〔小房〕の粂八について




2004年02月23日(月)

五寸釘の拷問

発信:管理者の西尾

加来耕三さんの『新撰組の謎』に、捕らえた西木屋町四条上ル真町の桝屋喜右衛門が山科毘沙門堂の臣・古高俊太郎とわかった……との記述がありました。


加来耕三さんの『新撰組の謎』(講談社文庫)

桝屋は、京都で池波さんがよく行った飯屋〔しる好〕の東隣で、古高俊太郎逮捕の地の石碑も建てられています。




飯屋〔しる好〕とその東隣の石碑

新撰組では、近藤隊長が拷問にかかりましたが、口を割りません。

副長の土方歳三もほとほと手にあまし、いろいろ工夫した結果、まず古高の両手をうしろへまわしてしばり梁へさかさにつるしあげた。それから足の裏へ五寸釘をプツリととおし、百目ろうそくを立てて火をともした、みるみるろうが流れて熱鉛のようにトロトロのやつが古高の足の裏から脛のあたりへ……

これって、[1−1 唖の十蔵]で、粂がやられた拷問にそっくりですね。
池波さんは『鬼平犯科帳』連載の5年前に『幕末新撰組』を書き始めています。そのとき集めた史料で、古高の拷問ぶりを知ったのかも。



2003年07月26日(土) 19:10

「おんばあ」から回答

発信:海の家〔富士屋〕のおんばあさん

ホームぺージを見てくれて有難うございます。
〔おんばあ〕は、お母さんのことなのか伯母さんのことなのか、よくわかりませんが、知り合いの秋田の人の会話の中に出てきていたのです。
離婚した姉に代わり、私が育てた甥っ子が、その会話を覚えていて、大きくなるにつれて私のことを「お母さん」と呼ぶのも照れくさいし、「伯母さん」では他人行儀なので「おかあさん」と「伯母さん」を合わせて「おんばあ」になったのだと思います。
それがいまでは、全国的に「おんばあ」になりました。
昨年『ズームイン朝』でテレビ放映され、「おんばあ」が広がり、私が知らない間に、Yahoo!で検索すると「おんばあ」で出てくるそうです。
おんばあより。




2003年07月21日(月) 17:43

「おん婆」のこと

発信:越後ノ丸さん

「おん婆」についてですが、私の実家である新潟県北蒲原郡ではこのような言い方はしません。
「ばさま」「ばばさ」です。ためしにYahoo!で「おんばあ」について検索したところ、興味深い記事がいくつかありました。

■冨士屋のホームページ
http://members.jcom.home.ne.jp/onbaa/
管理人は「おんばあ」さん。葉山で海の家を営まれているそうです。プロフィール等は掲載されていませんでしたが、直接お問い合わせになると何かヒントがあるかも。

■ゆうYOUみやぎ(NHK仙台局)のページ
この中の投稿句に「おんばあ」という言葉がありました。
なお、「おんばあ」の発音についての想像ですが、「ん」は多分、小さく軽く発音するのではないかと思います。
たとえば、うちの実家地方で使われる「ばばさ」にしても、「ば」と「ば」の間に軽く小さい「ン」が入ります。「ばンばさ」というのが文字で表すと一番近いかもしれません。なので、文字で表すと「おんばあ」よりも「おンばあ」の方が実際に近いのでは、と推測します。


管理者:西尾からのレス

越後ノ丸どの。そういえば、新潟県も雪国でしたね。
『鬼平犯科帳』で幼い〔小房〕の粂八を連れていた「おん婆」には、雪のイメージがあります。
で、雪国で「おん婆」というのはどのあたりか、調べています。湖北の越前あたりかな、とも思ってみるのですが、越前には知り合いなくて……。



