当ホームページ管理者 西尾忠久


『極上の旅 美食の宿』(2004.6.1)

 切絵図(地図)について池波さんは、

 
地域別につくられ、携帯に便利な〔切絵図〕は、私のような、江戸期を舞台にした時代小説を書いている者にとっては、欠(か)かせないものだ。私は〔切絵図〕と共に毎日を送っているといってよい。
『江戸切絵図散歩』(新潮文庫)


としたあと、はじめて近吾堂近江屋板の切絵図を買いもとめたのは、名古屋の美園座近くの古書店で、1955年(昭和30年)の秋だったと打ち明ける。
 32歳だった池波さんは小説にはまだ手をだしていず、新国劇の台本の執筆や演出がもっぱらで、切絵図はかならずしも必要なものではなく、ぜいたくな衝動買いともいえた。もちろん小説を書くようになると、引用文にあるように一日も手ばなせなくなりはした。
 切絵図は時代もの作家に欠かせないだけでなく、『鬼平犯科帳』の読者とっても必携品の一つといえる。長谷川平蔵や筆頭与力の佐嶋忠介、密偵のおまさなどの動き、盗賊たちが狙いをさだめている商店のある町は、切絵図をもとにして描かれているから、地図をあたりながら小説を読むと、一行々々の描写に合点がいく。
 座右に置くなら、池波さん愛用の近吾堂板がベターなことはいうまでもないが、出回っているのはほとんど金鱗堂尾張屋板のほうである。
 近江屋板と尾張屋板にまつわる笑い話のような史実を紹介しておこう。
 麹町10丁目――現在(いま)のJR四谷駅のほんのすこし東で荒物屋をやっていた近江屋五平の嘆きは、「だれそれさんの家はどこでしょう?」と番町の旗本屋敷を尋ねる人が朝から日暮れまでひっきりなしで商売があがったりになっていることだった。たまりかねた五平どんは考えた。
(届けものの人がこれだけ多いから、戸別氏姓入りの番町地図をつくれば売れるのでは?)

 じじつ、五平どんのアイデアは大当たりだった。それを横目に見ていた麹町6丁目の出版業・尾張屋がおもった。(出版のド素人の近江屋のつくったものがあれほど売れるのなら、出版のプロであるうちがつくればもっと売れる) 近江屋板が実用一点ばりに近いとすると、尾張屋板は派手な色づかいの華麗な出来ばえだった。江戸みやげとして地方へ持ち帰られたものの多くが戦災をまぬがれた。
 とにかく、切絵図の第1号は番町だった。その新道一番町(現・三番町6)には本家・長谷川太郎兵衛( 1,450余石)の屋敷があったから、一族の相談ごとのたびに平蔵は足をはこんだろう。市ヶ谷門から九段坂へのびた三番町通(現在の靖国通)は、四谷坂町の組屋敷から清水門外の火盗改メ役宅へ出勤する長谷川組々下の与力・同心たちの通勤路にあたっていた。
 九段坂は『江戸名所図会』を見ると土留めの棒が9本埋められており、そのための命名。この坂下を南へ行ったところが清水門外。戦前は憲兵隊の宿舎だったというからいかにも火盗改メの役宅跡にふさわしい使われ方だったが、現在は財務省の持ち物で駐車場になっている。もっとも史実では火盗改メの役宅があったわけではなく、任命された長官の屋敷を役宅とするのが通例だった。
 で、今回の始発ポイントは3路線が入っている地下鉄市ヶ谷駅出口2。眼前の靖国通を東行、一口坂を右折、東京家政学院前を左折、大妻通を横ぎって英国大使館の裏へ通じる通りの信号を右折。左手が長谷川家の本家跡である。


地図製作/アットミクスト

そのまま南下、新宿通の手前、麹町警察署のあたり――麹町2丁目に、 2,000石の旗本・小出内蔵助の屋敷がある。


 現当主は平蔵と同年輩の人物だが、先代の小出内蔵助に、平蔵の父・長谷川宣雄(のぶお)が気に入られて、ずいぶんと世話になった。
[白根の万右衛門]p111 新装p116


老衰の小出老人を平蔵が見舞うのだが、亡父の引き立ててくれた仁へ、子としていつまでも礼をつくすのは当然、としているあたりをしっかりと見習いたい。
 小出屋敷を出た平蔵は、ふと思い立ったように平河天神(平河1丁目7)へ詣でる。門前の蕎麦屋〔栄松庵〕がうまい酒を出す。蕎麦で酒……が平蔵流であり、池波流でもある。
 平河天神の境内で鬼平は、密偵・馬蕗の利平治から巨盗・白根の万右衛門の手下を見かけたと告げられ、蕎麦はたぐれない次第となった。盗人たちの隠れ家は麹町6丁目の裏の筆師の家で、向かいの鰻屋の二階が見張り所として借りられ、同心・木村忠吾が詰めた。なんと、その鰻屋の地番は本稿で推奨する〔秋本〕(麹町3丁目4)にそっくりだが、〔秋本〕の紹介はのちほど。


麹町の鰻屋〔秋本〕の店頭


善国寺に由来して名付けられた定食「善国寺」(5250円・税込)。蒲焼、肝吸、鰻巻き、季節の和え物など。
撮影:雨田芳明


 新宿通に面する麹町の町名は、かつての甲州路(こうしゅうじ)がなまった結果との説もある。その新宿通がやがて四谷駅という手前右側に奥まって心法寺(麹町6丁目4)が鎮座している。東隣にあった栖岸寺は杉並区永福1丁目へ越したが、『剣客商売』の秋山小兵衛が若い頃に修行した無外流・辻平右衛門の道場は同寺の敷地を借りていた。史実である。
 辻平右衛門が山城国大原の里へ穏棲後、秋山小兵衛が自分の道場をかまえたのは四谷御門から5丁ほど西の仲町だが、これについての詳細は別の機会にゆずろう。
 心法寺をもって今回の小さな都心の旅を打ち上げて、先述の鰻の〔秋本〕へ急く。ここは筆者のオフィスにも近く、昼にも夕食にもよく利用するお気に入りの店だ。江戸城出入りの鑑札も受けていた新宿通の〔丹波屋〕が店じまいをしてからというもの、界隈で唯一の鰻屋となった。創業は〔丹波屋〕より遅くて明治中頃と承知している。
 食べ物屋の評価尺度に、「値段に比して」を入れるのが筆者の流儀ではあるが、ここを上クラスにあげる食通は少なくない。その証拠に、昼は時間にとらわれない重役さんたちで開店の11時半からたちまち満席となる。蒸し加減が絶妙で、歯が弱りめの年長の方々にぴったりなのだ。

 これまでマスコミのあらゆる取材をすべて断っていたのに、本稿のためにその禁を解いてくれたのは幸運としかいいようがない。



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