長谷川平蔵について




2004年05月07日(金)

三方ヶ原合戦の武将の戦死者

発信:管理者の西尾

三方ヶ原合戦での徳川方の武将の戦死者を、各文献から拾ってリストにしてみました。

あ行
四戦
紀聞

三河後
風土記
浜松
御在城記
家忠
日記
松平記 寛政譜
秋山甚十郎  
天野麦右衛門政景
三河で50石、関東で 550石
荒川甚太郎 忠勝譜
安藤木工助基能(旗奉行)
石川小大夫
石川半三郎正俊
石原十度右衛門
岩堀勘解由左衛門父子
宇野三十郎政秋
江原亦助
大河内源五左衛門
大久保新蔵忠寄
大橋刑部
大村弥三郎
大村弥七郎安綱
小笠原新九郎康元
小笠原三郎兵衛
小笠原七郎右衛門
小川伝九郎

か行
四戦
紀聞

三河後
風土記
浜松
御在城記
家忠
日記
松平記 寛政譜
加藤九郎兵衛景元
加藤比根丞
加藤源四郎
加藤九郎次郎
河澄源五重経
(源五郎重通成)
河合弥五兵衛
児島源一郎正重
児島与助
児島善四郎
権田久助
近藤久内吉成

さ行
四戦
紀聞

三河後
風土記
浜松
御在城記
家忠
日記
松平記 寛政譜
榊原摂津守忠直
志村弥左衛門秀次
杉浦次郎兵衛
杉山久内
鈴木伝八郎
鈴木又六郎
外山小作正重

た行
四戦
紀聞

三河後
風土記
浜松
御在城記
家忠
日記
松平記 寛政譜
鳥居四郎左衛門忠広

な行
四戦
紀聞

三河後
風土記
浜松
御在城記
家忠
日記
松平記 寛政譜
中根平左衛門正照
中根喜蔵利重
夏目長三郎
成瀬藤蔵正義
野々山藤兵衛政安
関東で 230石のち1530石

は行
四戦
紀聞

三河後
風土記
浜松
御在城記
家忠
日記
松平記 寛政譜
長谷川紀伊守正長
長谷川藤九郎
服部源兵衛保正
原久蔵
原田藤左衛門種友
平井新三郎
堀川彦作
本多肥後守


四戦
紀聞

三河後
風土記
浜松
御在城記
家忠
日記
松平記 寛政譜
松平弥右衛門
松平主税
松山久内
門奈善三郎真友


四戦
紀聞

三河後
風土記
浜松
御在城記
家忠
日記
松平記 寛政譜
山田甚五郎重吉
山田角之丞
米津小大夫政信(旗奉行)


四戦
紀聞

三河後
風土記
浜松
御在城記
家忠
日記
松平記 寛政譜
渡辺十右衛門尉
渡辺新九郎




2004年03月28日(日)  11:57

「波津」発見

発信:相州藤沢宿の秋山大兵衛さん

相良(さがら)藩1万石、田沼意次の領地を静岡県の地図で探していました。
「相良」には港があるということで海岸線をたどり、無事「相良」を見つけました。
「相良」の周辺を見ていると、気になる地名が……。
「波津」です。ビックリ、ドッキリ。
「波津(はつ)」って、たしか、鬼平の義母の名前でしたよね。
池波先生が田沼意次を調べていたときに、この地名を知って、義母の名前として使ったのでしょうか。


駿河湾に面した「相良町」と「波津」


管理者:西尾からのレス

池これは一大発見といえるかも。
継母「波津」は早々と、文庫巻1[本所・桜屋敷]p57、新装p60に登場します。『オール讀物』1968年2月号、連載2話目です。

池波さんはいつごろ「波津」に目をつけたか?
推理その1 長谷川平蔵に着目した――すなわち『鬼平犯科帳』執筆の10年ほど前につくったとおもわれるノート[・長谷川平蔵年譜 ・基メモA]に、長谷川伸師の書庫の『寛政重修諸家譜』をあわただしく写したとしかおもえない、誤解と想像をまじえた家譜が残っています。
『寛政譜』は原則として女子の名前は記さないのに、この池波製家譜では、「波津」と名づけされているのです。


ノ−ト長谷川平蔵年譜の表紙


池波さんによる長谷川家家譜の模写(部分)
宣雄が実父・宣有の弟の位置にあり、
波津は実兄・宣尹(のぶただ)の妹。



史実による家譜(部分) 宣尹の従兄弟だった宣雄は、
宣尹の実妹の波津と結婚した形で養子となった。


ということは、池波さんが相良町の波津を知ったのは、ノート[平蔵年譜]をつくったころともおもえます。

推理その2 池波さんが座右に置いていつも参考にしていた、静岡県が載っている吉田東伍『大日本地名辞書 巻5』(明治35年刊)には、

飯津(はつ) 今相良町大字波津(はつ)、延喜式、榛原飯津佐和乃神社は、波津の牛頭天王なるべしと云ふ。(神祇志料)

ルビを(はず)でなく(はつ)としているのは、吉田博士が机上の調べただけで現地調査をしていなかったともかんがえられます。
『角川日本地名大辞典 22静岡県』(昭和57年刊)は、

はず 波津(相良町) 牧ノ原台地の東南、駿河湾に注ぐ勝間田川河口右岸に位置する。地名の由来は船の泊所(はつるところ)にあるという。縄文時代の波津ノ谷遺跡……(略)……などがある。

(はず)としていますね。「牧ノ原」は、白羽牛、相良牛の官牧場があったための呼称です。
つづく解説文に、ここが元禄のころに田中藩領であったこともあると。そして天領から田沼意次の相良藩領へ属した当初は 1万2000石のうちの 322石の村だったとも。

検証その1 相良町役場の総務課は、「波津」は「はず」と読むのだと。つまり、池波さんが現地へ取材に行っていたら、「はつ」でなく「はず」とルビをふったかも。地図や『地名辞書』だけの探索なら「はつ」とふる可能性が高いですね。

検証その2 「郵便番号CD−ROM」で「波津」を検索してみました。

静岡県 榛原郡 相良町 波津
福岡県 遠賀郡 岡垣町 波津
沖縄県 中頭郡 西原町 小波津

やはり、地図や『地名辞書』で相良町を調べていたときの発見と見るべきですね。



2004年03月25日(木)

武田信玄に使えた長谷川能長

発信:管理者・西尾からのコメント

2003年10月05日の本欄へSBS学苑パルシェ(静岡)の[鬼平]クラスの中林正隆さんが、焼津市総務部市資料編さん室による小川城跡の考古資料調査報告書『小川城』についてリポートなさっています。


