〔五十海〕の権平について




2004年9月17日(金) 

〔五十海(いかるみ)〕の権平と〔羽佐間(はざま)〕の文蔵

SBS学苑パルシェ(静岡) 〔鬼平〕クラス 杉山幸雄

〔五十海(いかるみ)〕の権平

文庫巻1[座頭と猿]に顔を見せる凶悪な盗賊、〔五十海〕の権平p247 新装p256 が名乗っている〔五十海〕についてリポートします。

蔵書史料
『修訂駿河国新風土記』 国書刊行会
『藤枝市史 資料編3 近世』付録絵図
『郷土史料事典22 静岡県』人文社
『焼津・藤枝・島田・志太・榛原歴史散歩』
               静岡新聞社
『第5回企画展藤枝大祭』藤枝市郷土博物館
県立図書館史料
『藤枝町史』
『ふるさと百科 藤枝事典』国書刊行会
『志太郡朝比奈村誌』
『静岡県勢要覧』県企画部高度情報総室

藤枝宿は、慶長 6年(1601)関ヶ原の翌年、品川から22番目、東は岡部宿へ 1里26町(約6,839m)、西は島田宿へ 2里 8町(約8,874m)の宿場として設営された。
特徴は、志太・益津両郡内の8カ村が、親村に属しながら一部を宿場のたろ
めに割いて宿域をつくったことである。
8カ村の一……五十海(いかるみ)村の周辺は、古代には葉梨川と朝比奈川の分流、または瀬戸川の分流などが合流する地点なので、大雨のたびに氾濫したらしい。その氾濫する水のさまが「怒る水(いかるみ)」という地名となった。
近くの「押切」という地名も、川に押し切られて氾濫したことを物語っている。
微高地に鎮座する原木神社と八坂神社は、ともに葉梨川を鎮めることを願って祀られた。

『駿国雑誌』より転載

[西尾付記]
池波さんは、そういう史実を知った上で、凶悪な盗賊には〔五十海〕がふさわしいとおもい、通り名としたのですね。納得。




〔羽佐間(はざま)〕の文蔵

文庫巻4[五年目の客]p49 新装p51に、10年前に〔小房〕の粂八がその配下にあった遠州の大盗賊(おおもの)〔羽佐間〕の文蔵の名がでてくる。
その通り名となっている〔羽佐間〕はその名のとおり、東西に山をいただく狭小な山あい(はざま)の地だが、明治22年(1889)に合併されて現在は岡部町の一画となっている。
徳川時代の当初は幕府の直轄領だったが、のち幕臣・大草主膳の知行地( 107石分)となった。
現在は戸数80余、人口 400人。
羽佐間は駿州だから、村をでて西隣の遠江一帯を稼ぎ場としていたことになっているが、池波さんは、どういう経緯でこの部落に目をつけたのか。



2004年03月02日(火)

〔五十海〕の権平

発信:朝日CC〔鬼平〕クラス 河内三郎

文庫巻1[座頭と猿]に、

座頭・彦の市が、小間物屋徳太郎の顔を見はわめてから三日後に、五十海(いかるみ)の権平という兇悪な盗賊が逮捕された。            p242 新装p256

と、〔五十海〕という変った通り名の盗賊が、あとにも先にもこの一度だけ、顔を見せます。
「五十海(いかるみ)」という奇妙な読み方をする地名は2003年05月07日の[週刊掲示板]に藤枝市の地名ということで、「五十海北」というバス停の標識が掲示されています。


バス停標識「五十海北」

『藤沢市史』は、「五十海」は葉梨川中流右岸に位置し、地名は洪水の起きやすい低湿地帯を意味し、地内には湿田、泉もあったと記載。
角川の『日本地名大辞典』は、中世には「伊賀留美」の字をあてたとも。
江戸期から明治14年までは田中藩領だったそうだから、平蔵の祖先の長谷川正長が田中城の城主だったころ、その領内にあったということもできそうですね。


管理者:西尾からのレス

池波さんには『仕掛人 藤枝梅安』シリーズもあり、藤枝市とはかなり縁が深いようにおもいます。
たぶん、信玄、家康、信長などを配した忍者ものを書いていたころに、東海道のこのあたりを訪れて調べ、地名も得たのでしょう。
台東区の図書館へ寄贈された池波さんの蔵書のリストが公表されると、『藤沢市史』も所蔵されていたことが判明するかも。





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