2003年03月28日(金) 13:25

〔小房〕の粂八は〔海老坂〕のお頭の配下にも……


発信:江戸・柳原岩井町の裏店住まい おこんさん


しばらくご無沙汰しているうちに、学のないあたしなんか、ちょっと近寄りがたいほどの高尚な内容のやりとりになっているんですね。それじゃ、あたしも負けてないで……と。
文庫巻5[おしゃべり源八]を読みかえしていたら、なんと、あたしのいい人……〔小房〕の粂八つぁんは、2年ほど〔海老坂〕の与兵衛お頭の下でお盗めをしていたことがあるって書かれているではありませんか。このHPの粂八つぁんの年譜には、そのことは記されてませんね。


管理者:西尾からのレス

おそういえば、おこん様、お久しぶりでした。それにしても、ご教示、ありがとうございます。たしかに、

 「伝五郎のいうことに、うそはございますまい」と、これは、むかし伝五郎と共に盗賊・海老坂の与兵衛配下として二年ほどはたらいたことのある小房の粂八のことばである。
([5-4 おしゃべり源八]p145 新装版p153 )

とありますね。年譜のほうはさっそくに補追します。おこん様のように、管理者側の手落ちを補っていただけると、HPのコンテンツがより充実し、全国の鬼平ファンの教典となっていきますです。



2003年2月15日(土) 11:36

〔小房〕の保内商人について

発信:滋賀県 小房(桜川西)の「歴史を誘う会」
   代表 西田善美さん

2月4日付、彦根市の菓子舗〔いと半〕の御隠居さんのメッセージに引用された私の文章に、若干、補足させていただきます。

*近江商人 代表格としては、琵琶湖東部に位置する、八幡商人、日野商人、五個荘商人ですが、それぞれ商いが違いました。
*保内商人 日野・五個荘の狭間にあって、特に呉服、塩相物、紙等を商いの主としていました。行商先は若狭国の小浜と伊勢国の桑名だったと聞いています。発祥は、中世(1400年頃)蒲生郡の延暦寺領、保珍保(荘園)中野、今崎、今堀、小今、市辺、三津屋、蛇溝、柴原、下二俣、尻無、大森の11ヶ村から成る領内のうち、畑作地帯の野方といわれる住人が結集した商人団です。

*御代参街道 お福の方(のちの春日の局)が将軍徳川家光の命により、上洛の途中、伊勢神宮から多賀大社へ参詣させた街道。のち伊勢国へ通じる脇往還(道中奉行の支配下でない道)。


管理者:西尾からのレス

西田さんからじきじきのご教示に、深く感謝。西田さんは、頭初の会の代表のほか、清酒〔志賀盛〕の醸造元・近江酒造(株)の取締役営業部長をなさっている碩学なので、同社の代表銘酒の写真と、URLを掲げておきます。

近江酒造(株) 大吟醸『錦藍』

近江酒造(株)HP
 http://www.shigasakari.com/こちらをクリック



2003年2月11日(火) 20:07

近江の「おん婆(ばぁ)」のこと

発信:滋賀県彦根在住 大森七幸さん

「おん婆」を周辺に聞きましたが、現在までのところでは、言葉として今、使っている人(年配者)はいません。
ただ、私を含め周囲の人は祖母を「うちのおばぁ」とはいいます。「御婆」だと思いますが・・・。
更なる聞き込みを続行し、情報が入り次第ご連絡します。


管理者:西尾からのレス

「うちのおばぁ」と、「ぁ」の小音が入るのですね。守山市の山本さんのコメントに「オンバ」があります。発声次第で、池波さんの耳は「オンバァ」と「ァ」を聞いていたということも想像できますね。



2003年2月10日(月) 16:10

〔琵琶湖畔の「おん婆(ばぁ)」の呼び方

発信:滋賀県守山市在住 山本和夫さん

守山市立図書館の若い女性が出してくた方言の本によると「オンバァ」「オンババ」はなく「オンバ」として、
(1)滋賀県方言調査 藤谷一海編著(昭和50)
  (株)教育出版センター
     東京都豊島区大塚 3-29- 2
 オンバ…………乳母    全滋賀県の方言
 オンバ…………女乞食   近江八幡地域の方言
 オンバ…………おばあさん 全県
 オンバ(卑)…同上    大津(田上)

