2004年 9月

――敬称略・逆日付順――


 9月30日 21日 17日 10日 3日


9月30日
2004年09月26日(日)

料亭〔大村〕の大刀の預かり

発信:管理者の西尾―――

文庫巻5[兇賊]で、幕臣・最上家の偽の用人が届けた手紙で、〔網切〕の甚五郎が待ちぶせる向島・寺島村の料亭〔大村〕へ出向いた鬼平は、玄関をあがったところで大刀を店の者へ預けます。
武士の魂ともいえる大刀なのに、座敷まで帯同しないのはなぜ? と長く不審におもっていました。
『鬼平犯科帳』の1年前に書き始められた『近藤勇白書』(講談社文庫 新装版)を再読、池田屋騒動の場面でなっとくがいきました。

「亭主。御用あらためであるぞ!」
切りつけるように、勇が叫んだ。
(大坂の薬屋へ化けて数日前から宿泊していた隊員の)山崎丞は横っ飛びに小廊下の部屋へ入った。この部屋には、二階の浪士たちの大刀があずけてある。宿屋や料亭などへ武士があがるとき、大刀を〔刀部屋〕へあずけるのは当時の定めであった。上p293 角川文庫p159

〔刀部屋〕へあずけよという禁令がいつごろ公布されたかは、まだ調べていません。

蛇足ながら:池波さんは『近藤勇白書』の執筆に先立ち、先達の子母澤寛さんへ丁重な挨拶をすませています。子母澤さんの次の3冊に教えられるところが多かったためです。

『新選組始末記』
(1928 中公文庫
1977.03.10)
『新選組遺聞』
(1929 中公文庫
1977.04.10)
『新選組物語』
(1931 中公文庫
1977.05.10)



2004年09月25日(土)

5寸釘に蝋の拷問亭

発信:管理者の西尾―――

今年の 2月23日の当コーナーに、加来耕三さんの『新選組の謎』(講談社文庫)から、新選組に捕まった桝屋喜右衛門こと古高俊太郎が、5寸釘を足の甲へ打たれて蝋をたらしこむ拷問を、池波さんは文庫巻1[唖の十蔵]で粂の拷問へ転用していると書きました。
『鬼平犯科帳』の2年前の池波さんの作品『さむらい劇場』(新潮文庫)に、

「ひと通りの拷問ではねえ。さかさづりにしておいて、足のうらへ五寸釘をぶちこみ、その上から蝋(ろう)の煮えたやつを、とろとろ、とろとろとたらしこむ。こいつはたまらねえものだ……」p182
とあるのを、ついせんの 9月24日当[週刊掲示板]であかしました。
ところが『鬼平犯科帳』の1年前に書かれた『近藤勇白書』(講談社文庫 新装版)上p280 におなじ拷問ぶりが記されています。5寸釘うんぬんの拷問はどうやら新選組の考案なのかも。

『近藤勇白書』
(角川文庫版 
1972.11.01)
『近藤勇白書 上、下』
(講談文庫 新装版 2004.12.15)



9月21日
2004年09月21日(月)

〔法楽寺〕の直右衛門

発信:管理者の西尾―――

[わいわい談義 密偵・おまさ]ブロックで、熱愛倶楽部のおまささんがこんな質問を寄せています。
居酒屋〔盗人酒屋〕の〔鶴(たずがね)〕の忠助はおまさの父親で、かつては〔ながれ盗(づとめ)〕、いまでいうフリーランサーの盗人。その父親が死ぬと、関係の濃かった、
「〔法楽寺の直右衛門〕という、上総・下総にかけて、盗賊界ではそれと知られた親分(文庫巻4[血闘]p130 新装p136 )」
の手くばりで、〔乙畑(おつばた)〕の源八お頭のもとで女賊として働きはじめたのでした。
直右衛門の呼び名の〔法楽寺〕は、女忍者もの『蝶の戦記』(文春文庫)に出てくる北近江の「法楽寺」でしょうか、と。
法楽寺村は、『蝶の戦記』によると、元亀元年(1570)夏、浅井軍と織田軍による、いわゆる姉川の合戦がおこなわれた戦場近く、伊吹山地につらなる山並みの西麓、姉川へ流れ込む草野川の東側にあって、信長の暗殺をもくろむ甲賀忍者・杉谷家の者たちが伏せてたところです。
いまの地名では、滋賀県東浅井郡浅井町法楽寺。

明治21年(1888)刊の琵琶湖北東岸・浅井町周辺と「法楽寺村」
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でも、いくらなんでも北近江出身の者が上総・下総をかせぎ場所にするのはおかしいとおもい、吉田東伍博士『大日本地名辞書』を引いて、
法楽寺(摂津・田辺)
法楽寺(播磨)
法楽寺(上野・足利郡)

