池波正太郎について




2004年06月17日(木)

吉川英治さんの[応仁の乱]評

発信:管理者の西尾―――

[錯乱]が第43回(昭和35年上半期)直木賞を受賞したときの『オール讀物』10月特大号に掲載された、各審査員に評は、文春のDさんのお手配により、すでに抜粋して掲げました。
その中で、吉川英治さんの、

池波正太郎氏のたいする私の考えはこの前の「応仁の乱」のときの寸評で私はかなり言ってある。こんどの「錯乱」についてもあれと同じことをくり返すのみである。

との文言が気になったもので、再度、Dさんをわずらわせました。申しわけありませんでした。
[応仁の乱]は、第20回の直木賞候補となった作品です。このときに受賞したのは、

 城山三郎 [総会屋錦城]
 多岐川恭 [落ちる]


でした。
[応仁の乱]は落選。
ところで、吉川英治さんの池波さんへの助言は――

池波正太郎氏の題材負けはどうしたものか。むしろ東山時代の庭作りの眼だけにあれを凝縮させて、善阿弥、芸阿弥、相阿弥などの系譜をつらぬいたものとしたらなおまとまっていたろうと思う。

と、短いものでした。構成のことをいっておられるのですね。
ついでに。
[応仁の乱]は『賊将』(新潮文庫)に収録。
[錯乱]は『真田騒動―恩田木工』(新潮文庫)に収録。



2004年06月05日(土)

[錯乱]の審査員評

発信:文藝春秋 デジタル制作部 檀原さん

ご依頼いただいた、池波さんの[錯乱]が第43回(昭和35年上半期)直木賞を受賞したときの審査員評の載った『オール讀物』10月特大号の当該ページをお送りします。
(西尾注:著作権のこともからむので、掲載は抜粋にさせていただきます)


審査員:吉川英治、大佛次郎、川口松太郎、小島政二郎、木々高太郎、海音寺潮五郎、中山義秀、村上元三、源氏鶏太(敬称略)

源氏鶏太 「錯乱」は、授賞作品だが、この人の過去に、もっといい作品があった。一種の努力賞であろう。
(西尾注:源氏さんがいわれる「過去のもっといい作品」というと、候補になったが受賞を逸した「恩田木工」「眼」「信濃大名記」「応仁の乱」「秘図」の中のどれかのことでしょうか)

小島政二郎 この作家は随分長いこと真田家ととッ組んできた。「信濃大名記」以来だ。「大坂の陣」「上田城にて」「青磁の碗」を経て、主人公信之も年を取った。「錯乱」では九十三になっている。
「信濃大名記」は、小野のお通に恋慕する若い信之が描かれている。続いてこの作者は「恩田木工」を書いた。この「木工」も真田の家来である。
入れ替り立ち替り真田家に取っ付いて離れなかったこの作者の執念を私は徒(あだ)や疎(おろそ)かに思いたくない。この際私の老婆心をいわせてもらえば、当分小説以外の物――例えば、戯曲などに手を出さずに、小説ばかりに専念してもらいたい。
このことが何を意味するか、私が何をいおうとしているのか分ってくれると思う。大事なのはこのことだ。

川口松太郎 直木賞の受賞作家が其の後の活動不活発で、存在のはっきりしなくなるのは何とも淋しい。
直木賞の目的は賞を与える事にあるのではなく、後進作家の育成が重点なのだ。その意味で今回は池波正太郎君の作品にたくましい意欲を感じ、最も強力に「錯乱」を押した。委員諸氏の中には強硬の反対もあり、「錯乱」の構成には幾分の乱れもあって、折角の好材料を安手に仕上げた恨みもあるのだが、大衆小説の本道にしがみついて喰い下る執拗な態度には消えて行かない作家と思う安心感があった。直木賞は受賞作品を厳格に審査する場合と、有望な作家にチャンスを与える場合の二つがあってよいのだと思う。
(中略)彼に直木賞を与えれば作家的自信を生み、大成する機会を与え、傑作を作り出す機縁になると私は信ずる。作家を一人作るという意味で「錯乱」反対の委員諸氏も池波君の今後を見守って頂きたく、池波君も奮起して我等の期待に応えてほしいと思う。

木々高太郎 池波正太郎という作家は僕の好きな作家の一人で、もう五回か六回の候補であれば、その都度僕はこの作家を注目するという選評をかいた筈であるから、今回の受賞はよかったと思うが、今回の作品「錯乱」が必ずしもよい作品とは思わないので、努力賞の形になったのは不満である。
選考委員を長年やっているので人情が出ることに起因すると考えれば、やがて委員の交替をするという考えに賛成である。