焼津市総務部市資料編さん室の報告書『小川城』

同報告書を精読していて、驚くべき記述に出会いました。長谷川平蔵の先祖で、武田方に攻められた今川方の田中城(藤枝)城主だった紀伊守正長は、城を捨てて徳川方へ走り、のち弟藤九郎ともども三方ヶ原で戦死したことは『寛政重修諸家譜』にあります。
ところが、正長の兄弟なのか伯父あるいは従兄弟か甥か不明ですが、長谷川次郎左衛門尉能長というのが焼津市越後島に住んでいて武田の家臣になり、信玄から永地(相伝の所領)を安堵されているとあります(「武田晴信判物」反町十郎文書)。
この能長の子孫が江戸時代、越前福井松平氏の家臣となっていることが、同藩「諸士先祖之記」に記されているともあります。
家名存続のための戦国時代の知恵でしょうか。



2003年10月08日(水) 08:11

家康の人質時代の近習

発信:管理者・西尾

武田の大軍団を前に、駿州・田中城(藤枝市。当時の呼称は徳一色城)を一族21人と郎党 300余人ともに出た長谷川藤九郎正長兄弟は徳川方の陣営に加わります。
そして徳川軍団の一員として三方ヶ原で戦死しますが、頼っていった徳川方の人物推理する手立ての一つとして、竹千代(家康の幼名)が今川方の人質として駿府にいたときの近習たちの年齢をリストにしてみました。
家康の駿府人質時代に縁のできた人物を頼ったと見るのも一つの仮説かと。

●1549(天文18年):竹千代( 8歳 家康の幼名)駿府へ人質。

小姓(7人) 扈従
平岩七之助親吉( 8歳) 酒井与四郎正親(29歳)
平岩善十郎康重(?6歳) 内藤与三兵衛正次(20歳)
阿部伊予守正勝( 8歳) 上田万五郎元次(57歳)
榊原平七郎忠政( 8歳) 高力与左衛門清長(20歳)
石川与七郎数正( ?歳)
(助四郎)
野々山藤兵衛元政(24歳)
ほか 200人余とも。

参考:今川氏研究会編『駿河の今川氏』第三集所載の酒井貞次氏「私説・今川氏家臣団軍団の研究」(1970年代刊)欠けている人物を補充してください。

ついでに、その2年前の駿府行きの途次、戸田弾正少弼康光の奇計によって織田方へ売られたときの従者も添えました(『徳川実紀』ほか)

●1547(天文16年):竹千代( 6歳) 尾張方・織田信秀へ売られる。

小姓(3人) 遊びの友 護衛
天野三郎兵衛康景
(11歳)
阿部徳千代( 7歳)
(のち伊予守正勝)
石川与七郎数正( ?歳)(助四郎)
平岩七之助親吉( 6歳) 松平(桜井)与市忠正
( 4歳)
上田万五郎元次(55歳)
榊原平七郎忠政( 8歳) 金田与三右衛門正房
( ?歳)
江原孫三郎利全など28人
雑兵50余人

もう一つの仮説として、先に徳川陣営に走っていた今川方の武将を調べる必要がありますね。



2003年10月05日(日) 14:33

調査報告書「小川城」

発信:SBS学苑パルシェ(静岡) 中林正隆さん

11月02日のクラスの史跡めぐりで、長谷川平蔵の先祖・小川(こがわ)長者(法栄長者)が住んでいた焼津市小川城跡を訪ねます。
じつは焼津市総務部市資料編さん室が、発掘のすすんでいる小川城跡の考古資料調査報告書『小川城』をまとめて今冬、市販するとわかったので、事前購入してきました。
第1章 第3節の 5ページが「小川の長谷川氏」にあてられています。
『駿河記』巻16志太郡巻之 3「小川」の項に、

 ○長者屋敷 小川の北に当り、三ヶ名不動院の前、田中 の古土囲あり。
  長谷川次郎左衛門尉正宣の屋敷跡なり。


とあることも記されています。


焼津市総務部市資料編さん室刊の『小川城』
明治22年の地図に、小川城遺跡と徳一色城(田中城の前の城名)の
立地を加(色)筆(上掲書より)



管理者:西尾からのレス

長谷川家祖先の足跡、文庫巻 5[女賊]の〔瀬音〕の小兵衛の仮住まいの場所、巻 6[狐火]の〔瀬戸川〕の源七の通り名のもととなっている瀬戸川などを訪ねる11月02日の史跡めぐりがいよいよ楽しみになってきました。
お蔭で、「小川(こがわ)の法栄長者」の長谷川次郎左衛門尉正宣、田中城主の長谷川正長は、当HPの定番になりましたね。



2003年10月05日(日) 14:30

塗り絵・田中城

発信:SBS学苑パルシェ(静岡) 下村 章さん

11月02日の宇津谷峠・岡部町・藤枝市(田中城跡ほか)・焼津(小川城跡ほか)の史跡めぐりのご参考に、藤枝市郷土博物館刊(藤枝市若王子 500 蓮華寺池公園内)「駿河国田中城絵図」ほかをお届けします。
「田中城絵図」は、なんと、西尾先生お得意の塗り絵です。


塗り絵の下絵入り「駿河国田中城絵図」封筒


管理者:西尾からのレス

塗り絵「田中城絵図」は畳1畳ほどの大きなもので、ここへ掲出できないのが残念です。
塗り上げたら、なんらかの表現方法でアップさせていただきます。



2003年08月23日(土) 08:32

鬼平の教訓:長谷川組の手ぬかり

発信:管理者・西尾からの1日1話

 とてつもない史料を目にした。丸山雍成博士『近世宿駅の基礎的研究』がそれ。

丸山雍成博士『近世宿駅の基礎的研究 巻1』(1975 吉川弘文館)

 蕨(わらび)宿(埼玉県蕨市)の子細の研究書だが、中に長谷川平蔵に触れた部分があるのだ。
 寛政 4年(1792) 4月上旬、長谷川組に捕らえられた盗賊の自白により、蕨宿の若者 4人が土地の岡っ引きの案内で縛られ、江戸の平蔵の屋敷への引きたてられた。幸七というのがとりわけきびしく責められて、二度三度と気絶するのを見た、と同道した五人組の者が帰村して報告したのだ。
 幸七はのちに遠島となっているから、共犯者に間ちがいなかったのだろう。が、平蔵自身は平生、「おれは拷問はしない」と広言している。まあ、平蔵はやらなくても吟味方与力や同心が拷問することはあったかも。
 が、推理していくと、報告に誇張があったフシがある。というのは、報告者は、幸七が気絶するところを腰掛(こしかけ。待合所)で見ていたといっている。白洲での尋問なら腰掛からうかがえるかもしれないが、拷問部屋までは見えまい。見てきたようななんとか……の例ではなかろうか。
 ついでに記すと、幸七とともに引きたてられた甘酒屋のせがれ・熊五郎は打ち首になっているから、彼らが盗みに荷担したか、首謀したことははっきりしているのだ。
 ところが、幸七らが処刑されたことを逆うらみした村人が、2年後の寛政 6年に事件をおこした。酒に酔った湯上がりの男が、茶屋で休んでいた代官・野田文蔵の小者2人にからんだために、「無礼なり、長谷川平蔵、野田文蔵」といってなぐりかかったというのだ。
 通りがかりの住職が詫びているすきにからんだ男は逃げた。脇差を抜いて追いかけようとする小者を、若者たちが梯子(はしご)で抜身をたたきおとして縛り、宿役人へ引きわたした。結果は村方が2人へ薬代の名目で3両渡してケリ。
 丸山博士は「長谷川平蔵などの名が、若者たちを刺激した面も無視できない」と付記する。
 出所は地元有力者の日記とのこと。「無礼なり、長谷川平蔵、野田文蔵」の文意を、「無礼者め。おれたちは長谷川平蔵どの、野田文蔵どのの手の者ぞ」といったのだと受けとっておきたい。江戸の平蔵の名は、中山道の二つ目の宿場・蕨あたりへまでひびいていた証拠だ。
 が、平蔵が罪人たちへそそいでいた慈悲深さまでは、日記記録者へ伝わっておらず、引きたて方の問答無用ぶりだけを記憶にのこしていたらしい。
 寛政 4年の件は、手先をつとめた地元の岡っ引きの手荒さが長谷川組のものとして印象づけられたと推察。事件の少ない地方(じかた)では、一度きりの出来ごとをくり返し話題にするし、身びいきもひときわ強いから、言動にはよほど気をくばらないといけない。長谷川組の与力・同心はそこをぬかったようだ。



