1.名越(なごし)の地名は、同地に創建された名超(なこし)寺と
ここに祀られた名超(越)童子に由来するとされています。
江戸時代中期の書物『近江輿地誌略』には、名超寺について「寺記に曰く人皇40代天武天皇白鳳年中の草創、三朱沙門の開基、名超童子久條練行の臨跡、故に名超寺と號す」との記述が見えます。
また、名越町には後鳥羽上皇行幸の伝承があり、明治12年に名超寺境内に後鳥羽神社が創建されました。この付近は古代に鳥羽上庄と呼ばれる荘園が置かれたあたりとされ、後鳥羽上皇の侍臣藤原能茂の子孫に預所職があてがわれています。
なお、名越が村として単立したことが史料上確認されるのは、幕藩体制下の彦根藩支配においてで、正保・元禄・天保の各郷帳では、その石高は常に約 507石と報告されています。
ちなみに元禄8年の「大洞弁天寄進帳」には、当時の人口は男126、女126、寺方の男7、同女5と見えます(ただし、郷帳などの書き出しには高持ちではない人びとは記載されません。念のため)。
2.合併時の名越村の人口と戸数、および主たる産業
合併時の様相ですが、名越村はいわゆる行政村ではありません。明治維新の後、明治22年(1889)の町村制施行によって西黒田村の大字となり、その後昭和18年(1943)には、西黒田村ほか6地区が合併して現在の長浜市域となりました。
明治13年前後に刊行された『滋賀県物産誌』によると、名越村の人口は平民のみで 210人、戸数は63とあり、全戸が農業に従事し、その約半数が養蚕を営んでいます。米以外の主な作物としては、大麦、大豆、菜種、桑葉、そして葉煙草とあり、周辺他村と際だった違いはありません。
ちなみに、平成14年8月時点での名越村の世帯数は71、人口は男女共134名となっています。
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