当ホームページ管理者 西尾忠久

『極上の旅』2003年12月号

 長いあいだ二つの疑問をかかえていた。
 その一。『江戸名所図会』に絵も解説文もない春慶寺(墨田区業平2-14-9)が、鬼平の剣友・岸井左馬之助の寄宿先となったいきさつ。
 氷解したのは、この寺に『東海道四谷怪談』などの作者・鶴屋南北の墓があることを池波さんが知ったためとわかったときである。密偵〔小房〕の粂八がまかされている船宿の名も〔鶴や〕だ。
 さびれていた寺は住職に斉藤堯圓師をえてよみがえった。押上駅出口A2の真ん前にそびえる七階建のビルを手にいれ、正面ウインドウに南北の墓石を安置、今春入口に「岸井左馬之助寄宿の寺」と彫った石柱を立てた。

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 春慶寺の一本西筋を春日通りまで東向すると日本たばこ東京工場がある。遠江横須賀藩三万五千石・西尾隠岐守下屋敷の跡だが、文庫巻4[敵]で現役の泥棒だった〔大滝〕の五郎蔵が第二の盗人宿へ行くとき、尾行者の気配に下屋敷わきの木立へ飛びこんだ(p265 新装p278 )。
 工場西端の信号を東へわたり、百メートル先を左へ入ったところに本法寺(横川1-12-12)がある。「土地(ところ)の商家を軒なみゆすって歩き、岡場所の女たちをしぼりぬいて」いた〔土壇場(どたんば)〕の勘兵衛の所行を見かねた二十一歳の長谷川銕三郎(のちの平蔵)が、

 
高杉道場の同門・岸井左馬之助と井関録之助に助太刀をたのみ、勘兵衛がひきいる無頼ども二十余人を向うへのまわし、向島の本法寺裏で大喧嘩やった
(文庫巻5[兇賊]p205 新装p215 )

 裏は墓域なので残念だが入れない。本法寺の二筋東が法恩寺(太平1-26-16)。『図会』の絵によると蔵前通り(鬼平のころは法恩寺橋通り)に面していたが、塔中が独立したいまは長い参道が往時をしのばせるだけ。太田道潅奉賛の石碑がある。


法恩寺(太平1-26-16)

 『図会』の絵で当寺の左手に藁屋根の家が数軒見える。池波さんはこの中に鬼平や左馬之助が剣と人格を磨いた高杉道場と桜屋敷を置いた。
 というのも、入江町ということにした長谷川家(緑4-11)の近くの『図会』の絵としては、法恩寺しかないからだ。
 もっとも、池波さんが切絵図で入江町の鐘楼前で見つけた長谷川は家禄はおなじ四百石でも、平蔵家とはまったく別の幕臣である。池波さんはなぜ鬼平をここへ住まわせたか。
 史実の長谷川邸は墨田区菊川3-16だったが、池波さんが所有していた金吾堂板の切絵図の同所は遠山左右衛門尉の下屋敷となっていた。鬼平の孫が売ったのだ。
 で、池波さんは史実の「本所三ッ目」をもとに切絵図を探して入江町の長谷川家を見つけた。
 法恩寺から緑4-11へは、親水公園となっている横川を江東橋下まで歩く。小説の入江町の長谷川家は五柱稲荷の東隣あたりだ。


押上駅から菊川&森下駅までのコース図
地図製作/アットミクスト


 ことの次第がそうでも、本所に平蔵の〔青春〕があった(文庫巻1[本所・桜屋敷]p51 新装p54)ことに変わりはない。菊川は東本所とはいい条、本所にかわりはないのだ。
 その菊川3丁目16までは、緑四丁目の五柱稲荷の前の道を東進、新大橋通りで右折、三ッ目通りで地下鉄菊川駅出口A3へまわればいい。墨田区教育委員会の銘板「長谷川平蔵住居跡」が立っている。

 長谷川平蔵宣以(のぶため)は、延享三年(一七四六)赤坂に生まれました。
平蔵十九歳の明和元年(一七六四)、父平蔵宣雄の屋敷替えによって築地からこの本所三の橋通り菊川の、一二三八坪の邸に移りました(略)
 寛政七年(一七九五)、病を得てこの地に没しました。(略)

「え? 目白台で没したのではなかったの?」という疑問は熱心なファンならもっともなところ。じつは目白台にあったのは長谷川組(先手弓組二番手)の組屋敷だった。
 池波さんがなぜ平蔵の私邸を目白台としたかが、疑問のその二だった。
 解けたのは『大武鑑』の平蔵の項を確かめたとき。組屋敷を示す「△目白台」の△印を私邸と見た池波さんの早合点とわかった。目白台を私邸としたために組屋敷を四谷坂町に置くことにもなった。四谷には侍先手組十数組の組屋敷があった。いざという事態になったときに将軍が甲府へ落ちのびるのをすばやく護衛するための配置だったとの説もある。
 菊川から電車で一駅、森下へ。出口A2をあがった左手の小公園が文庫巻6[寒月六間堀]の舞台ともなった六間堀の埋め立て跡。大きな地図にも載っていない公園北端の真ん中の細い通路が堀の中心だったところ。歩くとすぐに児童遊園に達する。五間堀への分岐点である。
 五間堀跡づたいに清澄通り(旧・二ッ目の通り)へ。ここに架かっていたのが弥勒寺橋。弥勒寺はその一筋北。
 清澄通りを五十メートルほど北行、左手にお熊婆さんの茶店〔笹や〕と植木屋〔植半〕があった。
 さらに北行。竪川の二之橋の北東詰が、しゃも鍋の〔五鉄〕。各〔鬼平〕クラスでのアンケートで『鬼平犯科帳』で食べてみたい料理の筆頭にあがるのがこのしゃも鍋である。鬼平のころ、二之橋からは遠くない両国橋の東詰に鶏肉市場があり、あたり一帯にとり鍋屋やしゃも鍋屋があった、と池波さんから教わった。
 小説では二之橋北としか書かれていないが、東側と断じたのは、

 五鉄とは竪川をへだてた南詰の林町一丁目に〔瓢箪屋(ひょうたんや)利助〕という釣道具の店がある。(文庫巻10[むかしなじみ]p196 新装p205 )

 林町一丁目の対岸は二之橋東詰――小説の隻語からこういう推理をきかすのもファンの醍醐味。




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