SBS学苑パルシェ(静岡)〔鬼平〕クラス:杉山幸雄


 〔五十海(いかるみ)〕の権平

文庫巻1[座頭と猿]に顔を見せる凶悪な盗賊、〔五十海〕の権平p247 新装p256 が名乗っている〔五十海〕についてリポートします。

 蔵書史料
『修訂駿河国新風土記』 国書刊行会
『藤枝市史 資料編3 近世』付録絵図
『郷土史料事典22 静岡県』人文社
『焼津・藤枝・島田・志太・榛原歴史散歩』
               静岡新聞社
『第5回企画展藤枝大祭』藤枝市郷土博物館
県立図書館史料
『藤枝町史』
『ふるさと百科 藤枝事典』国書刊行会
『志太郡朝比奈村誌』
『静岡県勢要覧』県企画部高度情報総室

藤枝宿は、慶長 6年(1601)関ヶ原の翌年、品川から22番目、東は岡部宿へ 1里26町(約6,839m)、西は島田宿へ 2里 8町(約8,874m)の宿場として設営された。
特徴は、志太・益津両郡内の8カ村が、親村に属しながら一部を宿場のたろ
めに割いて宿域をつくったことである。
8カ村の一……五十海(いかるみ)村の周辺は、古代には葉梨川と朝比奈川の分流、または瀬戸川の分流などが合流する地点なので、大雨のたびに氾濫したらしい。その氾濫する水のさまが「怒る水(いかるみ)」という地名となった。
近くの「押切」という地名も、川に押し切られて氾濫したことを物語っている。
微高地に鎮座する原木神社と八坂神社は、ともに葉梨川を鎮めることを願って祀られた。

『駿国雑誌』より転載

[西尾付記]
池波さんは、そういう史実を知った上で、凶悪な盗賊には〔五十海〕がふさわしいとおもい、通り名としたのですね。納得。

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 〔羽佐間(はざま)〕の文蔵

文庫巻4[五年目の客]p49 新装p51に、10年前に〔小房〕の粂八がその配下にあった遠州の大盗賊(おおもの)〔羽佐間〕の文蔵の名がでてくる。
その通り名となっている〔羽佐間〕はその名のとおり、東西に山をいただく狭小な山あい(はざま)の地だが、明治22年(1889)に合併されて現在は岡部町の一画となっている。
徳川時代の当初は幕府の直轄領だったが、のち幕臣・大草主膳の知行地( 107石分)となった。
現在は戸数80余、人口 400人。
羽佐間は駿州だから、村をでて西隣の遠江一帯を稼ぎ場としていたことになっているが、池波さんは、どういう経緯でこの部落に目をつけたのか。

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