岸井左馬之助について




2003年12月14日(日)  22:32

10月28日付「週刊掲示板」の訂正

発信:学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラス
   堀 眞治郎さん

10月28日に「春慶寺が日蓮宗の寺とは知らなかった?」という投稿をしました。
春慶寺が日蓮宗のお寺であることを知っていた私は、日蓮宗の本山は身延山久遠寺であって、京都に日蓮宗の本山があるとはまったく考えず、日蓮宗の僧侶が京都で修行したり、京都の本山へ行くなどということは一般常識としておかしいと考えて、池波先生、平岩先生は春慶寺が日蓮宗のお寺であることをご存じでないのでは? との投稿を行いました。
11月18日の「週刊掲示板」にも、横浜市金沢区六浦の上行寺のご住職の西尾先生への彩色『江戸名所図会』寄進感謝のお礼状の中に「京都の本山に行っており……」というのがあり、西尾先生は、また日蓮宗から真言宗へ戻ったのでしょうかとお書きになっているのを見まして、気になりまして調べてみました。
インターネットで、日蓮宗のホームページを見てみると、身延山久遠寺は祖山といい、日蓮宗の総本山で、大本山とは、誕生寺(千葉)、清澄寺(千葉)、中山法華経寺(千葉)、池上本門寺(東京)、妙顕寺(京都)、本圀寺(京都)とあります。このことから日蓮宗でも、京都で修行とか京都の本山へ行っていたというのは間違いでないということが判りはじめました。
たまたま11月29日に学習院の〔鬼平〕クラスの[隠居金七百両]史跡ウォーキングで雑司ヶ谷鬼子母神を訪れました際に、〔法明寺〕のご住職にお尋ねしたところ、京都に本山が16ヶ寺ほどあるとのことでした。
したがって日蓮宗でも「京都で修行したり」「京都の本山へ行っておりまして」ということは日常茶飯事なわけです。つまり、10月28日の投稿はまったくの誤記で、池波先生、平岩先生に対して大変な失礼をしたことを深くお詫び申し上げる次第です。
昨日、新宿区中央図書館で日蓮宗宗務院発行の『日蓮宗事典』(昭和56年10月13日初版)を調べたら、 477ページに、天文法難(1536)以前に洛中建立され題目を唱える本山として開教先師とともに活動した寺々――妙顕寺、弘経寺、上行院、住本寺、本国寺(本圀寺)、妙覚寺、妙満寺、本禅寺、本満寺、宝国寺、立本寺、妙蓮寺、本能寺、本法寺、頂妙寺、妙泉寺、学養寺、本覚寺、妙伝寺、本隆寺、大妙寺を京都21ヶ寺本山という、とありました。
これらの中には法華宗として独立した寺もあり、日蓮宗として残っているのが、法明寺のご住職がおっしゃていました16ヶ寺なのでしょう。
京都日蓮宗のHPに、市内の日蓮宗寺院の総数 142ヶ寺とあり、その多さにびっくりしました。


管理者:西尾からのレス

堀さんの考究にしたがい、11月18日付、上行寺のご住職へのぼくのレスも取り消させていただきます。
堀さん、多忙時のお調べ、ありがとうございました。

 井戸堀人のリポート 岸井左馬之助と春慶寺 ←こちらをクリック



2003年10月28日(火)  20:34

春慶寺が日蓮宗の寺とは知らなかった?

発信:学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラス
   堀 眞治郎さん

クラスの先日の四谷史跡めぐりに備えて巻 8[明神の次郎吉]を読み返していて、何か変だなと感じました。
p98で春慶寺の老和尚が宗円を左馬之助へ引き合わせ、

「このお人はな、むかしむかし、わしが京にいて修行をしていたころの知り合いでな……」

の部分です。
クラスですでに春慶寺を訪れたことがあり、日蓮宗の寺と知っている私には、
(何か違う)
と思えたのです。
お坊さんの修行は、宗派の本山で行うのが一般的な常識だと思っており、京都にも日蓮宗のお寺は沢山ありますが、京ではなく、

「甲州の身延山久遠寺で修行をしていたころの知り合いでな……」

となるべきだと考えたのです。
池波先生が春慶寺を左馬之助の寄宿先に選んだのは、鶴屋南北の菩提寺が春慶寺であることを知ったことからだと、[井戸掘り人のリポート]に書かれており、宗派などにはとくに関心はなかったと推測します。
そこで、京で修行していたと書けば、まあ間違いなかろうと思ったのではないでしょうか?
変なところに気づいてにやにやしている読者が現れようとは、さすがの池波先生も予想もしていなかった?
平岩弓枝さんも堂々とやっています。文庫の『五人女捕物くらべ(上)』の花和尚お七の章のp224、