(2)滋賀県南東部方言例辞典
   増井全典/増井典夫編著(平成 4)
   滋賀女子短大(大津市)勤務
 オンバ…………ばあさん、老人が自分の妻を呼ぶ言葉
     例:うちのオンバに付き添うてもろてるね。


管理者:西尾からのレス

図書館までわざわざ足をはこんでいただき、恐縮。
「原典」には「おん婆(ばぁ)」とルビがふられています。姉川の合戦のロケーションを実地に確認するために取材中の池波さんの耳には、「オンバ」が「オンバァ」と聞こえたのかも知れませんね。
あ、「聖典」ですか? シャーロキアンが原作を「聖典」と呼び、解説本やパーティッシュ(擬作)などとは区別しているのにならって、『鬼平犯科帳』文庫24巻を「聖典」と呼んでみたわけ。シャーロキアンに対して、われわれを〔ショータリアン〕と名づけたのは画家で絵本作家の長尾みのるさん。
もっとも、〔アングロファイル(英国びいき)〕をもじって、〔ショータリアン〕より〔鬼平ファイル〕の方がいいというファンもいることを付けくわえておきます。
長尾さんに謝意をこめて、挿絵を1点、ご紹介。

『富士浅間社祭礼 藁の蛇』

文庫巻17[鬼火]ほかに、駒込の富士浅間神社(文京区本駒込 5- 7-20)が登場しますが、旧暦6月1日の当社の山開きに近隣の農家がつくって売った蛇(じゃ)を描いてもらったものです。


六月一日富士講(『江戸名所図会』)



2003年2月10日(月) 0:11

「小房」の読み方

発信:三鷹市市会議員
   高井章博さん

いと半のご隠居のメッセージにあった「おふさ」が語源だとすれば、発音上「おぶさ」に転訛したと考えることが出来るかと思います。
ちなみに、「御代参街道」は小房を通ったあと、私の住んでいた日野町内を通過します。
それから「おん婆」ですが、基本的には、滋賀県全域で「オバア」という表現を使いますが、特に県の東部から南東部一帯にかけては、「オンバ」「オバン」という表現も使用されます。小房もこのエリアに属します。


管理者:西尾からのレス

「御代参街道」って、なんですか? 誰の代参で、どこへお参りしたのですか? 鬼平に関係がなくても、ちょっぴり気になります。



2003年2月4日(火) 13:10

「小房」の由来

発信:滋賀県彦根市 菓子舗〔いと半〕のご隠居さん

当市の商工会議所を通じての問い合わせに、蒲生町の郷土史家・西田善美氏が応じてくださった文書をそのまま送信します。

桜川西が位置する蒲生町は、琵琶湖の東岸に広がる湖東平野の東南部にある。(略)蒲生町の命名は万葉集に詠まれた蒲生野に由来し、昭和30年(1955)4月1日に朝日村と桜川村が合併してできた町である。
その中にあって、桜川西(小房)は、佐久良川の右岸に位置する沖積扇状地にある。(略)
前記の合併前、桜川西は桜川村小房を称していた。
中世の商人団(座商人)に従事する足子(寄子)と呼ばれる商人がいた。鈴鹿山系を越えて伊勢国の桑名、四日市に至る道筋の村々を商圏とする保内商人の足子〔おふさのひこ太郎〕とある「おふさ」は小房であり、その集団が〔小房〕とされる」
(応永25年[1418]4月19日付「足子交名」=今堀日吉神社文書集成= 581号による)
「保内商人として活躍した行商人の一部は、御代参街道脇……すなわち地元で商いをしたと思われる。
1714年(正徳17)の春日局からはじまる代参、1678年(延宝6)遊行寺僧の街道の利用によって沿道が発展して栩原神社(上小房)付近に商い場があったとしても不思議はない。
保内の(野方)商人の分家にあたる彦太郎商人集団がそこへ移り住んで、小房を称した。小はへり下った謙称語であり、房は束ねた糸の垂れ房とともに、分家の意味もある。〔小房〕は〔私は分家〕という当時の呼称のようにおもわれる」

遅くなりましたが、こんなところでいかが?