2003年08月14日(木) 03:58

鬼平の背丈が伸びた?

発信:管理者の西尾の〔ほころび〕報告

文庫巻24[女密偵女賊]を読みかえしていて、

 五ッ半(午後九時)をすこしまわったころ、上野山内からの曲りくねった坂を下(お)りて来た人影が一つ。
 頭から顔へかけて灰色の布(ぬの)で頬(ほお)かぶりをし、着ながしに大小の刀、素足(すあし)に雪駄(せった)という浪人姿であった。背丈は高く、肩幅(かたはば)がひろい。心ある人がこの男の姿を見たなら、
(かなり、武芸の修業を積(つ)んだにちがいない)
 と、看(み)るであろう。
p43 新装p41

この浪人、自ら「盗賊改方、長谷川平蔵」と名乗ります。池波さんは鬼平を創造するとき、松本幸四郎丈を頭において、

 ときに長谷川平蔵は四十二歳。
 小肥(こぶと)りの、おだやかな顔貌(がんぼう)で、笑うと右の頬に、ふかい笑(え)くぼが生まれたという。
文庫巻1[唖の十蔵]p27 新装p29

ほかの箇所でも「中肉中背」とあったようにウロおぼえしていますが、[女密偵女賊]の「背丈は高く」だと、松本幸四郎丈ではなく中村吉右衛門さんの感じになってしまいます。

[唖の十蔵]……1968年新年号『オール讀物』
[女密偵女賊]…1987年12月号『オール讀物』

鬼平の背丈も19年間で10数センチ伸びたのでしょうか。



2003年08月11日(月) 16:35

〔常州小川〕と〔駿州小川〕

発信:居眠り隠居さん

『ベルギー風 メグレ警視の料理』『雑学 世界の一流ブランド』を読みました。ハイカラなことは隠居にはよく分かりませんが、とにかくたいしたものだ、と西尾先生の古今東西におよぶ博学に、改めて感心いたしました。

長谷川家に係る二つの〔小川姓〕を、隠居の身で僭越ですが、私は混乱を防ぐため便宜上、〔常州小川〕と〔駿州小川〕に区別していました。
趣旨は、下河辺氏から小川氏に変った常州在住の〔小川〕と、大和・長谷に移住後の〔小川〕。
〔駿州小川〕については『今川氏家臣団の研究』(小和田哲男著)で明らかになりました。
〔常州小川〕の発祥については『茨城県千代田町史・志築城と益戸氏』の項に詳しいので、以下に紹介させていただきます。

「下河辺政義==中世にいたって志築の地を含む常陸南郡(志築、松延、土田、野寺、市川、玉里、高浜、小川、野田、上吉影等)の地頭となり、この地を治めたのは下河辺政義(益戸氏と称す)である。
政義は古河付近にいた下河辺の庄の庄司下河辺行平の弟で源頼朝が治承四年伊豆に兵を挙げるといち早く兄行平と共にその傘下に馳せて以来、頼朝近臣の一人となった。頼朝の信任最も厚く、また剛勇の士でもあった。鎌倉鶴ヶ丘八幡宮造営の時の巨岩運搬の記録によると「この日畠山重忠と下河辺政義と二人相加ははる。力百人力に向ふ」とあるから、強力無双と言われた畠山重忠とならび称されるほどの武将でもあった。
養和元年閏二月、浮島にいた頼朝の叔父信太三郎先生義広が頼朝に反旗を翻して浮島を立ち下野国に向かって兵を進めたとき、政義は兄下河辺行平と共に古河高野(現総和村高野)の船泊りをおさえ、これを討って大いに功があった。これにより政義は、まもなく茨城南郡の地頭職(隠居註総地頭職)に補せられたのである。
しかし、政義の妻は武州川越(埼玉県川越市)の地頭川越重頼の娘でその姉妹が義経の妻であったから、頼朝と義経が不仲になったとき義経の縁者なるの故をもって地頭職を免ぜられている。その後、政義の長子政平(隠居註・二男)は小川の地頭に、二子行幹(隠居註・長男)は志築・大枝の地頭に、三子時員は武州野本の地頭となっている。益戸行幹は志津久三郎兵衛とも称し、その子孫が代々志築城主となった」



管理者:西尾からのレス

回復中のご体調にもかわらず、拙著を2冊もお読みいただいたのですね、ありがとうございます。
うち、『ベルギー風 メグレ警視の料理』(東京書籍)は池波さんが『メグレ警視』ものがお好きとわかり、影響ぐあいを知るために、現地取材してまとめたものです。当時は腰が軽かった!


『ベルギー風 メグレ警視の料理』(1992.05.22 東京書籍。絶版)

池波正太郎自選随筆集3『私の風景』(朝日文芸文庫)の影山 勲さんの巻末エッセイが、池波さんとジョルジュ・シムノンについて、こんなエピソードをあかしています。池波さんがパリの旧中央市場「イノサン広場」にあった居酒屋〔B・0・F〕主人セトル・ジャンと意気投合したのは、シムノンも常連だったこの店へ案内した写真家・吉田大朋さんが、
「この人は、日本のシムノンのような人だ」
と紹介したことによったのだと。

〔常州小川〕と〔駿州小川〕……ご隠居らしい区分けですね。ところで焼津市に編入されている〔駿州小川〕の読み方は「こがわ」。〔常州小川〕の読みは「おがわ」ですよね。
『茨城県千代田町史』による下河辺政義の地頭領を、参謀本部陸軍部測量局の明治20年刊の地図で確認してみました。

明治20年(1887)の参謀本部測量局の地図「水戸」(部分)
画像内の赤枠内をクリックすると、拡大画面が表示されます。

それぞれは、茨城県下の霞ヶ浦東北端部に点在していました。
うち東茨城郡小川町に併合されたのは吉影と野田。同新治(にいはり)郡に玉里(たまり)町。同郡千代田町に入ったのは下志築、中志築、上志築、東野寺、西野寺と市川……あわせると、東西15km×南北 6kmにもおよぶ広範囲の地頭だったのですね。
こうして長谷川家の先祖のことが夜明けのように明らかになっていくのって、興味津々。