を得ました。
摂津・田辺の法楽寺は、いまの大阪市東住吉区長居あたりのようです。
稼ぎのテリトリーが上総・下総とあるから、播磨とともに外し、栃木県足利市の本城山の東南麓の法楽寺に的をしぼりこみました。
文庫巻4[おみねと徳次郎]に、仙寿院(渋谷区千駄ヶ谷 2-24- 1)門前茶店〔蓑安〕の亭主をしている〔名草〕の嘉平が〔法楽寺〕の配下であることも添えました。
足利市の北方の山間には「名草上、中、下町」もあります。


明治20年刊の地図に記された「本城」(麓に法楽寺)と「名草」
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〔法楽寺〕の直右衛門がおまさを預けた〔乙畑〕の源八も栃木県矢板市乙畑の出身のようです

そこで、足利義氏の墓所でもある足利市の法楽寺へ、東武伊勢佐木線で行ってみました。
館林をすぎたあたりから車窓は一望、田圃で、むかしから豊かな農村地帯だったのです。こんな土地でのびのびと育った〔法楽寺〕の直右衛門を〔鶴〕の忠助が信用してお頭と仰いだわけも、なんとなく納得がいきました。
現実の法楽寺は、足利市駅から徒歩25分、本城山の東南麓にあり、中級武士たちの屋敷が建ち並んでいた雰囲気をのこした高台の地区で、きれいな疎水が流れていました。境内には赤萩がまっさかり。高台の下の平地には家々が間合いをとりあって建っているけれど、足利氏のころは農地だったでしょう。


法楽寺全景


法楽寺の内陣


法楽寺本尊

池波さんは、いつ、足利義氏の墓所のあるこの寺の存在を知ったのでしょう。
『蝶の戦記』の執筆中に、近江・浅井町の取材で見えおぼえた法楽寺村を脳裏にとどめて、上杉謙信がらみで『大日本地名辞書』で足利家の支配地を調べているうちに、引きあてたのかも……。
名草は、町営バスが昼間は3時間に1本間隔だったので、いつか自分の車で……と、今回は断念しました。

ちなみに、[おみねと徳次郎]で姿を見せた〔法楽寺〕の直右衛門は「60がらみのでっぷりと肥えた老人」と描写されています。

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2004年09月18日(土)  19:00

「南湖」の読み方

発信:鬼平熱愛倶楽部 秋山太兵衛

9月1日[お気軽 書き込み帳]に、文庫巻15[雲竜剣]で、剣客医師・堀本伯道と鍵師・助治郎が経済的に援助している報謝宿のある「南湖」は、「なんこ」と読むのか、それとも聖典のふられているとおり「なんご」なのか、との書き込みがありました。
1,茅ヶ崎市の市民課に問い合わせました。「なんご」と濁るとの解答でした。
2.『角川 日本地名大辞典 神奈川県』にも「なんご」とふられていました。
また、大正13年に茅ヶ崎町を30行政区に分けた際に、南湖上・中・下町という名称にしたと書かれています。
3.大正 5年の地図にも、茅ヶ崎の町村はもとより、大字にも南湖はありません。
小字に上南湖、下南湖、東南湖下、西南湖下とあります。
4.昭和12年の昭和礼文社『大日本分県地図併地名総覧』の地図に、茅ヶ崎の南西に「南湖」とでていますが、やはり町村、大字ではありませんでした。
 以上、いずれの資料でも「なんこ」とふりがなされたものはありませんでした。
 聖典どおり「なんご」と濁って読まれているようです。


明治20年刊の地図には載っていない「南湖」だが、『五街道細見』の記述から推測すると……。
画像内 をクリックすると、拡大画面が表示されます。

管理者:西尾からのレス―――

秋山太兵衛さん。
詳細なリポート、ありがとうございました。
かつて池波さんから、直木賞をもらってもさしたる注文もこなかったから「旅行ばかりしていたよ」といわれたことがあります。藤沢、茅ヶ崎あたりの取材もその当時にしていたのかも。

文庫巻15[雲竜剣]p189 新装p195  鍵師・助治郎が「南湖立場」の先で街道を相模湾がわへ左に切れ味ます。「南湖」が立場になっていることは『五街道細見』には明記されてはいません。
池波さんは、太田南畝が公用で大坂へ赴したときの『改元紀行』(1801)に「南湖立場」で休息した記録を読んだのかも知れませんね。


幕府道中奉行製作『東海道分延絵図』 茅ヶ崎村の左手の道の中の文字が南湖立場。

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9月17日
2004年09月13日(月)

