〔雨乞い〕庄右衛門について




2004年09月04日(土)

駿河国の「下の郷」

発信:管理者の西尾―――

文庫巻7[雨乞い庄右衛門]をクラスで講じたとき、江戸の芝の蝋燭問屋でおつとめをした庄右衛門は、東海道・藤枝に近い下ノ郷という村にある〔盗人宿〕へ行き、妾のお照と共に暮すうち、発病をした。「下ノ郷」村について明治20年ごろの地図を示し、
「東海道ぞいの藤沢宿か北へらほぼ1里もはずれた小村を、池波さんはどこからおもいついたのか」と問いかけました。
[雨乞い庄右衛門]の発表は『オール讀物』1971年(昭和46)08月号、執筆は同年の 5月前後。
08月13日の当欄で紹介した「池波さんの旅行先リスト」にある、31年前の1968年 3月の駿河路取材のときの産物らしい、が結論でしたが、それにしても岸井良衛さん『五街道細見』にも記載されていないような小村に、よくまあ目がいったものです。

ついでに書きそえると、「下ノ郷」村は明治中期に、葉梨川ぞいの北方、中ノ合、西方、下藪田、中藪田、上薮田、時ヶ谷などの村々と合わせて「葉梨村」を称し、のち藤枝市へ合併されました。


『駿国雑志』より転載の地図で、下ノ郷のほか、近隣の中ノ合、北方、西方、下藪田、
中藪田、上薮田、時ヶ谷をご確認ください。




2003年08月09日(土) 19:01

糸井重里さんの埋蔵金探しは梅ヶ島金鉱?

発信:コピーライター志望のUさん

静岡県北端の梅ヶ島村が、武田信玄の砂金堀りの場所だったとの、08月04日付のコメントを読みました。コピライター志望者あこがれの糸井重里さんがやられている金鉱探しは梅ヶ島のそれなのでしょうか?


管理者:西尾からのレス

え? ぼくもコピーライター出身ですが、糸井さんとは年代がはるかに隔たっており(もちろん、ぼくのほうがロートル)、糸井さんが金鉱探しをやっているなんて初耳。
それはそれとして、ご質問は、糸井さんの『ほぼ日刊イトイ新聞』へなさるべきでした。
ま、コピーライター必須条件の一つが質問上手……との観点からいえば、Uさんは第一関門をみごとクリヤーなさっていますよ。



2003年08月04日(月) 15:10

梅ヶ島村誌を見つけました

発信:管理者の西尾からメッセージ

このところ、月1で静岡県立中央図書館へ資料さがしに通っており、きのうは、文庫巻 7[雨乞い庄右衛門]で〔雨乞い〕のお頭が湯治していた梅ヶ島の湯に関係のある『安部郡梅ヶ島村誌』を見つけました。
毛筆書きで製作年月日は記載されていませんでしたが、文章から推測して明治期か大正期のものかと。
温泉の部と金山の部を一部引用しましょう。

温泉を説明した原文(原寸はB5サイズ)


「五、温泉。新田より北すること1里、三河内川の右岸にあり。称して金光泉という。けだしその泉の色、黄金を帯ぶるをもって命名せりといふ。温度42度にして湧出の量多からざるも皮膚病および上衝(のぼせ)などに効あり。平常は浴客少なきも春秋の季節には大に賑ふ。地勢上僻遠の地で困難なるゆえに、接近するところの山梨県人の浴客多く、その他としては本郡(注・静岡県安部郡)静岡市および志太郡などの浴客を最なるものとす。(以下略)」

梅ヶ島は現在、静岡市に編入されており、市の中心部からバスで1時間ちょっとの距離だが、江戸時代のように徒歩だと、山梨県側から安部峠ごえのほうが、静岡市からの15里よりもうんと近かったのかも。それでも安部峠ごえは半日がかりと。
泉質は炭酸系なので「入浴すると滑らかに感ずる」と。湯効に上衝(のぼせ)とありますが、50をこえた〔雨乞い〕庄右衛門の疾患は「関節炎と心臓」。まあ、「のぼせ」は循環器系なので関係なくもない、といえましょうか。
そうそう、庄右衛門が発病したのは東海道・藤枝に近い下ノ郷の〔盗人宿〕でした。そこで10ヵ月ほど療養していたのち、
「こんなところにかくれていては、死ぬのを待つばかりだ。一か八か、梅ヶ島へ行ってみる。あそこの湯につかって、気長に湯治をすれば、もう一度、お盗(つと)めができるかも知れねえ」
安部峠をこえた甲斐の富士川ぞい、横根生まれの庄右衛門は、少年のころに父親につれられて梅ヶ島の温泉に来たことがあったのです。
池波さんが、梅ヵ島から安部峠ごえで身延町へでた事実は 3月22日のこのコーナーで明らかにし、わいわい談義へ記録しています。