2003年07月10日(木) 06:38

しつこく「馬伏塚城]

発信:管理者・西尾のひとりごと

文庫巻11[穴]で初登場した京扇屋〔平野屋〕番頭の茂兵衛、じつは、かつての盗人〔馬伏(まぶせ)〕の茂兵衛――は、へちまをおもわせるほどに長い顔の持ち主だそうですね。
この人の通り名〔馬伏〕の出どころを、04月10日付の学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラスの堀眞治郎さんのご提案で、静岡県磐田郡浅羽町〔馬伏塚(まむしづか)城〕としました。
さらに、池波さんが座右に置いていつも参照していた吉田東伍博士『大日本地名辞書』(明治33年〜)では(まぶしづか)と訓じられていることは、同クラス兎忠こと木村さん05月15日付へのレスで報告しました。
『寛政重修諸家譜』の重臣・水野家の家譜をさらっていて日向守勝成の項に、こんな文章がありました。

 天正 7年(1538) 3月、東照宮遠江国馬伏塚(まふしづか)に御発向のとき、したがひたてまつる。

このルビがいつごろ、誰によってふられたものか不明ですが、(まふしづか)という訓じ方もあったのでしょうね。まあ、われわれファンは、池波さんのルビどおりに(まぶせ)p114 新装p119 で納得してすませておけばいいわけですが……。

え? なぜ、水野家の家譜をさらったのかって? ええ、長谷川平蔵の前任者・堀帯刀秀隆は、天明元年(1781)年10月13日〜天明 2(1782)年4月24日火盗改メ・冬場の助役をつとめています。本役は、贄(にえ)安芸守正寿でした。
安永 8年(1779)年正月15日〜天明 4年(1784) 7月26日吉宗にしたがい紀州から江戸入りした人の息ですが、たいへんな能吏で、先手組頭に任じられたのは39歳と平蔵より若いとき、火盗改メ・本役の任期もご覧のように 5年とふつうより長く、家禄は 300石と低かったのに 100石加増され、越前守にも叙爵されています。
火盗改メのあとは堺奉行へ栄転。 9年後に江戸へ呼び戻しの辞令がでたら、堺の町の世話役たちがこぞって留任を嘆願、けっきょく平蔵とおなじ寛政 7年に堺で薨じました。享年55。
平蔵の火盗改メが足かけ 8年もつづいたのは、贄の前例があったせいと見て、さらに事蹟を調べてみたいとおもっているのですが。
この贄正寿の祖父が、水野美作守勝種の家臣・鈴木八郎右衛門素以の息……だったといと、じつにまわりくどい経緯なのです。
でも、リサーチは、網をできるだけ大きくはりませんと、ね。労多くして収穫は雑魚1尾……であろうと、です。



2003年06月23日(火) 14:13

鬼平の教訓:平蔵流グリーティング・メッセージ

発信:管理者・西尾からの1日1話

 40歳そこそこの若さで長谷川平蔵が番方(武官)のほとんど最高位ともいえる先手組頭へ抜擢されたのは、リーダーとしての統率力と、闊達な性格によった。
 リーダーシップのほうはともかく、根明(ねあか)ぶりを示すものに、平蔵流の声かけがある。
 同輩や配下のものへはいうにおよばず、密偵や牢番にいたるまで顔をあわせると、かならず平蔵のほうから声をかけた。
「やあ、元気そうだね」「おっ、ゆうべは飲みすぎか」
「ご内儀の肥立ちは順調か?」「風邪は直ったかな?」
「暑いな。そうそう、井戸に西瓜が冷えているぞ」
 咄嗟(とっさ)に口からでる言葉の当意即妙さはみごとで、周囲は天性の反射力とみなしていた。
 もっともその気軽さを、儒学にかぶれて「巧言令色、少なし仁」を信奉する政敵たちは「あれは気功者(気くばりができる人)よ」と軽蔑した。彼らとすれば、武士はいつも重厚であるべきで、まさに「沈黙は金」だった。腹と腹で通じあうはず……なのだ。
 平蔵はちがう。言わないものは通じない。「沈黙は金」につづくのは「されど雄弁は銀」だ。いや、たかがあいさつ、雄弁というほどのものでもない、あいさつのひとつふたつで人間関係がスムースにいくなら、それにこしたことはないと断じていた。
 朝日カルチャーセンターの「鬼平」クラスに、某製鉄大会社のエグゼクティブ単身赴任寮の寮母をながくやってきた婦人がいた。何十人もの部長や所長たちの世話をして、さらに昇進する人とそうでない人のウラを身近で見てもいる。両者のちがいを聞いてみた。
 答えは、なんと、日ごろのあいさつの有無だった。
 寮母たちへ「行ってきます」「ただいま」「ごちそうさま。今夜の和えものはとりわけおいしかった」「これ、女房どの手製の釘煮だけど……」
 こんな他愛もない言葉がすいすいと口をついてでてくるエグゼクティブほどさらに上の地位についていったと。
「なんだか、鬼平そっくりだね」 そういうと、元寮母婦人は「だからおまさが平蔵に誠心誠意つくしたのですよ。わたくしだって、あいさつをしてくださる部長さんには好意を持ち、対応がちがいましたもの」
 とこで、一見、当意即妙に見える平蔵流の声かけも、やってみるとその場の思いつきではないことがわかる。ふだんから一人ひとりの家庭事情なり仕事ぶりを頭へ入れておき、仮にその仁に行き会ったと想定し、だれもいないところで思いうかんだことを口にだしてみる。そして相手の反応を想像する…シャドー・グリーティングの訓練あってこそだ。
 シャドー・グリーティングをくりすえすことで、語彙も意識的に豊富になる。その場所のひとつ……ひとりっきりのときの車の運転席はどうだろう?
 eメールのレス、当HPの掲示板への反応もグリーティング・メッセージの研磨台になる。

実話です。



2003年06月09日(火) 11:18

長谷川家の家系

発信:居眠り隠居さん

04月09日付の西尾先生の「長谷川家の系図(2)」での、『今川氏家臣団の研究』(2001年 2月20日刊行 清文堂出版)の紹介、ありがとうございました。
脳梗塞のため、禁じられていたPC操作がやっと解禁となりいの一番に開いたこのHPで、長谷川家の家系に関する新史料発見のニュースを知り、さっそく小和田哲夫教授(静岡大学)のご本を取り寄せて読み、驚くとともに感激しました。
静岡市瀬名の中川家古文書発見によって下河邉四郎政義次男・小川次郎左衛門から長谷川藤九郎長重に至る、これまで知られなかった長谷川氏のおよそ 300年におよぶ家系の不明部分がほぼ明らかになりました。
これによって文庫巻3「あとがきに代えて」の、

