〔相川〕の虎次郎について




2003年1月9日(木) 13:10

〔相川〕の虎次郎まわり

発信:朝日カルチャーセンター〔鬼平〕クラス
   河内三郎さん

文庫巻24の未完の特別長篇[誘拐]第1章「相川の虎次郎」の虎次郎は、密偵・おまさによると、
「あの男は、甲斐の相川で生まれたということになっておりますが、江戸育ちだそうでございますよ」ということ。吉田東伍『大日本地名辞書』で、甲斐の「相川」は「古府中」の項に収録され「いま相川村と改む、甲府の北なる高地にして、岡巒三面に環り、相川、濁川の二溪この間に発す」とあります。
「古府中」は、一般に武田氏が館をつくった時の城下町の呼称で、時代によって相方は変遷しています。1519年(永正16)、信虎が石和(いさわ)の地から躑躅(つつじ)ヶ崎に館を移したおり、石和の館に対して躑躅ヶ崎の館を含めたその城下町を「新府中」と称しました。
1581(天正 9)年、勝頼が新府韮崎城を構え、その地に城下町をつくると、躑躅ヶ崎の地全体を「古府中」と称するようになりました。その期間は天正 9年11月から翌10年 3月までで、武田氏家臣らが呼称したのが始まりといわれ、一般にはあまり用いられなかったようです。勝頼は新府移転にさいしてすべての建物を撤去したので、笹濠と松木濠、それを囲む土壘、石垣を残すのみで、雑草と竹藪に覆われた索莫たる一角になったといいます。そこで農民たちは「古城」と呼んだといいます。この後、いろいろな経緯を経、明治11年、古府中、岩窪、上・下積翠寺、小松、塚原、和田の7ヶ村が合併して相川村となり、明治22年に甲府市へ併合されました。(略)


管理者:西尾からのレス

河内三郎さんのコメントは上の5倍もあったのですが、あまりにも長すぎるので、申しわけなかったのですが、省略させていただきました。いつか、機会があれば、全文をご紹介させていただきます。





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