〔名越〕の松右衛門について




2003年10月14日(火) 21:03

正統派・名越の松右衛門の出身地

発信:千葉の辻売り屋さん

いつも楽しませていただいています。とりわけ鬼平ファンの機関紙のような「わいわい談義」を堪能しています。ほんと、専門紙そこのけの多彩な内容で、ファンとしては随喜の涙で、読む目が曇りっぱなし。
ところで古い話で恐縮ですが、「わいわい談義」の〔名越〕の松右衛門の出身地を、05月23日分では、滋賀県長浜市の「名越」と推理されていますが、文庫17巻[鬼火]p320に小網町の線香問屋・熊野屋作兵衛方へ押し込んで三千数百両を奪った事件について、こう書かれています。

 このとき、熊野屋方の手代と小僧を合わせて四名、名越一味が重傷を負わせたのだ。
「これで、もう、わしの盗めは終りじゃ」
 ついに、掟を破ってしまった名越の松右衛門は、落胆のあまり盗金を残らず配下の者たちへ分けあたえ、ひとり、飄然と故郷の伊勢の国へ姿を隠した。


ということは正統派盗賊・名越の松右衛門の出身地は滋賀の長浜市の名越ではなく、伊勢のどこかになりませんか?


管理者:西尾からのレス

[鬼火]のp320 新装p330は、ご教示のとおりになっていますね。長浜市の「名越」と決めたのは、どうやら、早とちりでした。
CD-ROM「郵便番号」で「ナゴシ」を検索、三重県では、

 鈴鹿市長太新町(スズカシナゴシンマチ)

があるだけでした。ほかには、

 岐阜県各務原市鵜沼真名越町
 滋賀県長浜市名越町
 京都府八幡市下奈良名越
 熊本県下益城郡砥用町名越谷

いずれにしても、別のなんらかの資料をあたるか、「伊勢の国」にお住まいの方からご教示をいただくか、池波さんの記憶間違いとするか、ですね。
これからも「わいわい談義」をご堪能ください。



2003年05月23日(金) 15:05

長浜の名越村のこと

発信:長浜市役所市史編さん室学芸員 橋本 章さん

1.名越(なごし)の地名は、同地に創建された名超(なこし)寺と
  ここに祀られた名超(越)童子に由来するとされています。

江戸時代中期の書物『近江輿地誌略』には、名超寺について「寺記に曰く人皇40代天武天皇白鳳年中の草創、三朱沙門の開基、名超童子久條練行の臨跡、故に名超寺と號す」との記述が見えます。
また、名越町には後鳥羽上皇行幸の伝承があり、明治12年に名超寺境内に後鳥羽神社が創建されました。この付近は古代に鳥羽上庄と呼ばれる荘園が置かれたあたりとされ、後鳥羽上皇の侍臣藤原能茂の子孫に預所職があてがわれています。
なお、名越が村として単立したことが史料上確認されるのは、幕藩体制下の彦根藩支配においてで、正保・元禄・天保の各郷帳では、その石高は常に約 507石と報告されています。
ちなみに元禄8年の「大洞弁天寄進帳」には、当時の人口は男126、女126、寺方の男7、同女5と見えます(ただし、郷帳などの書き出しには高持ちではない人びとは記載されません。念のため)。

2.合併時の名越村の人口と戸数、および主たる産業

合併時の様相ですが、名越村はいわゆる行政村ではありません。明治維新の後、明治22年(1889)の町村制施行によって西黒田村の大字となり、その後昭和18年(1943)には、西黒田村ほか6地区が合併して現在の長浜市域となりました。
明治13年前後に刊行された『滋賀県物産誌』によると、名越村の人口は平民のみで 210人、戸数は63とあり、全戸が農業に従事し、その約半数が養蚕を営んでいます。米以外の主な作物としては、大麦、大豆、菜種、桑葉、そして葉煙草とあり、周辺他村と際だった違いはありません。
ちなみに、平成14年8月時点での名越村の世帯数は71、人口は男女共134名となっています。


管理者:西尾からのレス

「名超寺」は、池波さんが座右に置いていた吉田東伍『大日本地名辞書』にも、たしかに、こうあります。

 常喜院とも称す。伊吹山護国寺の別院にして、三修法師 の弟子名
 超童子の創建とぞ……(以下略)。


『鬼平犯科帳』の文庫巻17[鬼火]では、家督を弟にゆずり出奔せざるをえなくなった幕臣が、〔名越(なごし)〕の松右衛門の世話を受けるのですが、この正統派の盗賊の出身が近江なのか三河かで、なやんでいました。
三河の「名越」は、愛知県南設楽郡鳳来町史跡文化財係の谷川さんのご教示で、「なこえ」と音訓するそうなので、どうやら、長浜の「名越」出身としてよさそうです。
長浜はたしか、織田方の武将の一人だった秀吉が最初に拝領した土地でしたね。
秀吉の前は、浅井家が支配していましたっけ? とすると池波さんは戦国ものの取材時に立ち寄ったのかも。

参謀本部陸地測量部 明治22年制作

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栃尾市ホームページ
 http://www.city.tochio.nigata.jp



2003年05月21日(水) 18:25

「名越」について

発信:愛知県南設楽郡 鳳来町教育委員会
   史跡文化財係 谷川立樹さん

1.名越村の誕生の時期
  名越村の誕生の詳細な発生については、不明ですが、寛永年間(1624
  〜44)の検地本帳には、「なこへ」と  いう文字が見えます。
  また、享保8年(1723)の文書には「名越」というものが見えていま
  す。
  現在でも字名として「名越」の地名が残っています。

2.名越村の合併の経緯と人口、戸数および主たる産業
  名越村→大野村(明治22 合併)→名越村(明治23分村)
  七郷村(明治39 合村)→鳳来町(昭和31 合併)
  明治21年 45戸  224人
  明治39年 49戸  280人
  平成 3年 51戸  220人
  
  主たる産業 明治・大正と養蚕。

3.名越の読み方
  「なこえ」


管理者:西尾からのレス

谷川さん。ありがとうございました。
池波さんは、盗人の呼び名をつくるとき、ときどき〔池波流〕音訓をやります。「名越」は、〔池波流〕だと〔名越(なごし)〕の松右衛門。<文庫巻17 p318 新装p329 >
ところで、「名越」は、

 滋賀県長浜市名越町←名越村
 愛知県南設楽郡鳳来町名越←名越村
 大阪府貝塚市名越


とあり、貝塚市は「なこせ」と読ませているそうです。
鳳来町のは「なこえ」。
鳳来町名越は鳳来寺山の下ですが、武田軍団か織田軍団になにかゆかりがあるのでしょうか。

参謀本部陸地測量部 明治22年制作

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