管理者:西尾からのレス

〔小房〕は〔私は分家〕、ですか。要するに、〔おふさの彦太郎〕は名高い〔近江商人〕の流れを汲んでいるわけですね。
〔小房〕の粂八が、預かった船宿〔鶴や〕をりっぱに利益をだす店にしてのけたのも道理なんだ。
まあ、粂八の生まれが「小房」ではなく、琵琶湖畔のどこかの村だとしても、〔近江商人〕の血は入っている…
…いや、保内商人が行商先でにはらませた子かもしれませんね。で、父親はドロン、母親は産後の肥立ちが悪くて逝き、おん婆に育てられた……。
ところで、「おん婆」って琵琶湖畔の用語かしらん?
『蝶の戦記』では、「小房」から山一つ越えた甲賀では〔ねずみのおばば〕だが。



2003年1月17日(金) 15:22

池波先生と招福楼

発信:滋賀県八日市市本町 8-11  招福楼ご主人

年末年始のあわただしさにとりまぎれ、お返事が遅れましたこと、深くお詫び申し上げます。
お問い合わせの件でございますが、池波先生には大変ご贔屓頂いておりました。
「食卓の情景」というタイトルで昭和47〜48年に『週刊朝日』に連載されており、それが昭和55年に新潮社より文庫本として出版されております。
その後、タイトルははっきり覚えておりませんがエッセイ集の中にも私どもを紹介して下さっておりました。
以上のようなところですが、西尾様のお役に立てばよろしいのですが、いい加減なことで申し訳ございません。


管理者:西尾からのレス

美しい小冊子、ありがとうございました。
いま、手元の『完本池波正太郎大成29』(講談社)を確認しましたところ、ご主人のおっしゃるように、『週刊朝日』1972年(昭和47)1月7日号から、翌1973年5月4日号まで、70回の連載でした。
そして、1973年6月30日に朝日新聞社から単行本が刊行され、7年後に新潮文庫になっていました。
『週刊朝日』の連載を企画・担当なさった重金さんもおっしゃていましたが、これ以後、池波さんの食についてのエッセイがふえたと。

『食卓の情景』単行本は重金敦之さんから拝借。

重金さんに「数多い自著の中から1冊だけ自薦すると……?」といって、あげてもらったのが、『食の名文家たち』(文藝春秋 1999.05.20刊 \1619)ただし品切れ中。文庫化の話がすすんでいると。帯のコピー「日本文学のグルメを探訪し、読み、味わい尽くす」


〔招福楼〕の小冊子より


〔招福楼〕の小冊子より

写真は〔招福楼〕の小冊子より
http://www.shofukuro.jp

〔招福楼〕東京店は東京駅前の丸ビル35F



2003年1月14日(火) 13:46

桜川村について

発信:三鷹市市会議員 高井章博さん

掲示板を直接拝見しました。「小房」についてわかる範囲で情報提供します。

1.桜川村の成立について
明治22年に川合村、木村、稲垂(いなたり)村、下小房村、上小房村、綺田(かばた)村、石塔(いしどう)村、平林村を合併して成立。村役場は下小房に置かれた。
昭和30年に朝日野村と合併し、蒲生町となった。

2.雪について
猪名川さんに転送していただいた文中に「冬場は50センチ強の積雪があり、多い年は1メートル近く積もることもありますが」と書きましたが、最近は長期的な暖冬傾向でそれほどは降りません。
昭和50年頃までは(私が隣町の日野町に住んでいた頃)よく降っていました。その頃までは、滋賀県東部、鈴鹿山系の麓の地域は、蒲生郡と甲賀郡の境あたりが多雪地域の南限でした。
小房からだとおおむね8キロほど南にあたります。したがって、江戸時代には、かなり積もったものと思われますね。

