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2007年01月12日

3008中山道(木曾街道)六十九次 広重・英泉&延絵図(その2)

第6日目

沓掛宿を六つ半(午前7時)過ぎに発つ。

道中、ほとんど、右手の浅間山の裾野を歩いている感じ。その浅間嶽だが、北斎に私淑していた英泉の筆になったのを見ているせいか、 山貌が北斎じみてくるから、刷り込みというのはおそろしい。

借宿(かりやど)村で、村社・遠近(おちこち)宮に参詣。『伊勢物語』の」「信濃なる浅間の嶽(たけ) にたつ煙 をちこち人の見やはとがめぬ」によるという。

20木曾街道 追分宿・浅間山眺望(英泉)

追分宿(分間延絵図)

小田井宿へ1里半。北国街道・小諸宿へ3里半。善光寺へ19里。

宿への東端の入り口に近い脇本陣〔油屋〕は、昭和12年(1937)に焼失後、向い側・右手に再建された。堀辰雄、神西清、 中村真一郎などの作家にゆかりが深い。、

分岐点、南への道が中山道、北へとると北国街道。

(5.1) このあたりは信州と上州を結ぶ物資輸送の中継基地で、中馬、中牛宿で賑わったところであった。(くまごろう)

「追分」は、分岐点の意。渡世人や盗賊が〔追分(おいわけ)〕を〔通り名(呼び名)〕にするのは、出生地を隠すためもある。

 

21木曾海道 六拾九次之内 小田井宿(広重)

小田井宿(分間延絵図)

岩村田宿へ1里7丁。宿場5丁。家数100軒余。

[8-3 明神の次郎吉]は、

その年(寛政5年 1793)の、梅雨(つゆ)が明けたばかりの或る日の夕暮れであった。

江戸から四十四里十四丁をはなれた信州・小井田の宿場(中仙道 なかせんどう)へ入って来た町人ふうの旅の男が、すでに灯(ひ) のともった宿場町を通りすぎ、江戸の法へ去っていった。

つぎの宿場は紳士集。追分で、そこまで一里半ほどある。

〔明神(みょうじん) 〕の次郎吉の登場シーンである。出生地や笠取峠などの詳細は、左の色変りの(みょうじん)をクリックしてお読みのほどを。

『木曽路名所図会』はいう。「この駅の中に溝(みぞ)ありて流れ清し。用水に用ゆ。これを(注・追分側へ)過ぎてあら町村あり。 ここより飯盛が嶽(いいもりがたけ)・八ッが嶽実る。三、四月のころまで雪あり」

(5.15) 道路脇には用水の溝が設けられ、澄んだ水が音をたてて流れていた。(くまごろう)

ふたたび、[明神の次郎吉]。〔明神〕の次郎吉は、ぼくたちとは逆に、江戸へ向かっているのだが、『分間延絵図』は、なぜか「前田村」 を岩田村側に置いている。

前田原へかかった旅の男は、旅提灯(ちょうちん)を出して灯(あか)りを入れた。馴(な)れた手つきである。前田原は芒(すすき) の生い茂る広野で、秋になると、尾花の群れが、道を急ぐ旅人たちへ、まるで、まといつくように見えるのだった。だが、いまは夏だ。 尾花のかわりに、種々雑多の草が生ぐさいほどに匂っていた。p92  新装p97

(5.29)「前田原」は小田井宿の御代田の辺りであろうか。よく晴れた日であったが、カァと鳴く鴉は飛んでこなかった。 (くまごろう)

くまごろうさんが鴉のことを書いたのは、〔明神〕の次郎吉が「エエ、笠取のォ、鴉がカァと鳴くときは---」 とうなったのを受けたわけ。

 

行程(4)

 塩尻峠←下諏訪宿←和田峠←和田宿←長久保←笠取峠←芦田←望月←八幡←塩名田←岩村田←小田井 左上から

 

22木曾海道 六拾九次之内 岩村田宿(英泉)

このシリーズを刊行中におきた英泉と広重、英泉と版元などの複雑なトラブルを比喩した絵柄との説もある。

岩村田宿(分間延絵図)

塩名田へ1里11丁。宿場9丁。家数500軒余。善光寺への別れ道あり。小諸へ2里。甲州街道への分岐点は中央左への道。

 

23木曾海道 六拾九次之内 塩なた(広重)

