〔舟形〕の宗平について



2003年05月09日(金) 07:54

〔舟形〕の宗平と〔船形〕の五平


発信:管理者の西尾

[わいわい 〔舟形〕の宗平]に、学習院〔鬼平〕クラスの堀 眞治郎さんが、 1月 3日付のコメントで、宗平を東北出身と仮定されていますが、司馬遼太郎さんの『菜の花の沖 (三)』(文春文庫)にこんな文章がありました。舞台は箱(函)館湊です。

 高橋三平の背後に、つねに家来の五平がひかえている。 五平が、出羽の最上川のほとりの金谷(かなや)という在所のうまれで、姓を船形(ふながた)とよぶということは、(高田屋)嘉兵衛もきいていた。(略)
 船形五平は、農民の出である。
 かれの出身地である出羽の最上川沿いの村山盆地では、紅花が栽培される。商品作物としては換金性がきわめて高い……。(略)
 こういう社会から出てきた船形五平が、江戸に出て本多利明から天文、数学、測量を学ぶようになったというのは、奇異とするに足りない。(略)
 最上川は、出羽の大動脈で、日本海きっての交易港である酒田湊にそそいでいる。

    

    
司馬遼太郎『菜の花の沖』(文春文庫刊)

 池波さんと司馬さんは、たしか同年齢で、親しくもしていました。
『菜の花の沖』のサンケイ新聞での連載開始は1978年(昭和53)04月01日で、『オール讀物』1970年(昭和45)05月号の第28話[敵(かたき)]の〔舟形〕の宗平のほうがはるか早くに登場しています。
 まあ、調査魔・司馬さんのこと、『菜の花…』の船形五平は実在の人物らしいので、〔舟形〕の宗平からヒント……はないでしょうが、偶然にしてはなにか暗示的です。

 わいわい談議〔舟形〕の宗平←ここをクリック



2003年2月2日(日) 14:56

「初鹿野」について

発信:山梨県東山梨郡大和村役場 総務課
   佐藤光正さん

「初鹿野村」などが合併、大和村が誕生した経緯を『村史』から引用します。
「大和村は、昭和16(1941)年2月に、近隣の5カ村、すなわち木賊(とくさ)村、田野村、日影村、初鹿野村、鶴瀬村が合併してできた行政村である。(略)役場を初鹿野村に置いた。
その後昭和29年(1954)の町村合併促進法に基づいて隣接の勝沼町との合併の運動もあったが、産業経済や地理的立地条件も異にする点が多く併合するところまではいかなかった。しかし、勝沼町に隣接していた深沢地区は、このおり勝沼に合併し、大和町から分離したのである」
昭和10年(1935)の「初鹿野村」の全戸 228が本農業および自作農家で、うち半数が養蚕をしていのしたから、江戸時代もそんなところであったろうと推察できます。
村全体の人口は、平成12年(2000)に1,541人、少子化や若者の流出でご多分にもれず老齢化がすすんでいます。
『甲斐国志』山川部は、初鹿野山を「マタ初鹿根ニ作ル、山中ニ木賊(とくさ)多シ、故ニ古名ヲ木賊山ト云フ、此ノ山最モ高クシテ……」と記しています。
長谷川平蔵のころに町奉行をしていたという初鹿野河内守信興については、村誌などを調べた範囲では記載がなく、また初鹿野家が村を領していたという記録はありません。


管理者:西尾からのレス

貴重な資料をありがとうございました。〔船形〕の宗平が密偵となるまえに属していた〔初鹿野〕の音松の盗人宿を預かっていたと、文庫巻4[敵(かたき)]にあります。このお頭の出身は「初鹿野村」でしょうが、「自分の部下ばかりでなく、ほかのところの者のめんどうを見てやっていなさる」ということのほかは、年齢も人相もまったく記述されていません。めんどう見がいい性格は東山梨郡人のものでしょうか?
そうそう、〔初鹿野〕の音松には文庫巻10[蛙の長助]の主人公、〔蛙〕の長助という配下もいましたね。
寛政3年(1791)、長谷川平蔵が「銭の値をあげるように」と命じるために両替商などを北町奉行所へ呼びつけた時に同席した奉行が、初鹿野河内守信興(天明8年〜寛政4年 48歳)でした。
初鹿野信興は、依田豊前守政次の三男から初鹿野家へ養子に入った仁です。
初鹿野家の先祖のひとり、加藤伝右衛門昌久が、武田信玄の命で「初鹿野姓」に改めたと『寛政譜』は記しています。「初鹿野村」とは関係がなく、信玄の単なる思いつきだったのでしょうね。
ついでなので、明治20年(1887)に参謀本部陸地測量部が発行した「初鹿野村」近辺の地図をご参考までに付しておきます。


