2004年08月24日(木)

鬼平の先祖の戦死場所

発信:管理者の西尾

吉川弘文館のPR誌『本郷』No.53に寄稿したエッセイ。

 江戸幕府の火盗改メとして腕をふるった長谷川平蔵宣以は、池波正太郎『鬼平犯科帳』で有名になったため、小説やテレビをテキストにした自称〔鬼平〕研究者が輩出している。しかし、その先祖にまで言及したのは、〔小川(こがわ)長者〕を登場させた司馬遼太郎『箱根の坂』のほか、ほんの少数である。
 〔小川長者〕の息だか孫にあたる長谷川紀伊守正長の墓は焼津市の信香院にある。彼は、徳川家康の生涯でただ一度の負け戦――元亀三年(一五七二)十二月二十二日の三方ヶ原(みかたがはら)合戦で、弟の藤五郎とともに討ち死にした。
 この合戦の戦死者として兄弟の名をあげているのは『四戦紀聞』『浜松御在城記』『松平記』で、それぞれが記した戦死者名は五十五、十三、八人。ちなみに、『寛政重修諸家譜』が記す戦死者は二十七人。
 鬼平の息・宣義(小説では幼名の辰蔵)が『寛政譜』のために提出した〔先祖書〕は、正長兄弟の戦死を「於御馬先」としている。 「於御馬先」を文字どおりに受け取ると、家康の旗本団の一員、といえないこともないが、書き出すときに先祖の死を故意に飾ったともいえる。各家の〔先祖書〕を整理して『寛政譜』をまとめた幕府の学者団は、長谷川家のそれに「於御馬先」の四字を採っていない。
 長谷川本家と分家三家の〔先祖書〕も取り寄せて検分してみた。四家とも申し合わせたように「於御馬先」としていた。
 『寛政譜』の近藤久内吉成の項に「御馬前に於いて討死す」とあったから、学者団が「於御馬先」を疑って外したというより、文字量の制約ともおもってみた。
 それはそれとして、武田軍団に攻められた今川方の紀伊守正長が、徳一色城(藤枝市。のちの田中城)を一族二十一名を含めて三百余人と逃れて徳川の麾下となり、姉川の戦いにも扈従したのち、三方ヶ原ではどこで戦ったかさらに調べたいと、
URL =
http://homepage1.nifty.com/shimizumon/ でも情報提供を呼びかけているところである。


エッセイは、毎号筆者を変えてつづいている「歴史のヒーロー・ヒロイン」欄に掲載。



(c)copyright:2000 T.Nishio All Rights Reserved.