塩名田宿を西へ出ると千曲川。『延絵図』には橋が描かれているが、しばしば流された。そのときは舟渡し。 舟人足たちがたむろしている図。対岸は御馬寄(みまよせ)村。

塩名田宿(分間延絵図)

八幡宿へ27丁。宿場4丁余。家数150軒余。

ここで昼餉を摂る。

(5.29) 一間社流造と騎馬男女ニ神像の駒形神社、滝宮社を合祀した塩名田(くまごろう)は、それぞれ歴史を刻んだ社であった。 (くまごろう)

 

24木曾海道 六拾九次之内 八幡(広重)

宿場の東の入口の中沢川から、来た方角を振り返ると、経塚村。

八幡宿(分間延絵図)

望月宿へ33丁。宿場8丁余。家数160軒余。

八幡社は、↑絵図の右手、宿場へ入ったすぐの赤い鳥居がそう。

(6.4) 宿名の由来である八幡神社は本殿、拝殿、随身門、高良社などの堂宇が並び、 庇や軒先に室町時代の彫刻が施された由緒ある古社であった。(くまごろう)

高麗に通じる高良社は、重要文化財に指定されている。

 

25木曾海道 六拾九次之内 望月(広重)

望月宿の手前の赤松並木と右手に浅間山を描くとされている。

望月宿(分間延絵図)

芦田へ1里8丁。宿場5丁。家数150軒余。鹿曲(かくま)川ぞい。

本陣跡に歴史民族資料館が建っている。

 

芦田宿(分間延絵図)

長久保宿へ1里16丁。宿場5丁。家数100軒余。

(6.23) 江戸時代に問屋と旅籠を兼ね、幕末には名主も勤めた真山(さなやま)家は、軒卯建のある出梁(だしはり) 造りの建物であった。明和4年(1776)に建てられた。往時の望月宿の名残りをとどめる貴重な建築物であった。国指定の文化財である。 一般に公開されているので、中に入って、つぶさに見学した。厚い大戸を潜ると人馬の通路で飯炊きなども行われた「通り土間」 問屋場で次の宿場へ運ぶ貨物を置いて「板場」、お客や商人の接待などをした囲炉裏のある「茶の間」、 商人や旅人や大名などの接待宿泊に使われた「表座敷・中の間・上段の間」等々が往時のまま残されていた。(くまごろう)

26木曾海道 六拾九次之内 あし田(広重)

 芦田宿の先にある笠取峠を描いている。

[7-3 明神の次郎吉]で、〔明神(みょうじん) 〕の次郎吉は、小井田の宿場で客引き女へ、

「笠取峠に住む古狸(ふるだぬき)ゆえ、怖いものなんかありゃしないのだ」

という。その笠取峠である。峠の立場茶屋からは芦田30丁、長窪へ22丁というから、峠の区間は1里あるかないか。『延絵図』 の解説書によると、幕府から小諸藩へ贈られた赤松753本。大正13年には229本が健在だったが、 昭和46年には129本にまで減っていたと。

(6.29) 笠取峠の松並木も壮観であった。(くまごろう)

 笠取峠

「苅とり峠」「雁とり峠」ともいったらしいが、いまは笠取峠に統一している。

『五街道細見』(青蛙房)は、「此処にて浅間山見はらしよし」と記す。

 

27木曾海道 六拾九次之内 長久保(広重)

宿場の西はずれを流れる依田(よだ)川に架かる依田橋。満月の明かりは川岸の人馬だけを照らす。

長窪宿(分間延絵図)

和田宿へ2里。腰越宿へ2里。宿場7丁52間。家数180軒余。

宿場の道の折れ曲がりが目につく。南の大門峠が黒耀石の産地なので「黒耀石石器資料館」がある。

(5.29)本陣の門構えが往時のまま残っていた。内部は見られなかったが、ほぼ、昔のままであるという。中山道本陣中、 最古の建物だそうな。(くまごろう)

 

和田宿(分間延絵図)

下の諏訪へ5里半(道中のうちで最長)。

難関・和田峠越えを控えて、和田宿泊まり。

 

第7日目

28木曾海道 六拾九次之内 和田(広重)

