成東町へ行き当町教育委員会社会教育課課長佐々木健一郎氏の紹介により成東町文化財審議会会長齋藤氏と前会長長谷川常夫氏から話を聞いてきました。
要点は次ぎの通りです。
長谷川平蔵の母親について、成東町文化財審議会が調査したが、
- 長谷川平蔵の母親と成東町寺崎の戸村家とを関係づける証拠は見つけることが出来なかった。
- ある戸村家の位牌から平蔵の生まれた翌年に死亡した女某を見つけましたが、その人は早くから僧籍に入っていて武家とは関係なかった。
- 当地は昔から養蚕とお茶の栽培(自給自足)が盛んで、お茶の蒸したものを乾燥させるため、ホロイにかけるので、その時大量の和紙を使用し古文書が使われてしまい、残っている古文書が非常に少ない地域である。
- 当時の寺崎の名主の末裔を確定することが出来ませんでした。現在70戸ある旧寺崎村は殆どが戸村姓で、自称他薦の名主末裔が複数いるそうで、面談したお2人もそれぞれ違った家を名主だと言っていた。
長谷川家が寄進した庚申塔
- 別紙資料を町から頂いて来た
- 資料にある長谷川修理が平蔵の祖父とあるのは間違いで、従兄弟叔父(祖父が兄弟)とのこと。
- 所在地はJR成東駅から東に約3キロ位行った民家の密集地のなかに廃寺と部落公民館に囲まれて建ってた(写真参照)。
- 建立年が庚申の年でないので、庚申塚ではないとの意見もあり、祈願塔と括弧書きした。
弁天池について
- 大政奉還の年、長谷川家が弁天池を旧寺崎村に下賜したのをうけてその池を耕地にし、その生産物で 毎年寺崎地区全戸参加の新年会費用に当てていた習慣は、昭和40年頃まで続いていた。
- 昭和40年頃大規模な圃場整備事業が行われ、その時弁天池跡地は分割民有地となり、今はその面影を見ることが出来ない。
文化財指定について
庚申塔(祈願塔)1基
所在地 成東町寺崎字八千代97
所有者 釈量山 光福寺
管理者 代行者 富田光明寺住職 村上静勝
高 さ 1.20m
銘文
右側 御地頭 長谷川修理
宮城 妥女
壬
左側 享保17年11月吉日
子
上総國武射郡寺崎村
江戸時代中期、八代将軍吉宗の享保17年は、前年からの天候不順により、世にいう享保の大飢饉にみまわれ、餓死者1万二千余人に及び、江戸では米屋の焼打ち事件まで発生したといわれている。
寺崎村を知行地としていた旗本長谷川修理並びに宮城妥女はこれを憂え五穀豊穣と村民の安穏を祈って石塔を建立した。
この塔は、庚申塔の体をなしているが県内でも数少ない領主と農民を象徴する旗本の在地遺跡として現存する極めて歴史的価値の高いものである。
(註)
長谷川修理は、池波正太郎作「鬼平犯科長」で知られる旗本長谷川平蔵宣以の祖父である。
平蔵は、火付盗賊改方の長官として著名であるが、特に近代刑法制度の自由刑に類似する人足寄場制度を設けたことが高く評価されている。
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庚申塔全景(奥が光福寺)
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庚申塔(近景)
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庚申塔(右側面)
庫裡跡に寺崎公民館あり
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庚申塔(左側面)
長谷川修理の銘あり
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