当ホームページ管理者 西尾忠久


 エッセイに、かつては月に一度はかならずといってよいほど京都へ足をはこんだ、と池波さんは書いている。

 
 東京では、古い〔人のこころ〕も、ほろびてしまったのである。
  私が、いまの仕事へ入ってから二十年ほどになろうか。その間、くり返しくり返し京都を訪れたのも、畢竟は、京の町に〔江戸〕を見るからであった。
  このごろ、私は京都へ行くと、町のにぎわいを避け、上京)や中京の町家が密集する道を歩きまわるのが常となった。
     (『食卓の情景』「京の町料理」新潮文庫)


 徳川幕府の 270年余をとおして、火付盗賊改メに任命された幕臣は200名をゆうに超える。その中から長谷川平蔵を抽出、『鬼平犯科帳』に仕上げたのは、もしかすると、父親の宣雄が京都西町奉行として敏腕をふるったこともゆえんの一つになっていたのではあるまいか、と池波さんの胸のうちを類推しているのだが。
 つまり、亡父・宣雄にことよせれば古都の町並の風景の中へ鬼平を置くことも可能なのである。それをはやばやと第18話――連載 1年半目――に実現させたのが好篇「艶婦の毒」といえよう。
 もっとも火盗改メ長官の鬼平を、京都へ上って滞在させるには、役を一度解任する必要がある。解任辞令は 1話前の「盗法秘伝」でくだされるが、もちろん史実ではない。 史実でないといえばもう一つ、西町奉行として在職中に亡くなった宣雄の墓が千本出水の華光寺(上京区出水六軒町西入ル 7番 331)にあるというのも、そう。
 葬儀はここで執行、遺骨は江戸の菩提寺である戒行寺(新宿区須賀町 9)に安置した。が、史実をいいたてると鬼平が京都へ上る名分がなくなるから、ここは子細を知らなかったことにしておこう。
 さて、鬼平と供の同心・木村忠吾の京での宿、三条・白川橋に近い〔津国屋〕は実在した。京の商店を集めた『商人買物独案内』(天保 4年 1833刊)にちゃんと広告を出している。
 池波さんはこの『独案内』の復刻本を所有していた。天保だと鬼平こと長谷川平蔵の死後40年に近いではないか、と野暮はいうまい。池波さんのネタ本を見つけたというだけでファン気質を満足させているのだから。
 さて物語。〔津国屋〕を紋つきの黒羽織、袴姿で出た鬼平は、 4キロ先の千本出水の華光寺を訪ねて墓前に香華をたむけ、住職へあいさつをすまして、

 
「さて、と……」
  平蔵は、うららかにねむたげな春の空を仰ぎ、「北野 の天神へでもまいってみるか……」 p82 新装p86


 寺院の多い千本通りを北上、門前町を抜けると北野天満宮の大鳥居が目の前である。
 参詣をすませて三光門をくぐり出ようとした鬼平の目がとらえたのは、親しげに忠吾へささやきかけている30そこそこにしか見えない年増女お豊であった。二人は境内茶店で名物の〔長五郎餅〕を食べたあと、天満宮裏――紙屋川ぞいの風雅な料亭〔紙庵〕へ入っていったのである。店名は池波さんが紙屋川から按配したものだろう。
 二人が知りあったのは昨日の昼下り、三条大橋の上においてであった。女は忠吾を、鴨川に面した東川端四条上ルの川魚料理店〔俵駒〕へ誘い、翌日の再会を約した。〔俵駒〕も実在した店である。
 彼女は釜座下立売の絵の具屋〔柏屋〕の後妻に入りこんだ女賊で、20年むかし、銕三郎を名乗っていた鬼平と情欲のかぎり愉悦したこと。
 それは置くとして、四条大橋から北野天満宮まではどのコースをとっても 6キロはたっぷりある。二人が駕籠を使わなかったとしたら、どうしてそんな遠距離の料亭を情事の場所に選んだのかと、歩いてみて説明がつかず、「小説なんだから、ま、いいか」で詮索を打ちきった。


地図製作:アットミクスト

 歩きながら想像したのは、 6キロ先に待っているご馳走を舌なめずりしている忠吾がどんな会話を女にしかけたか、間合いがうまく持てたろうかの、よけいな杞憂だった。
 〔紙庵〕である。離れから出てきた女を尾けると、堀川の東通りを南へ、そして下立売を左折して釜座(かまんざ)へいたる。

  釜座・下立売(しもたちうり)上ルところに〔柏屋〕 という絵の具屋がある。
  ここへお豊が入って行いった。(p90 新装p94)


 釜座は京都府庁舎で北端が行きどまりになっている。で、〔柏屋〕はこの辺かと見当をつけたあたりの蕎麦のへ、昼には少し早かったが入って新蕎麦をたぐった。


釜座の蕎麦名舗〔田毎


 『独案内』の〔柏屋〕は別の町にあった実在の店で、女賊を嫁がせるのは池波さんもさすがに気がひけたらしく、町名は隣枠の店の広告から借りた。
 〔田毎〕でくつろぎながら疑問におもったのは、〔紙庵〕から釜座下立売までの 2キロ。情事の直後の歩行距離としては長すぎないかと、ここでも下種(げす)の勘ぐりが働き、せっかく風雅な京の町を散策しているのに困ったものだと、自嘲のきわみ。
 〔田毎〕から宿までの帰路は、女賊尾行の任務は終えのだから、せめても池波さんの気分に乗ろうと下立売を西へ遠まわりしてみる。
 中山油店の前にしつらえられた水車つきの泉水築山に出会う。銘板に、戦時中に落ちた爆弾でこの辺から西陣へかけて十数名の死者がでたとある。京都も爆撃をくらったことをはじめて知った。
 堀川通りへ引き返し、二条城の東を南下、地下鉄二条城前駅を黙殺、東西線の終点・二条駅へ向かう途中に京都東町奉行所跡との銘板を見る。


その銘板


「西町奉行所(現中京中学校付近)と隔月交替で任についた」
 と記されている。西町奉行所へは有能な奉行が配された。中京中学は 200メートルほどの距離のところにある。その役宅には、亡父・宣雄とともに銕三郎も住んだ。
「疲労困憊だが、よし、行くだけ行ってみよう。なに、二条から帰りは地下鉄にすればいい」
 現代の鬼平は足腰が弱すぎるみたい。

(西尾注記)
[週刊掲示板]2004年01月15日の史料類もご覧ください。




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