和田宿と下諏訪の間の和田峠の雪景色。標高1600メートルは中山道でもっとも高い峠で、最大難所。

幸いに、雨滴は落ちていない。朝靄が明けるのをまって、旅籠を五つ(午前8時)前に発つ。

                        ↑一里塚

     ↑東の餅屋          ↑道の下の山腹に恵比須岩

    和田峠

                             ↑一里塚     ↑諏訪の餅屋

(8.27) 「唐沢立場跡」「唐沢の一里塚跡」「人馬施行所(せぎょうしょ)」「広原一里塚跡」等々の史跡を訪ねた。 唐沢立場跡は羽田家他、4軒の茶屋本陣があったところ。屋根瓦の「本陣」の表示は珍しく、道中初めて接するものである。「唐沢の一里塚」 は江戸へ51里の距離にあった。人馬施行所は文政11年(1828)に江戸の豪商・加瀬屋与兵衛が中山道の旅人の難儀を救おうと、 金千両を幕府に献上した。それを元資にして利殖し、増えた金高の中から、碓氷峠の坂本宿と和田宿に下付、 11月から3月にかけて峠を越える旅人に粥と焚火を、牛馬には年中、桶一杯の煮麦を施行したという。江戸時代にも奇特な人がいたものだ。 (くまごろう)

 

29木曾海道 六拾九次之内 下諏訪(広重)

奥の襖の図案は、版元・錦樹堂の山形の屋標に林の文字。研究者によると、足つき銘々膳には、1汁2菜。汁と豆腐と菜、煮物の平椀は芋、 菜、揚豆腐と、煮浸し鮒の皿とのこと。

明日は、諏訪神社(春の社、下の社)参詣と、塩尻峠越えがひかえている。

下諏訪宿(分間延絵図)

塩尻へ2里30丁。甲府へ16里。

『木曽路名所図会』に記す。「諏訪の駅一千ばかり。商人(あきんど)多し。旅舎に出女(でおんな)あり。夏蚊なし。少しあれどささず。 雪深うして寒烈し」

 

 予備日

 『旅行用心集』(つづき)

一. 夏の道中はしばしば渇いて水を口にするが、清水を選んで飲むこと。古池または山水、 澄んなく流れていない谷水などはみだりに呑んではいけない。毒のあるものが多い。携帯している五苓散(ごれいさん)の類とともに水を飲む。

山椒、胡椒の類はかならず携行すること。山中の気を避け、湿をさらせるものだからである。くわしくは末尾の薬の項に記してある。

一. 夏は旅人は疲れはて、つい草むらに寝転んで眠ってしまう人がいるが、けっしてやってはいけない。夏の野原らは毒虫が多い。 たとえ毒を持たない虫であっても、毒をもつたものに触れたあとで人を刺せば、そのの毒気はきびしいものだ。

また、古い宮寺の茂っている林、山中の岩窟へうっかり入るとか、水辺、湿地など、涼しいからといって長く休息してはいけない。 そのようなところには、はげしい毒湿があると、しっかり心得ておく。

一. 食後に道を、急いではいけない。これは厳守すること。また、馬や駕籠に乗っても、急いではいけない。転んだり落馬したら、 食後すぐだと胃の中のものがこなれていないため、気分が悪くなることがある。心得ておこう。

一. 便意・尿意をがまんして、馬や駕籠にぜったいに乗ってはいけない。落馬でもすれは、心を突き、頓死することもある。

一. 人馬の先触れを出すなら、出立の日の二、三日前に出す。そうでないと途中で追いついて一緒になまつてしまい、 にんのために先触れを出したまのだか、意味がなくなつてしまう。

一.武士荷はもちろん、商人荷であっても、宿々問屋場へ着いたら、まず宿役へ会釈をし、その上で駄賃帳を出して人馬の人数を伝え、 それから問屋へ到着の荷物の順を確認し、しとやかに申し談ずる。また、問屋場は混雑しがちな場所だから、 紛失物や他人に対して粗忽のないように計らうこと。

一. 武士はもちろん、平人であっても、大切な主用(しゅよう)で旅行する人、道中で馬方。人足たちにふつつかなことがあっても、 用捨(容赦)すること。もっとも、勤務にかかわる筋ならはそうはいくまい。しかし、その余のことは堪忍専一と心得よう。 道中によけいな時間を使っては主用で旅行する意味がない。