3.石塔について
この周辺は古来、刀の産地として有名です。江戸、紀州などで活躍した石堂派は、元は石塔村の出身です。
お気づきのように、「石堂」は「石塔」に由来し、読みは同じです。江戸時代も近江高木派の一部はこの周辺で鍛刀しました。なお、石塔は上小房の東側に隣接し、集落は約 1.5キロほど離れております。


管理者:西尾からのレス

刀剣についてのご造詣が深そうなので、いつか、鬼平の腰のものについてもご伝授ください。



2003年1月14日(火) 12:54

小房の写真・つづき

発信:三鷹市市会議員 高井章博さん

今回は、時間の余裕があまりありませんでしたので、上小房にしか行けませんでしたが、次の帰省の際には下小房にも行って来ようと思っております。その際には、またご報告させていただきたいと思います。
それから猪名川さん経由でお問い合わせのありました、「小房」地名の由来の件については、うちの母も知りませんでしたので、蒲生町役場に問い合わせておりますが、なかなか回答が来ない状況です。
もう一つ、猪名川さんからお聞きになったかもしれませんが、「小房」の読み方について、少々疑問点が発生しております。それは、西尾様からいただきました資料では「こぶさ」となっておりますが、「角川日本地名大辞典」では「こふさ」、さらに大正4年、上小房から7キロしか離れていない蒲生郡南比都佐村別所(現日野町大字別所)で生まれ、蒲生郡日野町大窪(現地名同じ)に嫁で、平成3年に亡くなった母方の祖母は、生前「おぶさ」と発音していました。この点についても、同時に問い合わせております。


管理者:西尾からのレス

高井さん。お忙しいお体なのに、ご教示、ありがとうございます。
「小房」の読み方については、おっつけ、町役場からコメントがくるでしょうが、池波さんは、原則として吉田東伍博士『大日本地名辞書』にしたがっていたとおもわれますので、現地での一般の呼び方とは異なっていることがあるかもしれませんね。

 高井さんのホームページ←こちらをクリック



2003年1月12日(土) 09:12

「上小房」の写真

砂町文化センター〔鬼平〕熱愛倶楽部 猪名川一雄さん

「市中見廻り」仲間で、滋賀県出身のAkihiro Takaiさんが「小房」の写真を撮ってきてくれましたので転送します。「目黒の彦十」「章奴」は「市中見廻り」でのハンドルネームです。

目黒の彦十様
こんばんは。
上小房の写真ができましたので、お送りします。
先日の西尾先生からのご依頼の件は、他の件と併せて、現在蒲生町役場に問い合わせております。回答が来次第、プリントした写真や地図と共に郵送させていただきます。
因みに問い合わせている他の件は、「小房」の読み方についてです。先日いただいた資料では「こぶさ」となっていますが、「角川日> 本地名大辞典」では「こふさ」、大正生まれで平成3年に亡くなった母方の祖母は「おぶさ」と言っていました。

「章奴」


管理者:西尾からのレス

〔章奴〕さん、〔目黒の彦十〕さん。お手配、ありがとうございました。
開けたいま風の日本の村落の風情の中にも、かつての農村の面影がうかがえます。粂八の「おん婆ぁ」は、この村で行き倒れたのでしょうね。



2003年1月8日(水) 

明治19年の近江の小房

発信:管理者 西尾のコメント

明治19年(1886)に陸軍参謀本部が出した20万分の1地図には、琵琶湖の東に「上小房」「下小房」の文字が見えます。当時は上と下にわかれていたのですね。
池波さんが忍者ものでこのあたりへ取材に行ったとして、時期を『鬼平犯科帳』執筆の前とすると、1962年(昭和37)から「内外タイムス」ほかへ連載した『夜の戦士』、1964年(昭和39)に「週刊新潮」連載『忍者丹波大介』あたりですかね。