参謀本部陸地測量部発行の地図より「初鹿野村

拡大図をご覧になりたい方は上のボタンをクリックしてください。

初鹿野河内守信興の同席による銭相場の、当時の風評は現代語訳『よしの册子』第12回にくわしい。

 『よしの册子』第12回こちらをクリック



2003年1月3日(金) 23:47

〔舟形〕の宗平について

発信:学習院〔鬼平〕クラス
   堀 眞治郎さん

東北出身(と仮定している)〔舟形〕の宗平は、甲斐(山梨県)出身のお頭〔初鹿野〕の音松と、どこで、どんなふうに出会ったか……を推測してみます。
資料として〔舟形〕の宗平と〔初鹿野〕の音松に関する特記事項を添付しておきました。
この資料をベースに考えてみますと、〔初鹿野〕音松は自分の手下ばかりでなく、ほかのところの者もよくめんどうを見てやっているということで、そこから盗賊界の情報を集めていたと考えられます。
で、かの大盗[簑火]の喜之助配下で鍛えられた宗平をトレードあるいはスカウトして自分の配下とし、軍師としても重用し、60代になってからは盗人宿の番人として処したと考えています。
(現代風に言えば、一流企業戦士を情報網を張りめぐらしておいてトレードまたはスカウトで獲得したということになります。
甲斐の出身である音松は「企画力のあるアイデアマン」(山梨人の県民性)だったのでしょう)時期は大滝の五郎蔵が独立した後で、宗平が40代後半から50代前半の頃か?(宗平の年齢に関する作者の記述が一貫していないのであやしいが……?)

◆添付データ

*文庫巻4 [敵]p257 〜新装p269〜(寛政元年)
○盗賊・初鹿野の音松の〔盗人宿〕の番人は舟形の宗平という老人であった。
○「……なにしろ初鹿野のお頭は自分の手下ばかりでなく、ほかのところの者もよくめんどうを見ていなさるのでね」
と、己斐の文助が五郎蔵にいったのである。
○舟形の宗平は、むかし、五郎蔵と同じ簑火一味で、若いころの五郎蔵はなにかにつけて、宗平の厄介になったものなのである。いまの宗平は、たしか七十をこえているはずだ。

*文庫巻7[泥鰌の和助始末]p193 新装p202 (寛政4年)
○六十をこえた宗平は、盗賊の世界に通暁している。

*文庫巻9[雨引の文五郎]p21 新装p22(寛政5年)
○舟形の宗平は、かって初鹿野の音松の〔軍師〕などといわれた…。
○だが、七十をこえた宗平だけに、このごろは躰のぐあいが…。

*文庫巻10 [追跡]p98 新装p103 (寛政6年)
○……いまは盗賊改方の密偵になっている舟形の宗平老人が、もとは初鹿野の音松の配下……。

*文庫巻11[穴]p104 新装p109 (寛政6年)
○「……私が前に、初鹿野の音松の下で盗めばたらきをしておりましたとき、合せて四度ほど、音松の使いで八日市へ出向き……」


管理者:西尾からのレス

なるほど。〔舟形〕の宗平が目黒の〔盗人宿〕の百姓家で長谷川組に保護されたときは60歳代。宗平が宿を預かっていることを知った〔大滝〕の五郎蔵の台詞……
「そうか、船形の爺つぁんが、いまは初鹿野のお頭の盗人宿の番をしていなさるのか……」
から推測すると、宗平と五郎蔵は10年、いや20年以上も会っていないようにも感じられます。
とすると、宗平が〔簑火〕の喜之助の下を離れたのは、五郎蔵が独立したちょっとあとかも。そして、間もなく〔初鹿野〕の音松にスカウトされた……。
ただ、〔舟形〕の宗平は人あたりがよすぎるから、お頭には向かないでしょう。やはり、面倒見のいい副官、ってところですね。





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