下総国(千葉県印旛沼の近く)臼井の郷士の家の出で、長谷川平蔵の剣友である岸井左馬之助の寄宿先が、本所・押上村の〔春慶寺〕であることは、鬼平ファンならとっくにご存じ。しかし、池波さんが、なぜ、〔春慶寺〕を選んだかについて考察した人はいなかった。
 ちょっと考えると、不思議なのだ。というのは、『鬼平犯科帳』の主たる舞台はほとんど『江戸名所図会』の絵あるいは文章を基に設営されているのに、〔春慶寺〕はその『名所図会』に絵も文も載っていないのだから。載っているのは、池波さんがつねに座右に置いていた近江屋金吾堂版の切絵図のほう。しかし、これはご覧のとおりに淡彩でほとんど目にとまらないほど。

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近吾堂版


砂町文化センター〔鬼平〕熱愛倶楽部のメンバーのひとり…生島(しょうじま)美奈子さんが宇野信夫『こころに残る言葉』(朝日文庫)に収録されている、「鶴屋南北の墓」という1966年(昭和41)にどこかの雑誌に発表されたエッセイを探してきた。
 朝日文庫 宇野信夫『こころに残る言葉』


 岸井左馬之助の初顔見せは、1967年(昭和42)の『オール讀物』2月号掲載「本所・桜屋敷」。宇野さんは、安政3年(1856)刊の『戯作者小伝』から『四谷怪談』の作者・鶴屋南北の墓が本所・押上の〔春慶寺〕にあることを知り、訪ねた経緯を記した。
劇作家として出発した池波さんが、大先輩の南北に敬意をいだいていたことは粂八あずかりの船宿が〔鶴や〕であることからも推察できる。宇野さんのエッセイで〔春慶寺〕に関心を寄せた池波さんは、岸井左馬之助をこの寺に[そっと]寄宿させ、ここが四世・鶴屋南北の菩提寺と気づく読み手があらわれるのを、にやにやしながら待っていたのでは?


 鬼平のころの〔春慶寺〕は、境内3千坪ほどの大きな寺だったが、戦前の浅草通り貫通時に公定価格で境内の大半が買い上げられて3百坪ほどに縮小したうえ、昭和20年3月10日の空襲で堂宇が消失、南北の墓石も火をかぶって破損、バラック小屋同然になった。そのうえ宮久保住職が変わり者でアル中になって病院で死亡、境内は売られて70坪あまりに。のちに柳島妙見堂(「唖の十蔵」で粂八が捕らえられた寺)から、いまの斉藤師が派遣されて小堂を建立、さらに昨年、保険会社のものだった6階建のビルを購入、本堂を移した。


6階建のビルの現寺



再建された小堂



普賢大菩薩



保護展示されている鶴屋南北の墓石



奉賛している梨園の名優たち(一部)



春慶寺についてもっと知りたいファンの方は、
http://syunkeiji.jp/
上の春慶寺のURLをクリックでリンク。
小説『鬼平犯科帳』についても紹介されています。


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