一. 途中で、馬や人足ともに荷替えということをする。これは旅人の方では無益に手間どることゆえ、はなはだ迷惑なものだが、 旅人のほうで了簡してやらなければならないものである。それゆえ、馬方が急いで荷物を付け替えるとき、えてして小付(こづけ) などを取り落とすことがままある。このときは貫ざし銭、小付の数をあらため、自身心づけて手伝うこと。

一. 明荷(あけに)、葛篭(つづら)の中へ衣類、紙包などを入れるときは、油紙で二重に包み、 うちへ湿りのはいらないように荷造りすること。河越えの節、明荷の合口から水が入るからである。明荷にかぎらず、両掛(りょうがけ) なども水の入らないように要人しよう。そうじて河越えの場所では、濡れ物、紛失物に気をくばろう。付けたり、明荷、両掛は、 江戸では伝法院前の駿河屋がつくったものがもっとも宜しい。

一. 河越えのある場所で、女子を連れているときは、その用意をしておくこと。婦人は男子とは違い、内気なので、 川岸で水勢を見て怖れ、その上、川越え人足の乱雑な人あつかいに驚き逆上して、血の道がはじまり、難儀する人がままある。

だから、川越えの前日に、混雑する次第ををとくといい聞かせ、旅人が前後してもけっして驚かないように得心させておくこと。 このような場所には宿役などがいて、いささかも気遣いすることはないといえども、女子は驚きやすいものなのだから、川越えにかぎらず、水辺、 舟渡し、山坂などすべて険阻なところは、前々からいいふくめておくことが肝要である。

 

第8日目

塩尻峠越えがひかえているので、旅籠を五つ(午前8時)前に発ち、道すがら下社(春ノ社、秋ノ社)に参詣。

木曾街道 塩尻嶺(しおじりとうげ) 諏訪ノ湖水眺望(英泉)

峠での眺め。湖水は氷結している。左手は八ヶ岳連峰の端から富士がのぞく。

この景色を北斎も描いている(『富嶽三十六景 信州諏訪湖)。もとネタは『木曽路名所図会』の絵と見るが---。

 塩尻峠(分間延絵図)

(9.25) 大岩をすぎた辺りから続く塩尻峠への急坂は、いささか困難を極めた。完全に息ね上がった。 足腰の弱い人に霊験あらたかと言われる石船観音の急な石段を上った直後だけに大層、堪えた。(くまごろう)

頂上の茶屋本陣跡は標高1,060m。

御嶽遥拝所の展望台から眼下に諏訪湖、左後方に八ヶ岳連峰と南アルプスの山々望むことができた。 中央後方に晴れた日には富士山も望めるという。その壮大な景観に、しばし陶然となった。正に絶景であった。(くまごろう)

行程(5)

 贄(にえ)川宿←山本(もとやま)宿←洗馬(せば)宿←塩尻宿←塩尻峠。 ↓上から。

塩尻宿(分間延絵図)

洗馬(せば)へ1里30丁。

太平洋側の塩と日本海側の塩の終着点なので「塩尻」。『木曽路名所図会』は「信州にて山間(やまあい)広き平原の地なり」と記す。 阿礼(あれ)神社は延喜式神名帳にも載っている古社。

31木曾海道 六拾九次之内 洗馬(せば)(広重)

下の延絵図の左手(本山側)宿場はずれが、奈良井川。広重はその夕景を描いている。旅人の寂寥を表現していると、 広重の中山道の絵の中では最高にあげる人が多いらしい。旅がもたらすものは寂寥感だけではないとおもうけど。

 洗馬宿(分間延絵図)

本山宿へ30丁。宿場5丁。家数150軒余。

木曾義仲の家臣・今井兼平が馬を洗った湧き泉は宿の右側---「太田の清水」。宿名のゆえん。中食を摂る。

 

 32木曾海道 六拾九次之内 本山(もとやま)(広重)

宿場の南はずれの光景らしい。

本山宿(分間延絵図)

贄(にえ)川宿へ2里。宿場5丁20間。家数130軒余。

(9.26)人通りの全くない静寂に宿場であった。斜角にとった奥行(表通りに雁行型に並ぶ)や、出梁(だしばり) 造りの古い家並が続き、かつての宿場の様子を再現していた。(略)「蕎麦切り」の発祥の地としても知られているそうな。(くまごろう)

贄川宿へ奈良井川ぞ゜いの道。山が迫っている。

 

