当ホームページ管理者 西尾忠久

『極上の旅』2004年2月号

 歴史上の一人の人物に目をすえると、その前後のこともけっこう見えてくる体験を、鬼平で実感している。
 池波さんの『鬼平犯科帳』(文春文庫)はいまさらいうまでもなく、幕臣( 400石)長谷川平蔵宣以(のぶため)が主人公だ。実在した人物だと、小説を離れて独自に調べることもできる。
 たとえば、1年半前に西丸徒(かち)の組頭になったばかりの42歳の長谷川平蔵を、番方(武官)出世の終着駅に近い先手組頭に引きたてた老中・田沼意次は、賄賂政治家の代表のようにいわれてきたが、最近の研究では異論がでている。
 田沼のあと清廉な政治家と教科書でももてはやされている老中首座・松平定信は、長谷川平蔵を徹底的に嫌った。アイデアがありすぎた平蔵を「あれは山師、邪道」と耳へ入れたとりまき某の言をやすやすと信じこんだのである。某は短歌が巧み、平蔵は漢詩によくしなかったのが裏の理由らしい。
 もっと些細で身近な発見を紹介する。平蔵の父・宣雄は火盗改メのときに江戸の主なところを焼き尽した目黒行人坂の火事の放火犯をつかまえた功績もあって京都西町奉行へ栄転。が、一年ちょっとで、かの地で病歿。葬儀をすませて江戸へもどった一家に、池波さんは新しい拝領屋敷として目白台をあてがった。
 いや、前回触れた作家の早合点のこのことより、長谷川家が遠国(おんごく)へ赴任中も南本所・菊川の家を維持していたという、幕臣のしきたりがわかったことのほうが貴重なのだ。
 それはともかく小説では、清水門外の役宅で暮らしている平蔵夫妻にかわり、息・辰蔵が目白台の留守宅をまもっている。
 池波さんは目白台まわりの風景画を『江戸名所図会』でさがし、鬼子母神(豊島区雑司ヶ谷 3-15-20)の絵に目をとめたろう。目白不動堂のあった長谷寺を舞台に選ぶことをためらったのは戦災で焼失、現存していないため。
 鬼子母神なら手持ちの『江戸買物独案内』所載の料亭三軒――〔橘屋〕〔茗荷屋〕〔耕向亭〕も登場させられる。
  鬼子母神の境内に接している橘屋は、料理茶屋といっても、徳川御三家(ごさんけ)の一つであるここ紀伊中 納言(きいちゅうなごん)の〔御成先御用宿(おなりさ きごようやど)〕という格式があり、鬼子母神参道から 西へ切れこんだところにある表構えはなかなかに立派なもので、表口には〔紀州御本陣〕の大看板が掲(かか)げられている。
(文庫巻15特別長編[雲竜剣]p16 新装p17)

 文章が〔橘屋忠兵衛〕の広告に由来していることはすでにおわかりとおもう。離れ屋で昼餉(ひるげ)をしたためたあと、鬼平は昼寝をする。


鬼子母神境内の『江戸買物独案内』(文政 7年 1824)
に広告した料亭〔橘屋〕〔茗荷屋〕〔耕向亭〕


 出仕もまだの息・辰蔵には、そんなぜいたくは許されない。同じ鬼子母神の境内にあっても、参詣客相手の茶店のむすめ、芋の煮ころがしのようなお順に惚れた。
 で、外出(そとで)した彼女を尾行する。一の鳥居の脇から都電「鬼子母神」駅へ。門前商店街をぬけて目白通りをつっきり、宿坂(しゅくざか)を下る。鬼平のころは野菜畑の中の一本道だった。
 と、T字路の右手、長谷寺から目白不動明王を遷座させた金乗院(豊島区高田 2-12-39)山門。目白、目黒は地名となったが目黄(三ノ輪・永久寺)、目赤(本駒込・南谷寺)、目青(世田谷・教学院)はならなかった。もともとは五街道鎮護のための奉安だった。
 坂をさらに下ると元の砂利場村。かつて鴬宿梅(おうしゅくばい)で知られた南蔵院(豊島区高田 1-19-16)がある。

  
南蔵院という寺の山門から躍り出た二人の男が、お順 へ飛びかかり、当身をくらわせ、気をうしなって倒れか かるお順を担(かつ)ぎぎ上げ……
(文庫巻7[隠居金七百両]p49 新装p50)


……神田川に架かる面影橋のかなたへ消えた。この橋は別称を姿見橋ともいう説と、いや別々の橋だと主張する仁にわかれる。それはさておき、橋の手前の左手に立っている石柱「山吹の里」に注目。鷹狩りで驟雨にあった太田道潅が蓑をもとめたとき農家の小女が山吹の花枝をさしだした。帰館後、
 七重八重花はさけども山吹の
  みのひとつだになきぞわびしき
にこと寄せたと知りその道へ発心したとの教訓だが、歌道宗家のつくり話じみた感じもないではない。


地図製作:アットミクスト

 新目白通り・荒川線「面影橋」駅をつっきって南向かいの坂を上るとすぐ右手に石像金剛力士の亮朝院(新宿区西早稲田 3-16-11)。有名な朝日桜を訪ねるなら右手の山門から入る。文庫巻10[追跡]で同坂を上る鬼平は、門前を素通り。

  
この道(坂)を南へのぼり切ったところが……かの赤 穂義士の一人で、世に剣名をうたわれた堀部安兵衛武庸 (たけつね)が義理の叔父・菅野六郎左衛門(すがのろ くろうざえもん)の助太刀をして、相手の村上兄弟・中 津川祐見(なかつがわ ゆうけん)と血闘した高田の馬 場である。       (p101  新装p107 )

 決闘の顛末は池波さんの『堀部安兵衛』(角川文庫)にまかせて先へいそぐ。


『堀部安兵衛』(角川文庫)

 早稲田通りを左行してしばらくすると穴八幡(新宿区西早稲田2―1―11)が見えてくるから、脇から境内へ入る。江戸後期に流行った八八幡(やはちまん)めぐりの一社である。大宮八幡宮(杉並区大宮2―3―1)が入っているために二日がかりの歩行だった。
 『鬼平犯科帳』に登場する江戸と近郊の神社は六十七社、うち鬼平が参詣したのは十社。穴八幡は言及はされているが参詣をしたとは書いてない。
 さて、早稲田界わいは東京のラテン・クォーター……学生街なので上品な店が少ない。そんな中で、〔松下〕(新宿区早稲田弦巻町 556)なら、雰囲気、料理、値段とも本誌の読者へも池波さんへもおすすめできる。


〔松下〕の蕎麦煎餅



(c)copyright:2000 T.Nishio All Rights Reserved.