平蔵の家は、平安時代の鎮守府将軍藤原秀郷のながれをくんでいるとかで、のちに下河辺を名乗り次郎左衛門政宣の代になって、大和国・長谷(初瀬)川に住し、これより長谷川姓を名乗ったそうな。のち藤九郎正長の代になってから、駿河国・田中に住むようになり、このとき、駿河の太守・今川義元に仕えた・…。

も、大筋で正確であることが立証されました。
池波先生も長官(おかしら)もこれでホッとして、いまごろは〔五鉄〕あたりでくつろぎながら一杯やっているのではないでしょうか。ご同慶の至りです。
政平の子に長教の名を記した文献が見あたらない、名前のわからない者が多い、時代が合わない等、まだまだ解明すべき点、今後の研究に待つべき点はありますが、すばらしい発見であったと思います。
以下にこれまで不明であった、正長までの長谷川氏家系を整理して記してみます。ご笑覧ください。

下河邉四郎政義
長男・行幹 後の益戸二郎兵衛尉
母 河越重頼女

初代 小川次郎左衛門政平下河邉四郎政義次男
   建久2年(1191)頼朝公に奉仕、富士之巻狩之節仕候
二代 大膳亮長教 大和国長谷川村ニ住居、其後駿河国志田郡小川(こが
   わ)村ニ住居
三代 不詳 長教より1
四代 不詳  々  2
五代 不詳  々  3
六代 不詳  々  4
七代 小川藤兵衛尉長重 長教より5代、明徳4年(1393)今川上総之介源
   義忠ニ仕え、文明6年(1474)遠江国塩買坂ニおいて戦死
八代 次郎左衛門尉政宣 妻長重女 実父・加納彦右衛門義久
九代 元長 伊賀守
十代 次郎左衛門尉正長 藤九郎 駿河国小川に住し、のち同国田中に移
   り住す。今川義元に仕え、没落ののち東照宮に仕へ奉る。元亀3年
   (1572)三方ヶ原合戦で討死

正長三男・惣次郎:静岡市中川家先祖


管理者:西尾からのレス

ご隠居の執念には、ただただ敬服あるのみ。
中川家については、おなじ静岡市瀬名にお住まいの SBS学苑パルシェ(静岡)の〔鬼平〕クラス・中林正隆さんが取材結果を[井戸掘人のリポート]にお寄せになっていますから、そちらへもアクセスなさってみてください。
一日もはやいご回復を……。



2003年06月05日(木) 14:34

鬼平の出生地は?

発信:茜陵学校OB

鬼平ファンとしては超初心者の私ですが、先日、長谷川平蔵の出生地が赤坂であるという事を初めて知りました。果たしてそれは現在のどの辺りになるのか、ぜひ、ご教授下さい。


管理者:西尾からのレス

辰蔵が幕府へ提出した「先祖書」に、平蔵宣以の生地は、「武蔵」とありますから、母親がだれであれ、江戸で生まれたとかんがえていいのでは。
で、当時の、長谷川家の江戸の屋敷といえば赤坂築地……現在の、港区赤坂6−11。
享保10年(1725)は平蔵宣以が生まれる21年前ですが、そのときの江戸大絵図の氷川神社のそばに「ハセ川イ兵」とあるのがそうです。「伊兵衛」は平蔵宣雄が家を継ぐまでの長谷川家で代々受け継がれた名前でした。

享保10年の江戸大絵図(部分)
画像内 をクリックすると、拡大画面が表示されます。



2003年04月10日(木) 04:30

長谷川家の系図、新発掘(3)


発信:管理者の西尾


2月12日の、〔鬼平〕熱愛倶楽部・生島さんへのレスに、『駿国雑記』巻38「長谷川次郎右衛門尉政平」の項を引用しました。

長谷川次郎右衛門尉政平は、止駄(しだ)郡小川村の人である。その前は大和国の長谷川より出、家は代々豊かであったので、村人からは小川長者と呼ばれていた。

司馬遼太郎さんの『箱根の坂』(講談社)を読み返していて、次の文章に行きあたりました。

『箱根の坂<上>』 『箱根の坂<中>』 『箱根の坂<下>』

(駿河きっての有徳人〔うとくじん 金持〕の)法栄(永とも)は駿河という田舎にいつも対明(みん)貿易に関与している商人で、京や堺はおろか、博多、明国にまで行ったという人物であった。(略)ところで、法栄どのは、駿府にはいない。その根拠地は、焼津(やいず)に近い志太郡(しだごおり)小川(こがわ)という海浜の村である。しかし今川館(やかた)に伺候するときのために、今川家から駿府に装束(しょうぞく)屋敷を拝領し、手代をひとり置いている。

どんな史料によって司馬さんがこれを書いたか、いまとなっては問いかけようもありませんが、長谷川家の祖先が、こんな形で記録されていることを知っただけでも平蔵ファンとしてはこころ強いかぎりです。

 わいわい談議 長谷川平蔵←こちらをクリック



2003年04月09日(水) 04:00

長谷川家の系図、新発掘(2)


発信:管理者の西尾


静岡市瀬名の中川家から出現した古文書――

大職冠大臣鎌足八代の孫
 鎮守府将軍藤原秀郷三代左馬亮五代孫、下川辺四郎政義次男、小川次郎左衛門尉政平、建久二年(注1191)右大将源頼朝公に奉仕、富士巻狩之節供仕候。長男大膳亮長教大和国長谷川村ニ住居、其後駿河国志田郡小川村ニ住居。夫ヨリ五代孫小川藤兵衛尉長重、明徳四年(1393)今川上総之介源義忠ニ仕、文明六年(1474)遠江国塩買坂ニ於而戦死、法名者弘徳院殿与号、駿州益津郡野秋村有之。

秀郷稲荷というのを、府中市の高安寺(片町 2-26)墓域内で見つけました。同寺は藤原秀郷の屋敷跡に建立されたのだそうです。

高安寺の楼門

秀郷稲荷


『今川氏家臣団の研究』(2001年 2月20日発行 清文堂出版)を著した静岡大教育学部長・小和田哲男さんは自著の中で、小川長重が仕えた今川義忠は、明徳4年(1293)にはまだ生まれていないから、享徳4年(1455)の誤記であろうとしています。また、小川長重が戦死した遠江の城飼郡塩買坂のそれは一揆鎮圧の出動でしたが、帰城途中にふたたび一揆が襲いかかられ、今川義忠は脇腹に深く刺さった流れ矢のためにしだいに衰弱、翌朝絶命しました。義忠の享年28歳(?)。義忠の享年が文明6年(1474)に28歳となると、小川長重が出仕した享徳4年(1455)時、彼はわずかに9歳だったのでしょうか。
『静岡県史 資料編6』収録の「今川家譜」では義忠の戦陣死を文明11年2月19日、享年53歳としています。研究課題の一つです。余談ですが、青年の今川義忠が北条義政の求めに応じ、手勢をひきいて京へのぼってき、今出川どの(北条義視)の館で伊勢新九郎と出会うのが、司馬遼太郎さんの『箱根の坂』(講談社)です。今川家と伊勢新九郎の深い関係は次回にでも……。



