2003年 12月

――敬称略・逆日付順――



12月26日〜23日  20日〜14日 13日〜8日 3日〜2日


12月26日〜23日
2003年12月26日(金)  14:53

調神社では狛犬でなく狛兎(?)

発信:学習院生涯学習センター 〔鬼平〕クラス
   堀 眞治郎さん

12月11日の週刊掲示板にさいたま市の調神社の宮司さんの彩色『江戸名所図会』寄進感謝のお手紙を拝見していて、思い出しました。(私は浦和市(現さいたま市)に住んでいたことがあります)
この神社には狛犬でなく、正面入口の両側に狛犬の代わりに兎の形像が用いられています。向かって右側の兎の形像は珍しい親子兎の像です。兎は調神社の使姫として古来より印譜,燈籠等にも用いられていたようです。調神社は一般に、調宮(つきのみや)といわれており、月待信仰の聖地でもあったようで、調宮即ち月宮殿に擬せられたためであるといわれています。
『江戸名所図会』では祭神月読命(つきよみのみこと)となっていますが、現在では、祭神は天照大神、豊受比売命で、須佐之男命を合祀しているとされています。
(『浦和の歴史と文化を知る本』青木義脩著 さきたま出版会発行による)

注)月読命(つきよみのみこと):伊邪那岐が目を洗った際に生まれた月神。天照大神の弟で須佐之男命の兄にあたり、豊受比売命を殺したとされる神様。


正面向右側兎形像


正面向左側兎形像


調宮兎守



2003年12月25日(木)

白玉飴(目黒飴)

発信:西尾の読書コメント

12月23日のおまささんのメッセージで、「目黒飴」のケリはついたようなものですが、手元の『東京ふる里文庫 目黒区の歴史』(目黒区郷土研究会)と川田寿著『江戸名所図会を読む』(東京堂出版)で、念のために確かめてみました。
後書に、ありました。図会の絵は「道の両側に立ちならぶ店の一つ〔桐屋〕という飴屋の店先」で「白玉飴(目黒飴)が名物であった」と。
〔白玉飴〕と名のるからには白飴ですよね。
前書は「安養院前の桐屋という飴屋」と紹介しているだけでした。安養院は、尾張屋板の切絵図が「養安院」と誤植している、いまは不動尊前商店街からすこし引っこんでいる寺院です。


川田寿著『江戸名所図会を読む』



2003年12月23日(火)  13:18

目黒飴のこと

発信:森下文化センター〔鬼平〕熱愛倶楽部
   おまささん

以前、『江戸名所図会』の塗り絵で、「目黒飴」を塗りました。
『鬼平犯科帳』文庫の、

 巻5[おしゃべり源八]  p124  新装p130
 巻14[さむらい松五郎] p239  新装p246
 巻16[影法師]     p26    新装p27
 巻18[俄か雨]     p9    新装p9
 巻20[二度あることは] p57   新装p59

などで、池波さんは「黒飴」と書かれています。
私も「池波黒飴説」を鵜呑みにし、何の疑問も持たずに塗り絵を「黒飴」に塗ってしまいました。


目黒 飴

ところがその後、西尾先生の講義時に「池波黒飴説」は
勘違いで、絵をよく見ると白いから「晒(さら)し飴」らしいとのコメントがありました。
熱愛倶楽部メンバーの目黒の彦十さんたちとも「目黒飴は黒飴? 白飴?」と論議になり、その時代に黒砂糖は高価なものだったので黒飴ではないだろう、絵も白いままで黒く塗られてはいないから、ということに落ち着いたわけですが、先生に「黒飴に塗った劣等生」と烙印を押され、なんとか「晒し飴説」をくつがえしたいと思っていた私ですが、やっぱり無謀でした。(笑)
というのは、「晒し飴説」を見つけたわけで・・・。
杉本苑子著『東京の中の江戸名所図会』(北洋社)の目黒についての項にこんなコメントが記されていました。

「目黒へんの名物は、旬の季節ならむしろ筍めし、栗ごはんなどだろう。それと、目黒飴。長くのばした晒し飴を、ひと口に切ったいわゆる“ぶっ切り”で、紙袋に入れてもらってさげると、よい家土産(づと)になった」

玉砕! やっぱり「晒し飴」だった…?ショック…!
私の持ってるのは、昭和50年12月1日第一刷発行単行本でです。池波さんが「黒飴説」をとった話が書かれたのより先なんでしょうか、後なんでしょうか?
杉本苑子さんは「池波黒飴説」をご存知だったかどうだかわかりませんが、あとがきにも、

「手をのばせばすぐ届くところに、私は『江戸名所図会』を置いておく。そして時おり絵をながめ、文章をひろい読みしては楽しんでいる」

とありますから、外部からのなんの偏見もなく純粋な目で『図会』をご覧になっていたことは間違いないですよね?このあとがきには、『江戸名所図会』の斉藤父子、挿絵の長谷川雪旦についての逸話にも触れてあります。
『江戸名所図会』を塗っている自称〔塗り絵師〕のみなさんも必読するべき本だと思いますよ。図書館・古書店などで探してみてはいかがでしょうか?