「本名はお七、頭を丸めているから本当ならなんとか尼と呼ぶんだろうが、何故か、花和尚という。名付親はお七の父親で、こっちは本職の坊さんだ。本所の押上村の春慶寺という寺の住職でね。真円というんだ」
「父は、只今、京都の本山の方へ参って居ります」



『五人女捕物くらべ(上)』(講談社文庫)

 フィクションだとしても、実在の寺名をそのまま用いる場合には宗派くらいは調べて、書いて欲しいと思うのは私だけでしょうか?


管理者:西尾からのレス

堀さん、あいかわらず、鋭い。
ご指摘の点、たしかに変といえば変です。尻馬に乗ってさらにいうと、日蓮宗だと、始祖日蓮、『江戸名所図会』の二天尊像を身延山まで背負った日荷、平蔵宣以の日燿のように僧号も「日なんとか」となるのではないでしょうか。


六浦妙法日荷上人、(横浜の)称名寺の住僧と戯れに碁を囲み、
かの寺の二天尊を賭物とす。上人勝ちたりければ、つひにこれを負うて
甲州身延山へ至られたりという。大力無双の人なり。


[岸井左馬之助と春慶寺](井戸掘り人のリポート)←こちらをクリック



2003年09月06日(土) 12:36

「満開佐倉文庫」という本

発信:佐倉市在住の御台さん

佐倉市役所の学芸員の内田儀久さんが、中央公論から「満開佐倉文庫」という本をお出しになりました。
【3】佐倉本を集めるの項に、『鬼平犯科帳』からも何人か出てきます。以下引用。

池波正太郎の『鬼平犯科帳』の主人公・長谷川平蔵は、若き日に道場で剣術の鍛錬をしますが、この道場主高杉銀平は佐倉の在の郷土という設定です。(「本所・桜屋敷」)平蔵は、めっぽう強いのですが、その腕前を佐倉の人が育てたんですね。そして、平蔵の剣術友達にも佐倉の在の郷土岸井左馬之助がいました。平蔵の脇役でもあります。(「兇剣」)
このように佐倉にゆかりのある架空人物が、『鬼平犯科帳』で重要な役目を果たしています。
それから、平蔵の下働きをする女密偵・おまさの叔母は佐倉の在に住んでいました。(「狐火」)
また左馬之助が幼いときに印旛沼で水遊びをしていて溺れかかったことがありましたが、その彼を助けた人物が臼井の鎌太郎で後に盗賊となります。(「駿州・宇津谷峠」)さらには、佐倉十一万石の堀田家の庇護を受け、月に何度かは、堀田家の江戸屋敷におもむき、儒学の講義をする吉田休甫という人物もいました。(「炎の色」)
『鬼平犯科帳』シリーズに登場する人物の出身地別登場回数を調べたわけではありませんが、意外と佐倉は上位に食い込むのではないかと思っています。そのようなわけで、『鬼平犯科帳』は佐倉本を語る上で書かせない一冊です。
著者の内田さんは、ご自身のHP[佐倉と印旛沼]もお持ちのようなので、DM書いてみます。そして、西尾先生のHPに投稿していただけるようにお願いしてみますね。
この方の本の中でも紹介されていますが、『鬼平犯科帳』に限らず、佐倉は文学・推理小説・時代小説の分野に驚くほど登場しています。
明治期の作家の周辺に、佐倉にゆかりのある人々がいました。
森鴎外に漢文を教えた依田学海、夏目漱石や正岡子規の友人であった浅井忠、また芥川龍之介の隣家に香取秀真の家がありました。鴎外『ヰタ・セクスアリス』には、旧佐倉藩士であった依田学海が文淵先生として描かれています。これは鴎外が、若き日に学海から漢文を習っていたときの話を描いた作品です。
佐倉には小説の舞台となる場所があるのですね。
池波先生との接点は……いったいどのあたりなのでしょうね。