 33木曾海道 六拾九次之内 贄川(にえがわ)(広重)

旅籠の店頭。ふらさがっている札は、「板元いせ利」から彫師、刷り師などの名前。「仙女香」 はタイアップ広告---ということから推察すると、このシリーズの風景の選択にもPRがらみの画題がありそうな。

贄川(にえがわ)宿(『分間延絵図)

奈良井宿へ1里30丁。宿場4丁6間。

かつて温泉が湧いていたので熱川(にえがわ)といったらしい。上下女改めの番所跡が本山宿よ寄りに。

馬籠宿までの11宿が木曽路。 

 

34木曾街道 奈良井宿 名産店之図(ひろしげ)

宿はずれ茶店をお六櫛の店に仕立てた。

奈良井宿(分間延絵図)

藪原宿へ1里13丁。宿場8丁5間。

(10.21)間(あい)の平沢は木曾漆器の産地。(略) ヒノキ、サワラ、コウヤマキ、アスナロ、ネズコを「木曾五木」というと。 (くまごろう)

[7-5 泥鰌の和助始末]の主人公〔泥鰌(どじょう)〕の和助が表向きにしているのが「木曾・お六くしどころ〕。浅草・ 阿部川町の新堀川ぞいの家で、16歳の小むすめに店番をやらせて、本人はほとんど店には顔をださなかったと。ついでながら、 和助し組んだのは剣客・松岡(まつおか) 重兵衛と〔不破(ふわ) 〕の惣七。

 奈良井宿泊まり。

 

第9日目

行程(6)

野尻宿←須原宿←上ノ松宿←福嶋宿←宮ノ越宿←薮原宿←鳥居峠←奈良井宿。↓上から。

奈良井宿を出ると、すぐに鳥居峠である。九十九折(つづらおり)とはよくぞいった。急な坂の連続。もっとも、いまは新道がある。

峠の頂上は1,197m。御嶽遥拝の鳥居がある。硯の清水も。

 

35木曾街道 藪原 鳥居峠硯ノ清水(英泉)

 

  鳥居峠(分間延絵図)

(11.5)鳥居峠は、日本海側へ流れる奈良井川と、太平洋側へ流れる木曽川の分水嶺であった。(くまごろう)

薮原宿(分間延絵図)

宮ノ越宿へ1里30丁。宿場5丁余。

(11.5)薮原神社の創建は680年というから、いかにも旧い。(くまごろう)

 

36木曾海道六拾九次之内 宮ノ越(広重)

「らっぽしょ」祭りの帰りとする観手が多い。木曾義仲が挙兵、近江で戦死、ここの徳音寺に墓がある。

前景を線描し、中景、遠景を面描した達者な技法が目を引く。

宮ノ越宿(分間延絵図)

福嶋宿へ1里28丁。家数140軒余。本陣・脇本陣各1軒。旅籠21軒。

木曽川の一郭に「巴ヶ淵」。義仲伝説にはこと欠かない。

(11.6)一里塚跡は、江戸から68里、京都へも6ゆ里の距離にあった。(くまごろう)

37木曾海道六拾九次之内 福し満(広重)

幕府直轄領で、福島関所があった。木曾代官の山村氏は、長谷川平蔵のころに町奉行を勤めていた信濃守良旺 (たかあきら)と同族だろうか。平蔵の亡父・宣雄が京都西町奉行在任中に病死、その後任として赴任もしてきた幕臣である。 平蔵の後ろ盾の一人ともいえる。

福嶋宿(分間延絵図) 

上ヶ松宿へ2里半。家数160軒余。

(4.24)木曾福島は代官の陣屋町、宿場町、職人町として栄え、木曾谷の中心であった。(くまごろう)

とくに木曾駒の馬市のときは賑わったという。

 

38木曾海道六拾九次之内 上ヶ松(広重)

描いているのは木曽川八景の一つ、「小野の滝」。瀑布後の流れが鉱物質の形状で並んでいるのも新鮮というか独創というか。

 上ヶ松宿上(分間延絵図) 

須原宿へ3里半。宿場6丁20間余。家数300軒余。

玉滝川を遡ると、御嶽神社へ至る。信仰を広めた修行者の一人に、武野国秩父郡大滝村の並寛がいる。大滝村は、密偵おまさの亭主となった 〔大滝(おおたき) 〕の五郎蔵の出生地の一候補。