「上小房」「下小房」

拡大図をご覧になりたい方は上のボタンをクリックしてください。


「夜の戦士」

「忍者丹波大介」



2003年1月7日(火) 17:33

寺尾 聰の〔小房〕の粂八も見てみたいよぅ

発信:江戸・柳原岩井町の裏店住まい おせんさん

38歳、女ざかりの欲求不満とは、よくも、よくもいってくれましたわね。ここは色ッけ抜きのHPと安心してましたのに。
でも、粂八さんって、19歳のときに押し入った岡崎の吉野屋千助方で飯たき女をなぶり、〔血頭〕の丹兵衛お頭の逆鱗にふれて破門されたほどのあれ好きなんでょ?
15年ぶりに再会した丹兵衛お頭もいってますよ。
「お前もむかしから女には目がねえやつよなあ」
って。なのに、どうして、ここんところはご無沙汰のかぎりなんでしょ?
むだ口はやめて――と。
蟹江敬三さんの粂八さんもすてきだけど、白鸚丈のときの寺尾 聰さんの粂八さんが見てみたい。当時、あたしは 6歳の小1の幼女で、隣の机の男の子と手をつないでもピリとも感じませんでしから、ねえ。


管理者:西尾からのレス

「男子、三日会ワネバ刮目(かつもく)シテ待ツベシ」
といいます。なのに〔血頭〕の丹兵衛お頭の粂八評は、15年前の19歳当時のそれとまったく変わっていない。
もっとも、粂八どんのお頭観も、19歳の時に尊敬していた正統派のリーダーとしてのもの。
人間は、環境次第で変わるものです。
そうか。おせんさんの暖かい情けで、粂八どんの女性観も変わるということか。
ま、[血頭の丹兵衛]の一篇は、思いこみ・刷りこみの蹉跌……と、とっておきましょう。
寺尾 聰さんの粂八は、先代幸四郎丈の第2期の役でした。第1期が牟田悌三さん。
中村吉右衛門さん=鬼平で〔五鉄〕の三次郎をやっている藤巻 潤さんの、粂八役もありました。



2003年1月2日(木) 22:37

〔招福楼〕の件

発信:元『週刊朝日』副編集長
   重金敦之さん

私が池波さんと〔招福楼〕へ一緒したのは、72年(昭和47)の夏、『食卓の情景』の取材で、一泊しました。
池波さんは、そのときが、初めてだったはずです。
行って帰ってきただけで、周辺はどこにも寄りませんでした。
その後、『太陽』の取材で、カメラマン同行で、再度訪れたのです。
おそらく76年(昭和51)の初夏ではないかと思われます。
文庫(注:『散歩のとき何か食べたくなって』)に載っている写真は『太陽』の取材チームの撮影だと思います。
そのあたりの事情は筒井ガンコ堂さんに聞けばより詳しくわかるはずです。

「近江・八日市」はp166


管理者:西尾からのレス

重金敦之さんは、『週刊朝日』編集部時代、池波さんの『食卓の情景』の連載を企画・担当なさった方です。
「招福楼」のことを教えてもらいました。
新潮文庫『食卓の情景』「近江・八日市」(p166)は、重金さんといっしょのときの報告なんですね。



2003年1月1日(水) 11:04

〔小房〕の粂八さんの恋人志願

発信:江戸・柳原岩井町の裏店住まい おせんさん

粂八さんって、寛政7年だと41歳の男ざかりではありませんか。
それなのに、31歳のときに、芝・高輪の料理屋の女将・お紋さんと駆け落ちしたっきり、女っ気がないってのは、どういうこと?
そういうことなら、あたしが、彼の女になろうかな。38歳の女ざかりよ。


管理者:西尾からのレス

新春早々のおせんさんの、浮きたつようなお申し出は、きちんと粂八どんへ伝えるとしまして、文庫巻18[馴馬の三蔵]にも、

近ごろの〔鶴や〕の評判はなかなかのもので、常客も少なくない。(p43 新装版p45)