2003年04月08日(火) 04:10

長谷川家の系図、新発掘(1)


発信:管理者の西尾


居眠りご隠居さん02月27日(木)のメールで、ご隠居は、文庫巻3の池波さんの「あとがき」をお引きになりました。

「平蔵の家は、平安時代の鎮守府将軍・藤原秀郷の流れをくんでいるとかで、のちに下河辺を名のり、次郎左衛門政宣の代になって、大和の国・長谷川に住し、これより長谷川姓を名のったそうな。のち、藤九郎正長の代になってから、駿河の国・田中に住むようになり、このとき、駿河の太守・今川義元につかえた。義元が織田信長の奇襲をうけ、桶狭間に戦死し今川家が没落してしまったので、長谷川正長は、徳川家康の家来となった」

そして、「『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』のために提出した先祖書がまるで出鱈目を書いて提出したとはとは考えられません」とおっしゃいました。きのう、静岡県立図書館で史料をさがしてて、おどろくべき史料を見つけました。
静岡大学の教育学部長・小和田哲男さんの著書『今川氏家臣団の研究』(2001年 2月20日発行 清文堂出版)がそれです。
小和田さんは『寛政譜』の、

「下河邉四郎別称(益戸)政義の二男小川次郎政平より三代次郎左衛門政宣」

につき、「今川氏重臣長谷川氏の系譜的考察」の章で、政義とその次男の政平の時代は鎌倉時代の人物だから、三代目の次郎左衛門政宣は鎌倉末期か南北朝初頭に生きていたことになる、と疑問を呈したあと、
「近年になって、静岡市瀬名の中川和男家から長谷川家にかかわる古文書が数点発見され、長谷川家の系譜について新しい事実が明らかになった」と、出現した「長谷川・中川家記録写」から、政平から政宣までの 200年間の空白を埋めています。
その詳細はあらために別の機会にご紹介するとしましてご隠居へのレスに、「『寛政譜』提出にあたり、藤原秀郷から小川次郎政平までを、いわゆる系図屋と称する者たちが無理やりつなぐ、例の系図買いの噂」と書いた全文を、いそぎ削除させていただきます。



2003年02月27日(木) 06:38

長谷川家について


発信:居眠り隠居さん

貴名HP、一鬼平ファンとして興味深く、楽しく、心躍らせ、ワクワクしながら拝見しました。
ところで、長谷川家の出自について、ちょっと気になるところがありましたので、差出がましいとは存じましたが一筆啓上致しました。私もこの事について研究中なのです。

「平蔵の家は、平安時代の鎮守府将軍・藤原秀郷の流れをくんでいるとかで、のちに下河辺を名のり、次郎左衛門政宣の代になって、大和の国・長谷川に住し、これより長谷川姓を名のったそうな。のち、藤九郎正長の代になってから、駿河の国・田中に住むようになり、このとき、駿河の太守・今川義元につかえた。義元が織田信長の奇襲をうけ、桶狭間に戦死し、今川家が没落してしまったので、長谷川正長は、徳川家康の家来となった。長谷川正長は、織田・徳川の連合軍が、甲斐の武田勝頼と戦い、大勝利を得た長篠の戦争において、[奮戦して討死す。年三十七]とものの本にある。この長谷川正長の次男に、伊兵衛宣次という人があり、これが、長谷川平蔵の先祖ということになる。伊兵衛宣次から八代の当主が、長谷川平蔵宣以だ」

以上、文庫巻3「あとがきに代えて」からですが、千葉琢穂著『藤原氏族系図第2巻秀郷流』の下河邉氏族――長谷川氏の項によると、正長が討死を遂げたのは長篠の合戦ではなく、三方原合戦ですね。そのほかの記述はすべて符合しています。

下河辺氏族について
天慶の乱(10世紀中ごろ)で平将門を討ち取り、室町期のお伽草子『俵藤太物語』の主人公として、龍王の頼みを聞き大ムカデを退治した伝説的な英雄、藤原秀郷より八代、太田太夫行政の子たちがそれぞれ成人し、兄政光は下野国小山に居を定め、小山・結城の祖となります。弟四郎行光は天仁2年(1111)、源義綱反逆の時、その鎮圧の軍功によって、下総国葛飾郡下河邉庄に地頭として住し、家号を下河邉と定めました。下河辺氏発祥の起源です。下河辺氏の初代をこの行光にするか、次の義行にするか、『尊卑分脈』でも分かれますが、本題とは関係がないので、省略します。ちなみに、この下河辺庄を現在の地名で現せば茨城、埼玉県史などによると古河、五霞、総和、松伏、栗橋、庄和、杉戸、吉川、春日部、岩槻、越ヶ谷、三郷、野田など茨城、埼玉、千葉3県に係る、幅10キロ長さ50キロにも及ぶ地域であったようです。

二代行義はまたの名を清親、藤三郎、四郎、恒清坊と号し、源三位頼政とともに平氏打倒のために戦い、『平家物語』では藤三郎清親、平治物語では藤三郎行吉の名で活躍ぶりが描かれています。宇治川の戦いに敗れた後、僧形となり荼毘にふした頼政の遺灰を笈に隠し身を潜めますが、子の行平が頼朝によって元のごとく下河辺庄司を安堵されたので古河に帰還、息子を別当に古河城内に頼政明神を建立しました。

三代下霜河辺庄司次郎行平は鎌倉幕府草創期、頼朝の側近中の側近として活躍しました。頼朝は「日本無双の弓の名手」とたたえ、「頼家君の御弓の師」に任命。ついには「下河辺庄司行平が事、将軍家ことに芳情を施
さるるのあまり、子孫において永く門葉に準ずべきの旨、今日御書を下さると云々」(『吾妻鏡』建久611月6日)という最高の栄に浴した、知る人ぞ知る武将。『吾妻鏡』には 100箇所ほど行平に関する記述があり、その弟たちには次のような人たちがいます。(略)