タケカンムリ「簑」とクサカンムリ「蓑」

発信:管理者の西尾―――

9月 7日のこの欄で、〔簑火〕と〔蓑火〕がなんの法則性もなく混用されている、とご報告しました。

タケカンムリ「簑」と、クサカンムリ「蓑」では、意味がどう異なるのか、諸橋『大漢和辞典』で、まずタケカンムリ「簑」を引いてみました。なんのことはない、クサカンムリ「蓑」と同じ、とありました。
で、クサカンムリ「蓑」……草でつくった衣。
文庫巻1[老盗の夢]p172 新装p188 に、

簑火の喜之助……その異名の〔簑火(みのひ)〕のいわれは、暗夜の田舎道に打ち捨てられた簑や笠へ何の原因もなく、めらめらと火が燃えることがある。田舎の人びとは魑魅魍魎の怪火とおもい、これを〔簑火〕とよんだ。大盗賊の異名にしてはわるくない。
「わるくない?」『諸橋大漢和』はこんな例文をあげています。

被蓑而救火(ミノヲカウムリテヒヲタスク) みのをきて火を消そうとする。効果がないばかりでなく、更に危険を益す喩。

〔蓑火〕の喜之助の最後がまさにこれではなかったでしょうか。

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9月10日
2004年09月07日(火)

〔簑火〕か、〔蓑火〕か

発信:管理者の西尾―――

〔みの火〕の喜之助は、池波さんがもっとも肩入れしている本格派のお頭――というのも、その下で修行して一人前にしてもらった者がいちばん多くふられているからです。

この喜之助、文庫巻1[血頭の丹兵衛]p118 新装p124 で初めて顔出ししたときは〔簑火〕で、しばらくはタケカンムリ、ところが巻4[敵(かたき)]p241 新装253 以降は〔蓑火〕とクサカンムリ
ところが、巻8[あきれた奴]p82 新装p87、巻9[浅草・鳥越橋]ではタケカンムリの〔簑火〕p195 新装p203 へ戻り、巻12[見張りの見張り]ではクサカンムリp114 新装p120 、巻14[尻毛の長右衛門]ではふたたびタケカンムリp47 新装p48、そして巻15[雲竜剣]では〔蓑火〕とクサカンムリp50 新装p52 と目まぐるしいのです。

さらに調べると、巻18[草雲雀]の〔瀬川〕の友次郎は「大盗・〔簑火〕の下で、長年をはたらいてきた」p230新装p238 とあります。
〔簑火〕と書いたり〔蓑火〕とするには、さしたる法則があるようには見えないから、どちらをつかうべきか、ぼくたちは迷ってしまいます。

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9月3日
2004年09月02日(木)

長谷川紀伊守正長の墓

発信:管理者の西尾から―――

 三方ヶ原で戦死した長谷川紀伊守正長の墓は、出生地である静岡県焼津市小川の信香院(『寛政譜』は信光院)にあり、嫡男・正成によって引き継がれた長谷川本家の代々の葬地となっています。
 遠江一帯は武田軍が制圧していましたから、徳川麾下の一将として討ち死した正長の遺体を、隠して小川まで運ぶのは大変な苦労だったろう、と地元の研究家から聞きました。


信香院の正長の墓前に香花する静岡〔鬼平〕クラスの面々

 それはともかく、信香院は曹洞宗です。
 しかるに、次男・宣次からの家系である平蔵の旦那寺、江戸の四谷・戒行寺は法華宗(日蓮宗)です。長谷川本家の祖・正成の次男で分家した正次も、菩提寺を千駄ヶ谷の立法寺としています。日蓮宗。
 正長の三男・正吉の家系は駒込の吉祥寺で、こちらは曹洞宗。

 平蔵宣以も葬られた旦那寺、妙典山戒行寺を『江戸名所図会』はこう記しています。

 日蓮宗にして、(身)延山に属す。寛永(1624〜44)の頃までは、麹町1丁目の内堀端にあって、常唱題目修行の庵室であったが、近隣宮重氏が庵主とともに力を合わせて1寺とした。当寺の日貞師は、山本勘助晴幸入道鬼齋の孫で、(身)延山の日悦上人の徒弟であった(寛保中、八十余歳にして遷化された)。
 明暦期にこの地へ遷った。総門の額に「妙典山」と書かれているのは、朝鮮国李彦の書である。このところの坂を戒行寺坂、またその下の谷を戒行寺谷と唱えた。


日宗寺 戒行寺 汐干観音(『江戸名所図会』)

拡大図をご覧になりたい方は上のボタンをクリックしてください

宣次、正次が曹洞宗から、なぜ日蓮宗へ宗旨を変えたかは未詳



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