大佛次郎 私は「錯乱」にも不満は残るが、質実な努力を重ねて来たのを買いたい。

村上元三 「錯乱」は、整理が足りなかったし、真田信之という人物を主人公に書くべきだったと思うが、これまで五回も直木賞候補になった実力は、受賞に値する。

吉川英治 池波正太郎氏のたいする私の考えはこの前の「応仁の乱」のときの寸評で私はかなり言ってある。こんどの「錯乱」についてもあれと同じことをくり返すのみである。
私ならこれを百枚前後の中篇などにはしない。いや、とても中篇などにはまとめきれない。それを巧妙に池波氏はまとめ上げる。このまとめ方の中に無理があり上手過ぎるきらいがありいくらでも短所をあげればあげられる。自重していただきたい。
そして私もさんざんやってきたことではあるが、せっかくの才を余り才走らず周囲の重宝にばかりならず大切につかってもらいたい。自愛ということがどうも氏の作風にも人間的若さにもいまがいちばん大事のように思われる。

海音寺潮五郎 作者も読者もウソばなしと知りながら楽しむ小説がある。ウソを感じさせてはならない小説がある。その点この小説(注:「錯乱」)は中途半端である。作者はリアルに書こうリアルに書こうと努力しているが、この話ではどうにもならないと、ぼくは見た。つまり、ぼくは全然買わなかった。(中略)
前回に候補作品となった「応仁の乱」でもその感があったのだが、この作家には小説というものがまだよくわかっていないらしいと思った。やたらに話の変化をもとめているところに、文章力の弱さ、気魄の不足があると見た。(後略)

中山義秀 候補作品を、一応全部読みとおした。(中略)読んでとくした作品はなかったし、すがすがしい感じもえられなかった。(後略)


管理者:西尾からのレス

ありがとうございました。これで、年来の宿願の一つが片づきました。候補者の中に、黒岩重吾、水上勉、佐野洋といった強敵がいらっしゃったのですね。いやはや。
「応仁の乱」が候補作となったときの、吉川英治さんの選評を読んでみたくなりました。



2003年09月07日(日) 10:05

鬼坊主清吉についての記述

発信:西尾のリポート

07月13日の当掲示板での「文庫紹介」で、諸田玲子さんの『鬼あざみ』と池波さんの短編[鬼坊主のおんな]の関係について報じました。
そのとき、鬼坊主の辞世の歌――

 武蔵野に 名もはびこりし 鬼薊(あざみ)
          今日の暑さに 乃て萎(しお)るる


が、『大日本人名辞書』に載っていることを、井家上隆幸さんが解説に書いている、とも添えました。
月1の静岡県立図書館通いで、今朝、『大日本人名辞書』(講談社)が入口の「草柳大蔵寄贈文庫」の中にあるのを見つけ、開いてみました。奥付は、
明治19年(1886) 4月15日初版
昭和49年(1974) 8月28日改訂第 1刷
昭和52年(1977) 8月28日〃 第 3刷
草柳さんが蔵書したのも、けっこう遅かったのですね。
さて、本文――

オニバウズ セイキチ 鬼坊主清吉 兇賊、強盗追剥等を犯し天下に出没す。勢州にて縛に就き文化 2年 4月26日江戸に押送せられ 6月26日他賊 2人と引廻との上千住に梟せらる辞世の狂歌「武蔵野に名もはびこりし鬼薊今日の暑さに乃て萎るる」浅草新鳥越町妙光山圓常寺に墓あり(街談文々集要)

「オニバウズ」との表記が、いかにも明治19年の記述って感じ、丸出しですね。
文化 2年(1805)に捕縛、というと……長谷川平蔵の歿年は寛政 7年だから10年後……平蔵の火盗改メの任期中にはまだ兇賊になっていなかったか?
墓が大正 2年(1913)に浅草・吉野町の圓常寺から雑司が谷霊園へ移ったことは、堀 眞治郎さんが 7月22日付の書き込みで報告されました。



2003年07月22日(火) 21:02

鬼あざみ清吉の墓、諸田玲子さんの作品

発信:学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラス
   堀 眞治郎さん

07月13日付の諸田玲子さんの「鬼あざみ」に関するコメントを読ませていただきまして、そういえば〔鬼坊主〕のお墓が私の散歩コースの一つ、雑司ヶ谷霊園にあったのを思い出し、写真を撮ってきました。




雑司ヶ谷霊園の〔鬼坊主〕の墓

元は浅草・吉野町の圓常寺にあったそうですが、大正 2年にこの寺の移転に伴い、雑司ヶ谷に移ってきたようです。霊園内のいちょう通りの墓地番号 1種 8号 5側に入口案内がありますので、すぐにわかると思います。
近くには夏目漱石、竹久夢二の墓もあります。夏目漱石の菩提寺は小日向水道端の本法寺だそうですが、墓はここ雑司ヶ谷霊園に在ります。
諸田玲子さんは、上智大学の英米文学科を出られた異色の時代小説作家として最近売り出し中の方ですね。
学習院の鬼平講座のクラスメートである〔兎忠の姉上?〕こと木村さんのご先祖と同じ御鳥見役の奥方様が主人公である【お鳥見女房】【螢の行方―お鳥見女房】(新潮社)も書かれています、御鳥見役の公のお役目とは別に、裏の任務として幕府隠密という役目を持たせた面白そうな作品らしいので、本日帰りに購入してきたところです。
御鳥見役に幕府隠密の影御用を持たせた作品は幻冬社文庫の黒崎裕一郎の作品以外は知りませんので楽しみです。