管理者:西尾からのレス

杉本苑子さんのその本は、旺文社文庫(1985年12月20日)で持っています。旺文社文庫は数年で廃刊になりましたから、もう、古書店の 100円均一棚にしかないでしょう。
ただ、文庫版は引用されている『図会』の刷がよくありません。
初出誌は『ミセス』で、2年の連載に若干書き足されています。連載開始は1773年(昭和48年)の新年号。[おしゃべり源八]の掲載号は1970年10月号だから、鬼平のほうが先です。


旺文社文庫『東京の中の江戸名所図会』

おまささん、古いジョークのなんとかづけでいうと、
「目黒飴」とかけて、
「目の黒いのは生きているしるしだが、黒飴を食って腹が黒いと見られるのはシャク。だから、晒し飴」
と解く。
ついでにいうと、鬼平のころ、砂糖は薬種問屋のあつかい品目でした。黒砂糖は薩摩藩の専売だったのでは?
追討ち。池波さんは、久栄夫人に「あの飴を口にすると、何やら幼い日のことがおもい出されてなりませぬ」といわせていますが、さて、池波さんが幼い日をおもいだす甘味品は?


12月16日〜14日
2003年12月16日(火)  17:34

鬼平時代の寛政年間の銘石発見!

発信:学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラス
   田中国弘さん

私は東京都足立区の西新井大師を生活圏としています。
当HPの『江戸名所図会・西新井大師堂』をプリントし、丹念に江戸と現代を見比べ探索していくうち、なんと、脇門の片隅に〔鬼平〕が亡くなる翌年の「寛政八年丙辰二月吉日」の銘の入った、小さな古びた石碑を発見!
奇しくも鬼平とまったく同時代の遺物を目にした時、ここへ〔鬼平〕も来たかもと妄想し、しばらくは一人感激にひたっておりました。
ちなみに、『図会』の正面に描かれている中田屋はいまも同じ場所で営業しております。(略)
それにしても『図会』は楽しいタイムマシンです。


西新井大師堂 毎月廿一日開扉あり


管理者:西尾からのレス

ぼくにも似たような体験があるので、田中さんの感激はよくわかります。
20年ほど前、ウエイト・コントロール目的の23区内稲荷めぐりの早朝1万歩さんぽで、吾嬬(あづま)神社(墨田区立花 1- 1-15)の境内稲荷の石の鳥居に、
「天保九年二月初午 願主 信濃屋 筆女」
と刻まれているのを発見。
北十間川ぞいの社なので、行徳からの塩問屋の家つきの若いおかみ・お筆さんの川で溺死した幼児の供養かとか、重い病いの思い人の平癒を願っての寄進か……つぎつぎと空想をひろげたものでした。



12月13日〜8日
2003年02月13日(土)  23:06

鬼平糖!

発信:森下文化センター〔鬼平〕熱愛倶楽部
   おまささん

室さま
今日の講座時に待望の「鬼平糖」を西尾先生が持参、入手経緯を説明のあと、私が分配係を仰せつかり、3袋(1袋に約18個入り)を出席メンバー全員に2個ずつ、ティッシューに乗せて渡しました。
味は、まさに室さんから教わった「小麦胚芽入り 二度揚げかりんとう」「極太、絶大、超大振り! でっかいかりんとうです。きっと満足していただける ずっしりとした食べごたえ。コクのある黒砂糖味をお楽しみください」(笑)そのものでした!
かりんとうなのにジューシーな食感にウットリ!
入れ歯年配のメンバーが多いはずなのに、みんな、コリコリと残さず腹へおさめていました。
このきっかけをつくってくださった室さんに大感謝です!ありがとうございました〜。
でも、「1人2個まで!」の個数限定は、正直、チト物足りないっ!


管理者:西尾からのレス

西尾教室は熱愛だけではありません。朝日CC、学習院、静岡もあり、全員で 100名を越えているのです。平等を心がけると2個が限度――おいしいと思ったら、あとは自分で購入、満腹してください。
それにしても、西尾教室は講義あり、塗り絵の展示発表会あり、史跡ウォーキングあり、歩いたあとには池波さん推奨店での会食あり、味覚体験もあり……とヴァラエティに富んでいるから飽きることがありません。
「西尾教室に飽きたら、人生に飽きたに等しい」(自賛)