(4.25)上松宿は材木の集積地として栄えた。尾張藩上松材木役所跡はその名残である。秋田の杉林、 青森のヒバ林と共に日本三大美林とされる木曾の檜であった。木目が通り緻密で美しい光沢とともに風雪に耐えた強さを持つ檜。(くまごろう)

 

 第10日目

上ヶ松宿発。

39木曾海道六拾九次之内 須原(広重)

描かれているのは、須原宿の手前の鹿島祠(やしろ)で雨宿りをする旅の人びと。虚無僧あり、六部あり、巡礼あり、駕籠かきあり。 広重を「霧と雪と雨の芸術家」と呼んだのは米国婦人メリー・マックネイルさんだった。激しい雨脚のにわか雨。

須原宿(分間延絵図)

野尻宿へ1里30丁。宿場4丁。

『木曽路名所図会』は「土産紫綿(しめん)、この辺の諸村蚕(かいこ)を養(か)う事多し」という。

宿場の出入口が鍵型になっているのは防衛上と。なんだか映画『七人の侍』を連想。

野尻側への出入口を出てすぐの橋場村に、英泉描くところの伊奈川橋と岩出観音堂がある。

40木曾街道 伊奈川橋遠景 野尻(英泉)

切り絵のような描法。「野尻」と題されているが、距離的には「須原宿」に入れるべきか。

 伊奈川橋(分間延絵図)

絵図の中央からやや右寄り、木曽川の方へ曲る道の手前の橋がそう。『木曾路名所図会』はいう。 (いにしは二十七間にして閣道(かくどう)なり。両岸より大木をさしはさみ、三重中間(ちゅうげん)大水に架(わた)す、最も壮観たり。 後世石を畳みて岸とし縮めて十六間とす)。

(4.26)往時とは周りの状況がすっかり変わっているかも知れないが伊奈川橋が、 かなり誇張されて描かれているように想われた。(くまごろう)

野尻宿(分間延絵図) 

三富野へ2里半。宿場5丁14間。家数120軒余。

野尻という宿場名は、次の宿、木曾川の両岸へ広がった三富(留とか、渡とも書く)野の野の端---とおもったが、 三富野の村名の由来は、木曾氏一系の館「御殿(みとの)」によると。

 [5-5 兇賊]p187 新p195に登場する〔網切(あみきり)〕の甚五郎配下の〔野尻(のじり) 〕の虎三を、越中国砺波(となみ)郡野尻野村の生まれとしたが、池波さんの脳中にあったのは、この「野尻宿」だったかも、 とおもいはじめているる。

 

41木曾海道六拾九次之内 三渡野(みとの)(広重)

広重も、やはり、やや広めの田畑を描いている。左手遠景の白く省略された三渡野の里の屋根が不思議な効果をあげている。

三留野(みとの)宿(分間延絵図)

妻籠(つまご)宿へ1里半。宿場・南北に2町半。

脇本陣の西尾家とは、ぼくは無関係。わが家は因幡国鳥取城下のはずれの宇部村の出と聞かされている。

 

42木曾海道六拾九次之内 妻籠(つまご)(広重)

いまなら、復元された妻籠宿の家々を描くだろうが、これは、宿場の手前の神戸(ごうど)と恋野(こいの)の間の峠の風景とか。

兵庫県・神戸(こうべ)ニ中からきた陸軍幼年学校のクラスメートで、のちに高校の教師をした恋野くん。先祖がこの恋野村出かも。

妻籠(つまご)宿(分野延絵図)

馬籠宿へ2里。宿場3丁。

明日は、馬籠峠越え。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

投稿者 nishiot : 2007年01月12日 06:21

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コメント

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投稿者 vlekzjd yzuscnd : 2008年11月29日 23:49


泉鏡花の小説が忘れられず、奈良井の宿には一度泊まってみたいと思っていますが、この中山道の中では名物・鶫料理を食べただろうなあと想像がやみません。
今は行っても禁鳥で食べられないですからね。

投稿者 豊島のお幾 : 2007年02月02日 16:28


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投稿者 nishiot : 06:21 | カテゴリー : テーマ画廊 /テーマ篇 /中山道(木曾街道)六十九次 | コメント (2) | トラックバック (0)