当ホームページ管理者 西尾忠久


 池波さんは、大正12年(1923) 1月25日に生まれた。生家は現・台東区浅草7丁目 3番地――待乳山聖天宮の下にあったが、同年 9月 1日の大震災で倒壊、一家は浦和市(さいたま市に合併)へ越した。池波さんに 1歳のときの記憶はないはずだが、

 大川の水と待乳山聖天宮は、私の心のふるさとのようなものだ。「私の風景」(朝日文芸文庫)

 と、書く。
  5歳のときに東京へ復帰し、根岸小学校へ入学した。『剣客商売』のヒロイン佐々木三冬が住んだ書物問屋〔和泉屋〕の寮は根岸小学校の校庭の奥あたりにあったことになっている。
 両親の離婚により、永住町(現・元浅草 1丁目)の母方の実家に引きとられて西町小学校(廃校)へ転入。以後、遊びのエリヤだった下谷一円と浅草の土地勘が『鬼平犯科帳』でふんだんに生かされることになった。その中からいくつかのスポットをえんでたどってみる。
 都営地下鉄新宿線「岩本町」出口 2を神田川側へ北行、つきあたりの柳森稲荷では稲荷につきものの石キツネでなく、「他に抜きんでる(他抜き)」と信仰をあつめた懐妊タヌキが迎えてくれる。季節には多重の黄色い花を咲かせる鬱金(うこん)ざくらが見ものでもある。

 『江戸名所図会』にも描かれているように、小屋がけの古着店が軒をつらねていた通りのなごりは、ラシャ問屋の店並にしのぶことができる。
 東行すると、

「いやもう、加賀やの芋酒をやったら、一晩のうちに五人や六人の夜鷹を乗りこなすなざあ、わけもねえ」    文庫巻5[兇賊]p163 新装p171

 大名下屋敷の〔わたり仲間〕がおだをあげて強がる芋酒を呑ませていた、老盗・鷺原の九平の〔加賀や〕があった。
 〔鷺原〕は金沢市鴛原の、池波さんの読みちがえか、とある研究者は指摘する。
 新シ橋、いまの美倉橋を北へわたる。[五年目の客]のお吉は家へ帰るために逆に南へわたった。
  1筋東の左衛門通りを蔵前通りへ。右手に鳥越神社が見える。同社の裏手の東に樹松院(台東区鳥越 2-13- 2)。

 喜之助は、浅草・鳥越にある松樹院という寺の門前の、小さな花屋を訪れた。
    文庫巻1[老盗の夢]p169 新装p178


 そこは大盗・夜兎の角右衛門の盗人宿で、亭主の老爺は配下の前砂(まいすな)の捨蔵である。訪れたのは引退したものの、女のために戻り盗(づと)めをしようという正統派・簑火の喜之助。
 「樹松院」が「松樹院」となっているのは、池波さんが座右に置いていた近江屋板の切絵図の誤植による。同様の例はほかにも 2, 3 あり、好事家が目を皿にして探している。


地図制作:アットミクスト

 浄念寺(台・蔵前 4-18-11)は埋め立てて新堀通りとなる前の新堀に面していた。ここの寺男を隠れ簑にしている彦蔵は、大盗・海老坂の与兵衛の配下で、御厩河岸で飲み屋をやりながら火盗改メのために密偵をつとめている豆岩を誘う。
 物語の[浅草・御厩河岸]は文庫巻1に収録されているが、じつは『オール読物』1967年12月号に単発ものとして発表され、これが契機となって翌新年月号から『鬼平犯科帳』の通しタイトルであわただしく連載がはじまることとなった記念すべき篇である。
 さて、新堀通りを北へ。春日通りへ出て右折すると大江戸線「蔵前」駅手前に正覚寺、通称、榧(かや)寺(台東区蔵前 3-22- 9)。門前茶店の亭主の嘉平次も火盗改メの密偵だが[五年目の客]に一度登場しただけである。ぜいたくな使い方といえばいえる。ついでに書いておくと、『鬼平犯科帳』に出てくる密偵の総数50人で、うち殉職したのは伊三次をはじめとして 5人。
 正覚寺へ立ち寄ったら、ついでのことに厩橋西詰まで足をのばして、かつての三好町(現・蔵前 2丁目)に居酒屋をだしていた〔豆岩〕をしのびながら隅田川を行き交う船をながめてみよう。

 現代(いま)の隅田川に架(か)かっている厩橋(うまやばし)、これが明治二十六年に架設される前には舟渡(ふなわた)しで、俗に〔御厩の渡し〕とよんだ。
 幕府御米蔵(おこめぐら)のたちならぶ西岸から東岸の本所へ、大川をわたるこの渡船は一人二文(もん)、馬一疋についても二文の渡銭(わたしぜに)をとったそうな。
     [浅草・御厩河岸]p122 新装p129


 ただし、武士は払わなくてもよかったらしい。
 厩橋から春日通りを引き返してふたたび新堀通りを北上。右手のガス・ステーション角を右折すると左手に竜宝寺(台東区寿 1-21- 1)がある。ここも鬼平のころ表門は新堀に面していた。門前町のしる粉屋〔松月庵〕の奥庭の小部屋で同心・木村忠吾が町娘のお雪の桃の花片のようなくちびるを吸い、手は南天の実にも似た乳首をもんだのが、文庫巻2[お雪の乳房]である。
 いや、女に手の早いのが自慢の兎忠こと忠吾のラブ・シーンなどはどうでもよろしい。
 目の下 4尺 5寸( 1メートル35センチ)の鯉を供養した竜宝寺の境内の「鯉塚」である……と書くと、察しのいいあなたなら、
「あ、大川の隠居の鯉のこと?」
 と先まわりするはず。そう、シリーズ中で中学生の教科書に載せたいと多くのファンが切望している[大川の隠居]の巨鯉のモデルである。


竜宝寺(台東区寿 1-21- 1)の鯉塚

竜宝寺の前を流れていた新堀の対岸が正太郎少年が住んでいた永住町なのだ。少年はとうぜん「鯉塚」へも遠征したはずである。そうとわかって「鯉塚」に彫られた碑文を読むと、いまにも隠居の巨躰が川面に浮いてきそうな気がしてくる。
 正太郎少年が探検し、小説に採りいれたと思われるスポットはまだまだいくらもあるが、紙面のつごうもあり、今回はこれまでにとどめておこう。
 今回のウォーキングは田原町から地下鉄で末広町へ出て〔花ぶさ〕(千代田区外神田 6-15- 5)でしめたい。生前の池波さんが週に 1回は通っていた割烹店で、池波シートとよばれていた定席もあり、「花ぶさ膳」「千代田膳」「雅膳」のネーミングのほか箸袋や包装紙のデザインまで提供したほど肩入れした。
 それというのも、料理の味つけもさることながら、店の雰囲気、女主人・佐藤雅江さんや板前さんたちの気質がよほど気に入ったからである。ここ10数年間、「千代田膳」の値段が据え置んかれたままという例ひとつとっても池波さんが惚れこんだわけがわかる。
 ぼくの勝手な推理だが、〔花ぶさ〕の池波シートで杯をかたむけながら作家は、密偵・伊三次の死に場所を瞑想していたのではあるまいか。そう、伊三次が刺されたのは〔花ぶさ〕から50メートルと離れていないところなのだ。




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