忠義、武勇の四郎政儀は頼朝の寵愛をえ、河越重頼の女を娶り、後継の男子にも恵まれ常州南郡惣地頭職としてその前途は洋々、順風満帆と思われていました。この頃、頼朝と義経兄弟の仲が微妙になります。頼朝は「義経が馬鹿なことをするのも独り身だから。妻帯すれば変わるだろう。どこぞに良い姫はいないか」白羽の矢がたったのが河越重頼の郷姫、つまり四郎政義の妻の妹です。
兄弟仲が日毎に険悪化しているのを知っている重頼や政義はいやな予感に襲われたことでしょう。しかし最高権力者の意に逆らうことは出来ず、「河越太郎重頼の息女上洛す。源廷尉に相嫁せんがためなり。これ武衛の仰せによって、兼日に約諾せしむと云々。重頼が家の子2人、郎従30餘輩、これに従ひ首途すと云々」(元歴元年〔1184〕9月14日の条)ということになったが、果たせるかな、郷姫輿入れから1年後、
「・…今日河越重頼が所領等収公せらる。これ義経の縁者たるによってなり。・…また下河邉四郎政義、同じく所領等を召し放たる。重頼の婿たるが故なり」(文治元年〔1185〕11月12日の条)まさに悪夢は現実のものとなったのでした。重頼は斬られ、政義は石岡以南の広大な領地を取り上げられ、その身は兄行平の許にお預けとなり、その領地は行平の子が相続しました。政義はいわば、義経処分という大義名分の犠牲になったのではないでしょうか。しかし政義ほどの武士ですから、やがてまた『吾妻鏡』に名が出てきます。
文治3年(1187)11月11日には頼朝の上洛に先立って、朝廷への貢馬が3頭進発しますが、政義はその使者として京に向かいます。建久元年(1190)11月7日、入洛した頼朝に従い先陣畠山重忠の随兵3番手として行列に加わっています。同2年正月3日小山朝政が頼朝に飯を献じたおり、御剣は下河邉行平、御弓箭は小山宗政、沓は同朝光、鷲羽は下河辺政義、砂金は朝政自らが奉持して御坐の前に置いた、とあります。
同年8月18日頼朝の新造の御厩に、下河辺行平らから贈られた16頭の馬を、政義ら5人の武士が試乗、将軍にご覧にいれました。同3年6月13日、頼朝が新造御堂の現場に来ます。畠山重忠、下河辺政義、城四郎、工藤小次郎ら梁棟を引く。その力は力士数十人の如きで見る者を驚かした・…。まだまだありますが、割愛します。下河辺政義は復権したと見て間違いはないでしょう。その後正義は益戸姓を名乗り、かつての領地常陸国南郡方面に出て活躍したものと考えられます。南郡惣地頭職時代は志築(茨城県千代田町)に館や山城を築いたといわれ、益戸となってから千代田町と八郷町の境界線上にある権現山に、半田砦を築いたようですが、浅学の身、詳しいことはよく分かりません。

ところで、下河辺政義には3人の子がいたようです。

○行幹(三郎兵衛尉)――行景(和泉守)――宗行(四郎左衛門尉)――行助(和泉守)――顕助(下野守)
○政平(左衛門・小河次郎)――能忠(七郎)――義廣(七郎・左衛門尉)
○時員(野木・野本乃登守)―ー行時(二郎)――時光(同二郎)――貞光(乃登守)――朝行(四郎左衛門)
(『尊卑文脈』)

○行幹(益戸二郎兵衛尉、母河越重頼女)――行景(和泉守)――宗行(四郎左衛門)――行助(和泉守)――顕助(四郎左衛門尉・下野守・従五位)
○政平(小川二郎左衛門)――朝平(小太郎)――景政(高原四郎)――能忠(小川七郎)――義廣(七郎左衛門尉)
○時貞(野本能登守、行高・従五位下)――行時(二郎)――貞光(能登守)――朝行(四郎左衛門)
(『群書類従完成会編』)

2書を比べると、長男行幹流についてはほぼ相違無し。次男政平流については尊卑文脈の政平と能忠の間に朝平、景政が入り、三男時貞流については群書類従系の行時と貞光の間に時光を加えれば、2書はまったく同一となる。両書とも 800年以前を書いた書としてはかなり正確な、信憑性の高いものと考えてもよいのではないでしょうか。

問題は、先生がお書きになられた「先祖書」の冒頭部分です。
「大織冠釜足より八代鎮守府将軍秀郷九代の後裔下川部四郎、実名知らず」とあるのは、明らかに下河邉四郎政義のことであると断定してもほぼ間違いないのではないでしょうか。
「『寛政呈譜』に下河邉四郎別称(益戸)政義の二男小川次郎政平より三代次郎左衛門政宣、大和国長谷川に住す。これにより長谷川を称す」
(藤原氏族系図 第2巻 秀郷流)
とあるのも政平までは間違いのない所だと考えられます。しかし、肝心の三代後に初めて長谷川を名乗った、という次郎左衛門政宣の名が見当たりません。尊卑文脈は、その編纂後のことは記載される筈も無く、下河辺系図もその分流を数代にわたって綿密に書き込むなどということはないのが当たり前です。先生のご指摘の『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』は不勉強でまだ見ておりませんが、これらの先祖書がまるで出鱈目を書いて提出したとはとは考えられません。幕臣が幕府に提出する先祖書を偽ったり、故意に粉飾するなどそんな不謹慎な真似はある筈もなく、当時の武士は他家がどのような家系であるかぐらいのことは知っており、従って虚偽の系図を提出する余地はないと思われます。下河辺氏は『吾妻鏡』にも数多く書かれており、『吾妻鏡』をいちばんよく読んだ日本人・徳川家康は、当然のことながら藤原秀郷や下河辺行平の故実にも明るかったと考えられます。ですから、家康から何代かたってはいても、出自に関して虚偽の申し立てはしていない。ただ年号や何代目かなどの細かい点については、あまりにも古く、かつ家譜の正確な記録を持たないために、若干正確さに欠ける点がある、と見るのが妥当ではないでしょうか。先に引用した、下河辺四郎政義の二男小川次郎政平より三代次郎左衛門政宣が、始めて大和に住み長谷川を称したというが、この年代もはっきりしません。そこで同時代に生きた兄行平の四代の後裔はいつ頃生きたかを調べてみると、文永年間(1264〜75)です。次に名前が出るのが、長谷川家の初代とされている、駿河国で今川義元に仕えた長谷川藤九郎正長。主君義元が永禄3年(1560)桶狭間で敗死後、徳川に仕え元亀3年(1570)三方ヶ原の戦で戦死、時に37歳。およそ1270〜1560の間が空白期間となっているのです。この空白期間を埋めるものが、先生お調べの「駿国雑記」ではないかと考えられます。また、正長から以後の系図は先生ご提示の「寛政重修家譜」が他本とも一致しているようです。「末葉下野国住人結城判官頼政三男、小川次郎政平長男小川次郎左衛門正宣長男 始 藤九郎一、元祖  本国生国 駿河 長谷川紀伊守正長」をどのように読めばよいのか、判断に迷うところです。「末葉下野国住人結城判官頼政三男」どこから、なぜ、この語句が出たのかさっぱりわかりません。
下河邉氏の出自で述べましたが、下河邉の兄が小山であります。小山氏から中沼、結城が出ていますので、下河邉と結城とはかなり近い関係にあります。そんなことと関係があるのでしょうか。小川政平は、下河邉四郎政義の次男、それから数代の後裔・政宣が大和に移り住み長谷川を名乗るようになった。さらにその後、その子孫藤九郎正長が駿河に移り住み、駿河長谷川家を興した、これが平蔵家の本家であると考えたいのですが、いかがでしょう?。老人の頭でいろいろ考えますと、ますます糸が複雑に絡みあってしまい、解けなくなってしまいまいそうです。


管理者:西尾からのレス

いやぁ、〔居眠り隠居〕さんどころか、現役顔負けの碩学ぶりです。ご指摘のとおり、「下野国住人結城頼政」は、たしかに下川辺の系図のどこにも見あたりませんね。『寛政譜』の 160年ほど前にまとめられた『寛永系図伝』の長谷川家の項は、藤九郎から始まっています。