管理者:西尾からのレス

佐倉出身は、文学にかぎらず、長嶋茂雄さんもでしたね。[炎の色]の、浮世小路に住んで佐倉藩の庇護を受けている書道指南の吉田休甫は、架空の人物です(p176 新装p171 )
高杉銀平も岸井左馬之助も物語上の人物であることは、もちろん、いうまでもありません。高杉師は「佐倉の在」、左馬之助は「臼井」の生れ。師の遺骨は左馬之助が「臼井」の寺へ葬ったのでしたね。
そういえば、おまさの父の〔鶴(たずがね)〕の忠助には言及されていないようですが、故郷が[血闘]に「下総のどこか」とあるきりだからでしょうか。
ついでなので。佐倉市が市制を敷くにあたり、どんなふうに広がっていったか……鬼平のころから90年ほどあとの明治20年(1887)に、参謀本部陸軍測量部が出した「佐倉」と題した20万分の1の地図に、「郵便番号簿」の地名をのせてみました。佐倉市が東西よりも南北へ拡張していったさまがよくわかります。

明治20年・陸軍測量部製[佐倉]の部分
地図内の
赤枠部分をクリックされますと、拡大画像をご覧になれます。



2003年06月03日(火) 06:30

岸井左馬之助、秋葉神社詣で

管理者:西尾のリポート

文庫巻3[駿州・宇津谷峠]、京都帰りの浜松で、岸井左馬之助が平蔵へ「二、三日がほどは木村(忠吾)がついておればよいだろう?」

「どこへ行くのか?」
「帰りに寄るつもりでいたのだが……」
「どこへ?」
「秋葉山(あきばさん)へ、さ」
秋葉山は天竜川をさかのぼること十余里。遠江(とおとうみ)の山地が天竜と気田(けた)の二川に別れるところ、森々(しんしん)たる樹木におおわれ、山頂には三尺坊大権現(だいごんげん)と称する秋葉神社と大登山(だいとうざん)・秋葉寺(しゅうようじ)がある。
p215 新装p225

「景色の大へんによいところだと、おれの死んだ父親がいうた」と、左馬之助は出かけた。
 浜松から二股(天竜市)まで左馬之助は天竜川ぞいに10数キロ歩いたろうが、こちらは遠州鉄道の電車で新浜松駅から西鹿島駅まで約35分。 430円。
 左馬之助はさらに天竜川にそって北上、ついで気田川ぞいに山間へ入っていくが、こちらは西鹿島から遠州バス春野町役場行で二股川、気田川ぞいに秋葉神社前へ。50分。 630円。

参謀本部陸地測量部 明治22年製作

画像内 をクリックすると、拡大画面が表示されます。


しかし、バス停の秋葉神社(静岡県周智郡春野町)は、いわゆね下(しも)社で、昭和18年(1943)の山火事で山頂の社殿が焼失したときに仮に立てられたもので、左馬之助の時代にはなかった。
火伏の神社が焼失とは……とのいいようもあろうが、諸家の災いをお引きうけになった、と考えよう。
山頂の本社は平成8年(1996)にいたり、やっと落成。

 下社前

 下社拝殿

下社で駐車場を掃除していた若い禰宜さんに山頂までの所用時間を聞くと、「2時間ですね」。
社務所の中年の禰宜さんは「1時間半」と。若いほうは、白髪まじりの当方をよほどの高齢に見た気配。
3.8キロとあり、歩きはじめた。
麓の栗橋を渡る。浜松からも袋井からも9里(約36キロ)の地点にあるための名とか。すると左馬之助はここで一泊したかな。
登りはきつかった。30°から45°級の坂の連続。途中で何度引き帰えそうとおもったことか。ちょうどおなじ季節のあのとき、岸井左馬之助は48歳だった。こちらはあと1週間で73歳。
鴬が添うように鳴きながらずっとついてきてくれたので、2度と訪れることはなかろうと、渾身の力と汗をふりしぼる。


栗橋。浜松からも見付からも九里なので命名。

 登山道

ついに、楼門に達した。「やったあ!」

 楼門

 拝殿(本堂?)

 火防天狗の像

火防秋葉三尺坊大権現の天狗は、遠江天狗の総帥といわれ、修行のすえに、大阿闍(あじゃ)りとなったと。そういえば登山道に、常夜灯の石柱がいくつも残っていた。
ただ、参詣したのが秋葉神社だったのか秋葉寺だったかは不明。秋葉寺だとしても改めての徒歩参詣はしまい。
[疑問]左馬之助はともかく、池波さんは山頂の社へ参詣したのかな。いや、そのころは焼失再建中だったろう。





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