管理者:西尾からのレス

おや、刑死者〔鬼坊主〕にも墓はありましたか。池波さんの「鬼坊主の女」のお栄は、小悪者の六太郎に殺されたとばっかりおもっており、墓を建てる者はいない……と推察していましたが。一味の生き残りの者が建てたのでしょうか。
夏目漱石の香華寺は小日向水道端の本法寺――本法寺といえば、〔鬼平〕クラスの史跡ウォーキングで表敬訪問をして茶菓のおもてなしを受けた寺でしょ? あのとき、住職はそんなこといいませんでしたね。遅かりし……です。



2003年07月03日(木) 23:26

御台の選んだ「鬼平」名場面 その1

発信:佐倉市在住の御台さん

池波正太郎さんの文章は、行間に絵がある、と前回の投稿で私は申し上げました。西尾先生がおっしゃる、舞台の台本で鍛え上げた文章なのですね。ラジオの時代のナレーションを読むように、さぁ、御台と一緒に声を出して読んでみましょう。

鬼平犯科帳巻10[消えた男]p247新装p259 より。

 赤蜻蛉が、群れをなしてながれている。
 秋草が咲き乱れて、その花野の中に、男がひとり、ぼんやりとすわ
 りこんでいた。芒の穂がゆれている。風が出てきたらしい。
 男の背後に、杉の老木が一つ、そびえていた。(略)
 田畑のつらなりの中の、小高い丘の上である。(略)
 男が立ちあがり、深いためいきを吐いた。

心憎いほどに、孤独な男の哀愁が漂ってくるではありませんか。このように、鬼平犯科帳の中には、声を出して味わって読んでみたい文章が所々に見受けられます。御台の選んだ名場面を、少しづつ皆さまにご紹介していきましょう。


管理者:西尾からのレス

『ダカーポ』 510号( 2003.3/19)が[「池波正太郎」「藤沢周平」の味わい方]を特集しています。


表紙右下に、池波正太郎・藤沢周平を扱ったことをささやかに載せている……

逢坂 剛さんが、池波さんの文章について、
「サラリと書いているのにコクがあるあの文体は誰にもまねできません」
池波作品のさし絵を描いていた中 一弥さんの息が逢坂さんだってことはファンならとっくにご存じ。
杉の老木にちなんで蛇足を。『江戸名所図会』約 670景で松樹なしの絵はわずか87景(うち室内26景)。
公の木と書くくらい樹の中の王であり、江戸のシンボル的な樹。杉樹も松樹に負けないほど描かれており、まだ数えてはいないけど松樹の80パーセントほどかな。
そうだ、『名所図会』に紹介されている有名松展をやるかな。



2003年06月25日(木) 02:25

池波正太郎さんの文章

発信:砂町文化センター〔鬼平〕熱愛倶楽部
   御台さん

なぜ『鬼平犯科帳』が好きなのか。
私は、司馬遼太郎さんや藤沢周平さんにはない、池波正太郎さんの文章表現が実に巧みだと思います。
とくに『鬼平犯科帳』は、行間に無限のゆたかさがあり、余裕を持った文章力といいましょうか。
たとえば、書き出しで「それは・・・。」そして「泪が出るほどに・・・うれしかったそうである。」「その日の午後に・・・」「その花野の中に、男がひとり」、一見とても簡単でわかりやすい文章ですが、なぜか余韻が残り、女=いい女、食べ物=うまそう、というふうに読者に想像のたのしみを自然に与えてしまいます。
以下、鬼平の中の好きな文章表現を書き出しますと。
「森閑とした山気がただよう道」
「春の微風のごとく」
「戸口からながれ出る灯を背負うようにして」
「青菜に塩のかたちでうなだれる」
「生ぐさい風」
「うす墨を流したような梅雨の夕暮れどき」
「雨戸を冬の風が叩いていた」
「闇に白く、花がひらいていた」
行間に絵のある文章とは、読んでいてさながら映画のシーンを観ているように、情景が目に浮かんできます。
『鬼平犯科帳』がいつまでも多くの読者を惹きつけるのは、私のように、感性でもって文章を鑑賞し、余韻を味わっている読み手も多いと思えるのです。この池波さんのセンスは天性のものだと思います。