「藤九郎 のち紀伊守と号す。駿州小川に生る。のち田中に居住す。今川義元没落ののち、東照大権現につかえたてまつる。元亀3年(1572)12月22日、遠州三方原の戦場におひて討死。37歳。法名存法」

『寛政譜』にある「秀郷流」は記されていません。それで推察できるのは、『寛政譜』提出にあたり、藤原秀郷から小川次郎政平までを、いわゆる系図屋と称する者たちが無理やりつなぐ、例の系図買いの噂です。



2003年02月20日(木) 02:55

長谷川家の系図

管理者:西尾から生島(しょうじま)さんへ

02月12日(水)の生島さんの、「え、長谷川平蔵の祖先って、関東出身なの?」に対する追補レスです。
池波さんが「重宝していた」と激白している参考史料の一つに、太田亮著・丹波基二編『新編 姓氏家系辞書』(秋田書店 1974。刊行年は「新編」)があります。『辞書』に7家収録されている長谷川姓の一つが平蔵の家系です。 長谷川氏 大和[称秀郷流、下河辺氏族]家譜に、下河辺政義の二男小川政平より三代政宣に至り、大和国長谷川に住して、長谷川を氏とすると云う。今川義元臣正長より系がある。家紋左三藤巴、釘抜、本支十六家。

『新編 姓氏家系辞書』

 これは『寛政重修諸家譜』を資料にしてまとめられたものであることは、まず間違いありませんね。池波さんが文庫巻3の「あとがきにかえて」で引いたのも太田博士の『姓氏家系辞書』だったこともわかります。いっぽう、前に引用した『駿国雑記』巻38の「長谷川次郎右衛尉政平」では、

 長谷川次郎右衛門尉政平は、(駿河国)止駄(しだ)郡小川(こがわ)村の人である。その前は大和国の長谷川より出、家は代々豊かであったので、村人からは〔小川長者〕と呼ばれていた。

でしたね。『寛政譜』は、辰蔵こと宣義が提出した原稿を幕府の『寛政譜』編纂担当の学者たちが整理・清書したものですが、宣義の原稿が正しいのか、『駿国雑記』の記述が正確なのかは、今後の研究を俟たねばきめられません。ところで、今川に仕えた長谷川は、どのていどの家禄だったか、『駿国雑記』巻43、今川家の分限帳は、

 千石     長谷川藤三郎

 「今川義元臣(長谷川紀伊守)正長」別称は「藤九郎」と『寛政譜』にあります。「今川家分限帳」の誤記なのか、「藤九郎」はいっとき「藤三郎」を称したのか、あるいは別人なのか、これも今後の研究に俟ちましょう。もっとも「分限帳」に、ほかには長谷川姓は見あたりませんが……。




2003年2月12日(水) 10:42

え、長谷川平蔵の祖先って、関東出身なの?

発信:砂町文化センター〔鬼平〕熱愛倶楽部
   生島(しょうじま)美奈子さん

02月11日の西尾先生のコメントに、平蔵さんの〔長谷川〕家は、大和の初瀬(はせ)村へ住む前は、関東で〔下川辺〕姓を名のっていたって、ほんとですか?関東武士なら、源氏?


管理者:西尾からのレス

徳川の幕臣となってからの長谷川家が、書き上げた「先祖書」は2つあります。
『寛永諸家系図伝』『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』です。
後者は、老中首座に在職中に家柄・門閥重視の松平定信が編輯をおもいついたもので、提出期限は寛政10年ごろだったようです。
長谷川家では、平蔵宣以は寛政7年(1795)に病没しているので、「先祖書」を提出したのは辰蔵こと宣義でした。その「先祖書」の冒頭に、

「大職冠(藤原)鎌足より八代鎮守府将軍秀郷九代の後胤、下川部四郎、実名知らず、末葉下野国住人結城判官頼政三男、小川次郎政平長男小川次郎左衛門正宣長男 始 藤九郎
一、元祖   本国生国 駿河 長谷川紀伊守正長」

とあります。
池波さんも目にしたのでしょう、文庫巻3に収録の「あとがきに代えて」に、

平蔵の家は、平安時代の鎮守府将軍・藤原秀郷のながれをくんでいるとかで、のちに下川辺を名のり、次郎左衛門正宣の代になって、大和国・長谷川に住し、これより長谷川を名のった。
のち、藤九郎正長の代になってから、駿河の国・田中に住むようになり、このとき、駿河の太守・今川義元につかえた。

と要約しています。
「下川辺」は、下野国から武州・葛飾までを包含したひろい地域だったとの説もあります。で、結城判官の三男の小川(こがわ)次郎政平は、駿河国(静岡県)志太(しだ)郡小川(現・焼津市)に居を構えていたから小川を称していたともおもえますが、その前に住んでいたのは大和国・初瀬ですから姓は、とうぜん、長谷川。
だとすると、「小川(こがわ)の長谷川次郎左衛門政平」という呼称でないとつじつまがあいません。文化14年(1817)に着任した阿部正信が1年のうちに記したといわれる『駿国雑記』巻38に、「長谷川次郎右衛門尉政平」という項があります。

伝えていう。長谷川次郎右衛門尉政平は、止駄(しだ)郡小川村の人である。その前は大和国の長谷川より出、家は代々豊かであったので、村人からは小川長者と呼ばれていた。
今川氏親につかえて武名も高かった。また、連歌をたしなみ、宗長居士とも親遊があった。仏法を信仰していて賢仲禅師に帰依し、精舎を村中の浜辺に草創した。明応6年(1497)、異人のお告げによって天変を予知し、禅師と相談して精舎を高草山の麓へ移し建てようとした。翌7年8月、海が荒れ、26,000余人もの溺死者が出、精舎の地も巨海となった。
同9年、諸堂を益頭郡坂本村に建てたのが、いまの高
草山林叟院(曹洞宗)である。
永正19年(1522 ただしこの年号は18年まで)6月朔日に87歳で卒し、林叟院に葬り、法名は林叟院殿扇庵法永大居士。あるいはいう。政平は永享5年(1433)の生まれで、法永は政平のことではなく、七左衛門尉正宣のことだあると。

永享5年の生まれだと、永正19年には 102歳。政平の長男・正宣が87歳で没したとしても、政平16歳のときの子となり、いささか勘定があわないが。
とにかく、長谷川次郎右衛門尉政平のときにはすでに駿河国小川で〔小川長者〕と称されるほどになっていたのだから、「あとがきに代えて」の
「次郎左衛門正宣の代になって、大和国・長谷川に住し」は、いつもの池波さんの早とちりということになりそう。
小川と田中の確認用に、明治20年(1887)に参謀本部陸地測量部が発行した志太郡駿河湾よりの地図を添えます。


参謀本部陸地測量部の作製の地図(1887)による「小川」「田中」と「瀬戸川」。文庫巻6[狐火]の〔瀬戸川〕の源七の〔瀬戸川〕はこれ。


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