〔簑火〕の喜之助から独立した時に〔五井〕の亀吉と〔ならび頭〕の二頭政治を行ったり、〔小妻〕の伝八、〔牧原〕の富治、千次郎、福太郎らの裏切りに気付かなかったということもこの気質に由来すると考えると理解出来るようにおもわれるのですが、どうでしょうか?


管理者:西尾からのレス

県民性できましたね。堀さんのこのアピールには山形県の方のご意見がほしいところです。
ただ、吉田東伍博士『大日本地名辞書』に載っている、「舟形」は、
・山形県最上郡舟形町
「船形」は、
・千葉県野田市船形
・千葉県成田市船形
・千葉県館山市船形
「舟形」「船形」の混用は、山形県舟形町のそばを流れるのが「船形川」ですから、区別はさほど意味がないみたいにもおもえます。



2002年11月21日(木) 16:02

大滝の五郎蔵の出身地は千葉県

発信:堀 眞治郎 さん

〔大滝〕の五郎蔵の出身地について独断と偏見で考えてみました。
『大日本地名辞書』で大滝の地名は全国で11カ所収録されていますが、現在の千葉県夷隅郡大多喜町としました。
『地名辞書』によれば夷隅川(いすみ)の峡谷に位置し、連なった山々に四方を囲まれた地となつています。五郎蔵という名前から察すると五男だったのでしょうか? 食べる物にも事欠き、口べらしのために出ていったと思います。

千葉県出身説の私の根拠は次の三つです。

一つ目はこの地は古くは大滝、大田木、緒滝とも併用されていたことから、池波さんは盗人の出身地をぼかすための呼び名の一つとして使った。

二つ目は〔舟形〕の宗平との関係です。簑火の喜之助のもとで五郎蔵が修行していた若い頃、何かにつけて宗平の厄介になった、また平蔵の密偵になる時、宗平に諭され決断し、義理の親子の杯をかわしたとありますが、これも同じ釜の飯を食べた仲間意識だけでなく、同郷意識、地縁が大きく作用したのではと推察しました。
宗平の出身地は現在の千葉県館山市船形または千葉県成田市船形と『地名辞書』から推測。宗平の〔舟形〕と千葉県の船形は「ふね」の字が違うのではと異論があるかと思いますが、これはよく混用されることもあるということにしておきます。

三つ目は五井の亀吉との関係です。亀吉の出身地も現在の千葉県市原市五井または千葉県長生郡白子町五井と推測。
簑火の喜之助から許され、五郎蔵が独立した時亀吉と協同で〔ならび頭〕としてお盗めをしたが、このような二頭政治は両雄並び立たずで、賢明な五郎蔵は通常この方策は採らないと思うので、簑火の喜之助のもとで共に修行したという理由だけでは根拠として弱すぎると考え、加えて同郷意識、地縁があったことを大きな要因として考えました。

以下はもう一つの山形県出身説ですが、五郎蔵と宗平の関係に重みを置いて考えた場合にはこちらの方がまともかなと思っていますが、五井の亀吉との〔ならび頭?という言葉の解釈でどうも踏ん切りがつきません。山形説であれば五郎蔵は山形県最上(もがみ)郡真室川(まむろがわ)町大滝の出身、宗平は山形県最上郡舟形町の出身ということで、「ふね」の字も舟形の宗平と同じで苦しい弁解は不要です。
ただ、亀吉とならび頭をつとめたということに、仲間であったということの他に何かがないといけないのではと考えて、敢えて千葉県説を唱えたという次第です。先生にならび頭についてご教示いただければ幸いです。
私が九州の出身ということから来ているのかもしれませんが、同郷意識というのを強く持っているようです。従ってここに示した2説ともそれを大きな根拠としているわけで、現在の若い人から見るとそんなのないよと笑われるかもしれません。


管理者:西尾からのレス

非常に興味深い堀説です。
たしかに、〔ならび頭〕の〔五井〕の亀吉との地縁をかんがえると千葉県説は有力です。ただ、ぼくは、池波さんが座右に置いて重宝したとエッセイでも告白している吉田東伍博士『大日本地名辞書』(明治33年刊)で引用している、埼玉県秩父郡大滝村の次の記述にこだわるのです。
「秩父郡の山奥は、峰々が四方八方に高くそびえて平地はなく、耕すところは焼き畑ばかりである。たつきの困難さは、春から初冬まで、夫婦、子、母が山をへだててそれぞれの場所々々へ別々に庵を結んで移り住み、穀物などの収穫期には、声をあげたり板木を鳴らして昼は猿を追いはらい、夜は鹿や猪を逐うので、明け方まで眠れない。それでも収穫は、半年分がやっとというありさまで、足らないところはトチの実や栗などで補っている……」
この文章に胸を打たれた池波さんの頭に、猿、鹿、猪の文字が焼きつき、
・〔猿皮〕の小兵衛 [7-3 はさみ撃ち]
・〔猿塚〕のお千代 [5-3 女賊]
・〔猿野〕の仙次 [10-7 お熊と茂平]
・〔鹿川〕の惣助 [5-2 乞食坊主]
・〔鹿谷〕の伴助 [18-4 一寸の虫]
・〔鹿留〕の又八 [8-2 あきれた奴]
・〔鹿間〕の定八 [21-4 討ち入り市兵衛]
・〔鹿山〕の市之助 [8-4 流星]
なんて呼び名がすらすらと出てきたのではないかとも推理しているのですが。
とにかく、この件は、さらに〔簑火〕の喜之助に薫陶をうけたすべての仁の出身地を推定してから、もう一度、論議することにしませんか。





必要事項を入力して送信ボタンを押してください。
タイトル
お名前(ニックネーム可)
メールアドレス
メッセージ

  




(c)copyright:2000 T.Nishio All Rights Reserved.