管理者:西尾からのレス

御台さんが、いみじくも「映画のシーンを観ているよう」とおっしゃる池波さんの文章は、舞台の台本で鍛えあげた文体なのかもしれません。
引用なさったフレーズが、どの篇のどこにあったか添えていただいていたら、読み手はあらためて、御台さんご推奨の表現がその場面全体にどういう作用を及ぼしているかを自分でも確かめえるのですが。



2003年06月20日(金) 10:13

池波さんvsワープロ

管理者:西尾のひとりごと

20年ほど前から10年間つとめた読売新聞社の映画広告賞の審査会開始前の雑談で、ぼくが「ワープロ」といい、池波さんが情けなそうな目をしたことは6月16日の堀さんあてのレスで告白しました。
そのことに発奮して書いたのが『ワープロ書斎術』(講談社現代新書 初版1985.03.20)です。

現代新書『ワープロ書斎術』(講談社 1985)

冗談めかして〔ワープロフェッサー〕を自称。その後の10年間に18刷と版を重ねました。
『鬼平犯科帳』などに関するデータ蓄積も歴代のワープロを駆使してやりました。



2003年06月03日(火) 21:46

「鬼平犯科帳」について

発信:森下文化センター〔鬼平〕クラス 御台さん

とても初歩の質問をさせてください。
鬼平犯科帳の「犯科帳」とはどういうものなのですか?
今でも残っているのでしょうか。
池波さんが「鬼平犯科帳」という題名をつけた経緯は?
小説を書くときって、先に題名が決まるのでしょうか。
「浅草・御厩河岸」が最初の作品だとお聞きしましたが、そのときは一話完結の短編のつもりで、鬼平・・・の題名はまだついてなかったのですよね。
そもそも、長谷川平蔵という人物に、鬼の平蔵=鬼平、と名付けたのは池波さんであり、池波さんは名前をつける天才だと思います。
少年時代は、友達のあだ名などをすぐ考えついてしまったのでしょう。
もし、「鬼平」という名前が登場しなかったら、『鬼平犯科帳』という題名もこの世に現れなかったことになり、もし別の題名だったら(○○捕物帳とか)小説のイメージがまた違ったものになったでしょうね。


管理者:西尾からのレス

ぼくは『鬼平犯科帳』を連載したときの『オール讀物』の編集部員ではないので、あくまで類推でしかお答えできませんが……。
池波さんは、昭和42年(1967)に『オール讀物』から4篇の単発短編の依頼を受けました。
[正月四日の客] 02月号  盗賊もの
[坊主雨]    04月号  仇討ちもの
[ごめんよ]   09月号  剣客もの
[浅草・御厩河岸]12月号  盗賊もの
この[浅草・御厩河岸]の原稿を受け取りに池波邸へ行ったのは、入社2年目の花田紀凱さん(のち『週刊文春』の編集長後、退社)でした。
その花田さんの文章があります。

「長谷川平蔵という、ちょっと面白い男がいるんだがねえ」 池波さんが、そう言い出したのは昭和42年の秋だった。「火付盗賊改方の長官でね……人足寄場を作った……」
 火盗改メも人足寄場も初耳だったぼくは、ただ、はあ、はあと頷いてばかりいた。


つまり、池波さんのほうから持ちかけたのですね。それまでに『週刊新潮』64年01月06日号の[江戸怪盗記]、『別冊小説新潮』65年夏号の[白浪看板]に長谷川平蔵をちらっと登場させたのに、どこからも注文がこなかったので、しびれをきらしたのでしょう。
すぐに連載ということになり、新年号に[唖の十蔵]。連載にはシリーズ・タイトルが必要……。

〔本所鬼屋敷〕〔本所の鬼平〕〔本所の銕〕〔鬼平捕物帳〕など、いろいろ出たが、ギリギリになって〔鬼平犯科帳〕に決った。犯科帳という語感が、実に新鮮だった。

そのとき、ひらめいたのは4年前の昭和37年(1962)に出た『犯科帳 長崎奉行の記録』(岩波新書)だったと雑誌『ダカーポ』(2000年12月06日号)で花田さんが告白しています。

『犯科帳 長崎奉行の記録』(岩波新書)

〔犯科帳〕に「鬼平」をくっつけて『鬼平犯科帳』。御台さんのおっしゃるように、『鬼平犯科帳』だからヒットしたのかもしれませんね。
さて昨夏、平岩弓枝さんからおもしろい話を聞きました。長谷川伸師宅へ集まる〔新鷹会〕で、岩波新書の『犯科帳 長崎奉行の記録』が出てすぐ、「これ、おもしろい」と吹聴したのが平岩さんだったと。
「その証拠に、わたしの『御宿かわせみ』の第1話[初春の客]は『犯科帳』がヒントの長崎がらみの話でしょ?」平岩さんはこういって、美しくにっこり。





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