下総国(千葉県印旛沼の近く)臼井の郷士の家の出で、長谷川平蔵の剣友である岸井左馬之助の寄宿先が、本所・押上村の〔春慶寺〕であることは、鬼平ファンならとっくにご存じ。しかし、池波さんが、なぜ、〔春慶寺〕を選んだかについて考察した人はいなかった。
ちょっと考えると、不思議なのだ。というのは、『鬼平犯科帳』の主たる舞台はほとんど『江戸名所図会』の絵あるいは文章を基に設営されているのに、〔春慶寺〕はその『名所図会』に絵も文も載っていないのだから。載っているのは、池波さんがつねに座右に置いていた近江屋金吾堂版の切絵図のほう。しかし、これはご覧のとおりに淡彩でほとんど目にとまらないほど。
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近吾堂版 |
砂町文化センター〔鬼平〕熱愛倶楽部のメンバーのひとり…生島(しょうじま)美奈子さんが宇野信夫『こころに残る言葉』(朝日文庫)に収録されている、「鶴屋南北の墓」という1966年(昭和41)にどこかの雑誌に発表されたエッセイを探してきた。
朝日文庫 宇野信夫『こころに残る言葉』
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