とあり、預かった舟宿の経営と密偵仕事に懸命で、女のことは二の次、三の次なのかも……。
で、おせんさんのせっかくのお申し出をお受けしたとして、38歳女ざかりのおせんさんのほうが欲求不満でおもだえになっても、こっちは知りませんからね。



2002年12月30日(月) 14:08

近江:招福楼

発信:砂町文化センター〔鬼平〕クラス 猪名川一雄さん

初出かどうかわかりませんが、〔近江・招福楼〕は、『散歩のとき何か食べたくなって』に出ています。
私の持っている新潮文庫では、 105ページです。読み返してみますと、
「蒲生の山を南へ越えると、忍びの者の甲賀の里がある」
とあります。池波先生は忍者小説をたくさん書いています。取材で訪れたことも多いでしょう。
そんなときに「小房」の地名が目に留まったかもしれません。

近江・招福楼はp105


管理者:西尾からのレス

さっそく、新潮文庫を取り出して『散歩のとき何か食べたくなって』の「近江・招福楼」を再読しました。
かつて読んだときは、〔小房〕の粂八と関係があるなどとはおもいしもしなかったので、記憶にとどめなかったのですね。
いま、猪名川さんのご指摘のように、関ヶ原や忍者小説の取材……「小房」の里の発見……と連想していくと、粂八の創造の経緯もわかってきます。
ありがとうございました。



2002年12月30日(月) 9:25

八日市市の〔招福楼〕について

管理者:西尾から、猪名川一雄さんへ。

猪名川一雄さんの23日の〔小房〕の粂八についてのコメントで、
[池波先生が愛された、八日市市〔招福楼〕はこのすぐ近くに位置します]
とありました。
とっさに、〔招福楼〕についての池波さんの文章がおもい出せません。初出の媒体、その後に収録した文庫の題名など、どんな手がかりでもけっこうですから、お教えいただけないか、滋賀県ご出身のサイトお仲間へお問いあわせいただけませんか。



2002年12月25日(水) 10:14

「小房」と「石塔」について

発信:滋賀県蒲生郡蒲生町役場 総務課長

昭和30年4月1日に蒲生町への合併以前に、「小房」と「石塔」は「桜川村」となっていました。
「小房」は当町の中央、「石塔」は東に位置しています。合併前の「小房」の人口は約 340人、ほとんどが農家でした。


管理者:西尾からのレス

そういうことだと、「小房」と「石塔」が合併して「桜川村」を称した年月日も知りたくなりますね。
『鬼平犯科帳』は文庫だけですでに2,200万部も売れている、まさに国民文学です。
また、テレビでの視聴率は15〜25パーセント、あの業界では1パーセントは 100万人が視聴している想定しています。
蒲生町役場にその気があれば、〔小房〕の粂八はりっぱな観光資源になるはずですがねえ。



2002年12月23日(月) 9:33

近江の小房

発信:砂町文化センター〔鬼平〕熱愛倶楽部 猪名川一雄さん

近江の小房について、私が参加しているwebサイト「市中見廻り」のお仲間で、滋賀県出身の方から次のような情報をいただきましたのでご紹介させていただきます。

近江小房は私の故郷、近江日野のすぐ隣です。現在の蒲生郡蒲生町大字桜川東と同桜川西にあたり、石塔とは近接しますが、別の土地です。江戸時代には、近江国蒲生郡上小房村(仁正寺藩領 611石余)と同郡下小房村(淀藩領 500余+彦根藩領84石余、淀藩領はのち天領→朽木氏領 537石余)に分かれており、行政単位としては、
「小房」と総称されたことはないようです。
冬場は50センチ強の積雪があり、多い年は1メートル近く積もることもありますが、山村ではなく、近江盆地の肥沃な田園地帯です。
なお、池波先生が愛された、八日市「招福楼」はこのすぐ近くに位置します。
石塔につきましては、現在は蒲生郡蒲生町大字石塔で、江戸時代には蒲生郡石塔村と言いました。古来、百済遺民が土地を賜って住みついた場所であり、石塔寺という古代朝鮮様式の巨大石塔を有する寺院が存在します。
当初は天領 839石+石塔寺領18石、その後天領部分が仙台藩領 700石と彦根藩領 139石余となり、幕末に至っています。