砂金坑を説明した原文


「第四節 遺跡
一、砂金坑 年代不明の坑道にしていまなお旧形を現存するものに3個あり。入島地内向ひ山に1か所、梅ヶ島本村に1ヶ所、おなじく新田地内三河内に1ヶ所あり。しかして最近に至るまで発掘作業の従事せしは、日影沢とす。(以下略)」


戦国時代には地勢の関係で武田領だったのですが、武田信玄としては、温泉よりもこの砂金が目当てだったふしもあります。



2003年05月24日(土) 10:05

信玄が開いた道…梅ヶ島=陸合村

発信:管理者の西尾

池波さん初の長編『夜の戦士』(角川文庫)は、昭和37年(1962)01月16日から「宮崎日日新聞」ほか5紙に 373回にわたって連載。その上巻p299でこんな文章に出会いました。

山道は、梅ヶ島を経て甲州の陸合村(りくあいむら) に通じている。この山道を切りひらいたのは武田信玄である。今川家 との間に同盟をむすび、駿河の港に数隻の持船をおいて、 中国地方との交易もおこなっている武田信玄だから、こ の陸合路とよばれる道のほかに駿河へ出るための四つの 道をもっている。

2002年11月25日の掲示板で、梅ヶ島の湯での〔雨乞い〕庄右衛門の湯治にふれ、その後、池波さんが安部峠を越した経緯も明らかにしました。
「駿河へ出るための」ほかの四つの道……の一つが、富士川に沿ってくだる道でしょうかね。




2002年11月25日(月) 13:23

「横根中」の件

発信:山梨県南巨摩郡身延町 商工観光担当
   垣島さん・望月さん

「横根」という地域は、江戸時代(1800年ごろ)には横根村、中村という形であったようですが、横根中村と呼ばれていたようです。現在は「横根」という地域はありません。「横根中」です。「横根」と略して呼ぶ人はいるかもしれませんが。身延町へ合併された経緯は、明治8年(1875)1月19日に、小田船原・門野・大城・相又・清子・横根中・光子沢が合併して豊岡村に。
昭和30年(1955)2月11日に、身延町・下山村・豊岡村・大河内村が合併して身延町となりました。横根中は身延町の南部に位置しています。

身延山ロープウェイ
(身延登山鉄道株式会社のリーフレットより)


管理者:西尾からのレス

文庫巻7「雨乞い庄右衛門」で、梅ヶ島(静岡市)温泉で療養している庄右衛門の生地は「梅ヶ島の上の安部峠をこえて甲斐の国へ入り、富士川へ下ったところの横根村」とありましたが、現代の地図には「横根中」しか載っていないので、不審におもっていたのです。
お蔭さまで、よくわかりました。
梅ヶ島からけわしい安部峠をこえたところが身延町ですね。
ついでですが、〔雨乞〕庄右衛門の呼び名の〔雨乞〕は山梨県北巨摩郡白州(はくしゅう)町の管内の雨乞岳から、池波さんが借用したのでしょうね。
梅ヶ島の湯について、「雨乞い庄右衛門」は[切り立った山肌と深い渓流にかこまれた岩の間から、こんこんとわき出る温泉は万病に効く」と書かれています。
梅ヶ島にはいまは13軒の旅館やら民宿がありますが、鬼平のころからあったという旅籠〔梅薫楼〕に一泊してみました。
朝、安倍川の源流をぴょんぴょんとわたっていく野生猿の群を見ました。


雨にけむる梅ヶ島温泉(JR静岡駅からバスで1時間40分)

野生猿の群がわたる安倍川源流






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