2003年12月13日(土)  01:49

青松寺の URL

発信:森下文化センター〔鬼平〕熱愛倶楽部
   おまささん

12月 8日付、当欄に紹介されていた港区愛宕 2- 4- 7の青松寺の URLは下記のとおりです。

http://www5.ocn.ne.jp/~seishoji/


管理者:西尾からのレス

もうお気づきの人もありましょう、[テーマ画廊]の「彩色『江戸名所図会』寄進感謝」にまとめている寺社の中、 URL追記はすべておまささんの調査の賜物です。感謝。

 テーマ画廊 『江戸名所図会』寄進報告 ←こちらをクリック



2003年12月11日(木)  09:07

長谷川伸師の寝室

発信:管理者・西尾のひとりごと

二本榎の旧・長谷川伸邸で、池波さんの長谷川平蔵発見のヒントになったと思われる、三田村鳶魚『捕物の話』(昭和 9年 早稲田大学出版部)が書庫になかったので、2階の書斎兼寝室まで探しに行ってわかったのですが、書き物机の横、内庭を見下ろす窓際にベッドがありました。
書いては眠り、起きてはまた書き----の、作家らしい部屋づくりと納得しました。
師にならい、池波さんの書斎につづく小部屋は仮眠室だったのではないでしょうか。台東区の池波正太郎記念文庫では再現されていませんが……。
ちなみに、長谷川伸師の書斎兼寝室は非公開とのことで、目的が目的だっただけに、管理者・佐藤さんも気を許しての案内でした。お蔭でいい見学になりました。



2003年12月10日(水)  22:40

〔かど家〕の軍鶏鍋

発信:森下文化センター〔鬼平〕熱愛倶楽部
   おまささん

兎忠さん、12月08日付の〔かど家〕軍鶏鍋再堪能コメント、読みました。うらやましいなぁ〜。私も再堪能したい!(にゃはは!)
ドッグズバッグした軍鶏鍋を、次の日ごはんに乗せて軍鶏丼にしたら美味しかったのを思い出しました〜。
〔かど家〕の記事が先日の読売新聞に出ていましたね。

http://www.yomiuri.co.jp/wine/furusato/20031203uh11.htm

池波さんが〔かど家〕の常連客で、〔五鉄〕のは「ここのシャモ鍋がヒントだったそうです」と板長の島田さんは話してますけど、あの時、女将さんはそんなことおっしゃっていましたっけ?
須田町にある〔ぼたん〕は池波氏お気に入りの「池波三角地帯」にあるし、エッセーにも何度も登場してるし、味も醤油がベースの出し汁だし、モデルだといわれても信憑性がある気がするんだけど、〔かど家〕は八丁味噌ベースの味だし、本当のところは、どうなんでしょうね?
ところで、鬼平犯科帳に出てくる軍鶏鍋って何味なのかしらん? 醤油味、もしくは味噌味って記述がありましたっけ?


管理者:西尾からのレス

〔坊主しゃも〕も味噌味だが、八丁味噌だったかなあ。しゃもは、かっては金町でいまは千葉、ねぎは深谷って聞いた記憶があります。
〔かど家〕のしゃもは、千葉の保田、ねぎは岩手の岩見沢でしたね。



2003年12月08日(月)  21:25

「しゃも鍋」を食べてきました

発信:学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラス
   兎忠さん

中学時代の同級生6人――なかの一人が鬼平のファンで、どうしても「しゃも鍋」を食べてみたい、というので、昨日、〔かど家〕で「しゃも鍋」を食べてきました!
先夜は出なかった砂肝のお刺身を、またまた生まれて初めて賞味してきました。


〔かど家〕の「しゃも鍋」 材料


同 炊き始め


同 炊き上がり(コース \8,000〜)


管理者:西尾からのレス

先日、〔かど家〕で50年間も包丁をにぎってきた料理長氏が、池波さんへも「しゃも鍋」を供したことがあり、〔五鉄〕のモデルと、読売新聞の記者へ言ったとか。
〔五鉄〕のモデルうんぬんは、池波さんともども、読売新聞「映画広告賞」の審査員をしていたとき、池波さんへじかに「〔坊主しゃも〕の女将が、〔五鉄〕のモデルはうち……といっていますが」と告げました。
池波さんから、「いや。鬼平の時代、両国橋の東詰に鶏市場があったので、あのあたりには鶏なべ屋やしゃも鍋屋がたくさんあったんだよ。だから、モデルはない」との返事が返ってきました。
この経緯は、池波さん責任編集『オール讀物』(1989年07月臨時増刊号)[鬼平犯科帳の世界](のち同題の文春文庫)の拙稿「江戸ショッピング案内」に記しました。
〔かど家〕や〔坊主しゃも〕が「自分のところがモデル」と主張するのは、まあ、自由ですが、真相は上記のとおりです。
そんなことより、料理がおいしいか、どうか、ですね。