管理者:西尾からのレス

やっぱり、「小房」は滋賀県蒲生郡蒲生町だったのですね。
池波さんが書斎に常備してしきりに引用していた、吉田東伍博士『大日本地名辞書』(明治33年〜。冨山房)には、「小房」は 猪名川さんのコメントにある「石塔」の項に小さく補足てれていました。この『辞書』には、ほかに「小房」は掲載されていません。
「小房」の粂八は、自分の出生地は聞いていないでしょうが、おんばあが倒れた場所を通り名にしたと考えたらどうでしょう?
「雪、また雪……」というのは、湖北を巡礼(もの乞い)していた時の記憶ではないのでしょうか。



2002年12月21日(土) 07:35

小房の粂八

発信:砂町文化センター〔鬼平〕熱愛倶楽部 猪名川一雄さん

粂八の生い立ちは「12-2 高杉道場・三羽烏」で次のように記されています。
「両親の顔も知らぬ小房の粂八は、祖母らしき老婆に育てられ、七つ八つのころまでは、近江の雪深い山村にいたらしい。(略)
その老婆が急死してのち、粂八は、さまざまな人の手から手へわたり、(略)少年の頃の粂八は、大阪の見世物芸人・山鳥銀太夫一座で、綱渡りの芸を見せていたこともあるそうな」

『ぽすたるガイド』で「小房」を検索しますと、
・奈良県橿原市小房町(オウサチョウ)
・和歌山県西牟婁郡日置川町小房(オブサ)
・岡山県英田郡作東町小房(オブサ)
があります。池波先生は何度も「こぶさ」とルビをふっておられますが。
私は、粂八の祖母が、「お前は(近江とも近い)大和の国の小房の生まれなのだよ」と教えたのだと推測してみました。しかし、現代の郵便番号簿からは消滅した地名もあるでしょう。
『大日本地名辞書』では滋賀県に「小房」はあるのでしょうか。


管理者:西尾からのレス

とてもユニークな粂八の出生地説、ありがとうございました。
まず、『大日本地名辞書』ですが、「小房(こぶさ)」はあります。
・小房(石塔)で、収録されています。
「石塔」の項の注としては、小房(こぶさ) いま、桜川村の大字なり。古刀に「江州蒲生住助光」と銘ずる者ありとぞ。この地の住人なりしならん〔古刀銘鑑〕とあり、さらに、
「木村(きむら」の項に、いま、川合、小房(こぶさ)、石塔などを合同して桜川(さくらがは)村と曰ふ。桜川は佐久良谷より出て、即蒲生川の上流なり(略)。〇輿地志略云 木村佐左衛門尉行定は蒲生木村に在住す。佐々木経方の二男なり、男兵部少輔定道相続してここに居り、佐々木の神官を譲与せらる(略)。
「石塔(いしだう)の項は、いま、桜川村の大字なり。〇温故録云 昔天竺仏生国阿育王八万四千塔の一を、一条院御宇定基法師(俗姓大江)渡唐して清涼山に行住し、遂にこの塔を感得し、因幡国霊位寺に流し寄せ、寛弘三年(注・1006)佐々木氏ここに置くと。(略)
いま、桜川は滋賀県蒲生郡蒲生町に属しているので、町役場の総務課長あて、「小房(こぶさ)」を含む桜川村が1955年(昭和30)年4月1日に蒲生町へ併合された経緯を問い合わせているところです。蒲生町は琵琶湖の東側とはいえ、鈴鹿山系のふもとに位置する水田地帯です。雪もけっこう降るのでは……。また、池波さんは、織田と浅井の紆余曲折を調べていて小房(こぶさ)を発見したのかもしれまんね。

〔小房〕の粂八の簡単な年譜を作っているので、ご披露
します。みなさんの手で、どんどん補充してください。

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