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2003年12月08日(月)  11:19

〔鬼平糖〕の命名の経緯

発信:ミヤト製菓(株)(茨城県猿島郡三和町)
   本社統括部長・宮戸さん

極太のかりんとうなので、「鬼かりんとう」と呼んでいたのです。ただし、〔鬼かりんとう〕は他メーカーに名称登録をされておりますので、〔鬼平糖〕にて名称登録した次第です。
ちなみに、テレビ版『鬼平犯科帳』のロケ打ち上げにも使用されており、社内応接室には『鬼平犯科帳を助太刀いたす』(西尾忠久著)ほか、鬼平がらみの本を展示しております。

ミヤト製菓の〔鬼平糖〕
1袋スーパーで\280前後。
モンブランの最太軸ペンと太さを比べると……。


管理者:西尾からのレス

12月03日付、読売新聞 室記者のコメントから発した〔鬼平糖〕談義の決着です。

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12月3日〜2日
2003年12月03日(水)  09:57

かりんとう「鬼平糖」

発信:読売新聞 福島支局 室さん

一昨日、サービスエリアで買い求めたのですが、不覚にも商品名を見ないまま開け、かなり食べてから気づいたという次第で・・・。
「鬼平糖」というかりんとうです。
ご存じかとは思ったのですが、嬉しくなってつい。
製造者は、茨城県三和町の「みやと製菓」。「小麦胚芽入り二度揚げ」とあります。
商品名の由来については、書いてありませんでした。


管理者:西尾からのレス

情報、ありがとうございました。記者の室さんの方からなんて、立場が逆ですね。
さっそく、電話であたってみました。社長の息・宮戸部長の応対でした。
20年ほど前から市販しているとのこと。そのときに商標登録したと。
池波さんの了解については返事がもらえませんでした。再度、連絡をとってみます。



2003年12月02日(火)  19:24

本門寺総門前の〔弥惣〕のせんべい

発信:森下文化センター〔鬼平〕熱愛倶楽部
   おまささん

11月24日付で[本門寺暮雪]で「葛餅」が話題になっていますよね。
それで思い出したことが1つ。
史跡ウォーキングで歩いた時、総門前の茶店〔弥惣〕の場所があったとされるところに、確か、おせんべい屋さんらしきものがあったような・・・。
そこのおせんべいは「かわらせんべい」でした。
[本門寺暮雪]の話のなかで重要な役割をになう、柴犬の「タロ君あらためクマ君」は鬼平から〔弥惣〕の煎餅を買ってもらって食べますけど、小説では「煎餅」としか書かれてないので「どんな味の煎餅」かは不明ですが、テレビ版[本門寺暮雪]では普通の(?)煎餅でした(笑)。
みんなで「池波先生は総門前の「かわらせんべい」を頭に浮かべてた書いたかもしれないのに、テレビの小道具さんは総門前に考証に来なかったのかな〜。テレビ版も「かわらせんべい」だったら面白かったのにね〜。」と話をしました。
クマ君が食べたお煎餅は本当は何味だったのだろう? 気になるぅ〜。


管理者:西尾からのレス

文庫巻 8[本門寺暮雪]の〔弥惣〕のは、おまささんの指摘どおり、「かわらせんべい」だったかも。
クマと改名後は、市ヶ谷・左門坂上の菓子舗〔桔梗屋〕の「喜楽煎餅」が好物でしたね。これは「糯米(もちごめ)を薄く軽く、亀の子の形に焼きあげ、上質の白砂糖を刷(は)」いたもの。(同巻 9[狐雨]p251 新装p262)「喜楽煎餅」を売っていたかどうかは別にして、市ヶ谷・左門坂上には、〔桔梗屋〕という高級菓子舗は実際にありました。


『江戸買物独案内』(文政 7年…1824…刊)掲載の菓子舗〔桔梗屋〕

ちなみに鬼平夫人・久栄さんの好物は、神田川に架かる昌平橋の北詰・湯島横町の菓子舗〔近江や〕の薄焼砂糖煎餅の「羽衣煎餅」でしたね。(同巻 1[暗剣白梅香]p204 新装p216 、巻16[網虫のお吉]p58 新装p61、巻17[見張りの日々]p249 新装p255 )
文庫巻11[泣き味噌屋]には、川村弥助同心の妻女さとの実家で喰違門外、四谷仲町の菓子舗〔栄風堂 和泉屋〕の「初霜煎餅」が紹介されています。小麦粉と糯米(もちごめ)粉と鶏卵を合せて焼きあげた軽焼煎餅と。p136 新装p142
巻18[一寸の虫]にも、若年寄・京極備前守からすすめられた本銀町(ほんしろがねちょう)の菓子補〔橘屋〕の名代、鶏卵をつかった薄焼煎餅のような「賀茂の月]が出てきますね。
ケーキづくりはベテランのおまささんなら、味の連想はお手のものでしょう。

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