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2007年01月06日

3007中山道(木曾街道)六十九次 広重・英泉&延絵図(その1)

江戸と京都をま結ぶ2つの街道のうち、中山道(木曾街道)六十九次(533km 135里丁8間)の踏破を試みる。

風景画は、英泉・広重『木曾街道六十九次』 (集英社版)

絵図は、道中奉行製作『中山道分間延絵図』 (東京美術刊)

塗り絵は、秋里籬島著『木曾路名所図会』と、長谷川雪旦画 『江戸名所図会』の挿絵。

さらに、参謀本部陸地測量部の20万分の1地図。

そして、中山道を完歩した上尾宿のくまごろうさんの旅手記から抜粋--- と準備万端をととのえて、30日近い旅へ。

 

第1日目

木曾街道六拾九次 続の壱 日本橋雪之曙(英泉)

中山道への第一歩は、日本橋北詰から。東海道を行くなら南詰からスタート。

中央の唐傘の「池仲」「伊勢利」は板を引きついだ版元。初手は、「霊巌島」「竹内」だった(広重の『東海道五十三次』 を企画した版元の一つ)。

1日半分の行程  上尾宿←大宮宿←浦和宿←板橋宿←日本橋

(4.11) 日本橋北詰から歩き始める。本郷追分一里塚は日本橋から1里の距離にあった。一里塚は、日本橋を起点とし、 一里ごとに塚を築き、榎を植え、街道を行く旅人の里程の便に供したものであった。(くまごろう記、)

 

駒込(本郷)追分(分間延絵図)

本郷通りから来て、東大農学部前で左が中山道、直進は日光街道御成(おなり)道。ゆったりした坂をのぼると左手に小石川白山権現社。

 小石川白山権現社 塗り絵師:ちゅうすけ

この先が、鶏声ヶ窪(けいせいがくぼ)。幕臣・近藤重蔵の屋敷跡だと、作家・逢坂 剛さんが強調された。逢坂さんには『重蔵始末』 (講談社文庫)ほか3冊の重蔵シリーズがある。

巣鴨村(分間延絵図)

鬼平の従兄弟で、巣鴨の大百姓・三沢仙右衛門邸は、右端あたりの道を下へさがった巣鴨本村。

(4.29) [巣鴨から戸田橋]に参加。真性寺、とげぬき地蔵の高岸寺、巣鴨庚申塚、平尾一理塚、近藤勇供養塔、東光寺、観明寺、 遍照寺、板橋本陣跡、縁切榎、志村一里塚、清水薬師などのを訪ねた。(くまごろう記)

江戸六地蔵の一つ、巣鴨の真性寺は左手。

 巣鴨 真性寺 塗り絵師:ちゅうすけ

右手の高齢者の銀座の中心、高岸寺は上野から越して来たもので、江戸時代には見えなかった。その先が立場---巣鴨の庚申塚。 立場は宿の入出口にあり、馬子や旅人の休憩所だ。

 巣鴨 庚申塚 塗り絵師:ちゅうすけ

 

01木曾街道 板橋之駅(英泉)

板橋は平尾(下)宿、中宿、上宿からなっている。当時は、日本国中、京都に近いほうが上(かみ)。反対側が下(しも)。

(4.29) 近藤勇供養塔は新選組の生き残りである永倉新八よにって建立されたもの。平尾一里塚辺りで処刑され、 首は京へ送られ胴以下が埋葬されているという。(くまごろう記)

 板橋宿 塗り絵師:ちゅうすけ

石神井川に掛かっている板橋が宿名のゆえん。左が仲宿、右が上宿と見る。仲宿側の川沿いに右へ行くと[13-6 一本眉]で、〔清洲 (きよす) 〕の甚五郎一味が制裁を加えに襲った旅籠〔岸屋〕があった。

 

板橋宿(分間延絵図)

江戸日本橋へ2里6丁。蕨宿へ2里8丁。

板橋をわたると、縁切榎。有吉佐和子さん『和宮様御留』(講談社文庫)が京から下嫁されたとき、縁起をかついて莚で覆ったと。

 左手の京側から小豆沢(あずさわ)村、蓮沼村、前野村。

志村坂上の現存する一里塚。日本橋から3里。

清水薬師 清水坂(『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

板橋区によって再現された[薬師の泉]の傍らに(2007年)2月下旬にもう咲いていたアシビ(馬酔木)の淡紅色の花。

蓮沼村は、[21-4 討ち入り市兵衛]の[蓮沼(はすぬま) 〕の市兵衛の出身地ともかんがえられるか。

志村

 

 古川丸池 蓮沼村・根葉村入合

 

02木曾街道 蕨之駅 戸田川渡場(英泉)

 戸田川は荒川でもある。

(5.4) この川の平水時の川幅は、55間程度(約100m)で合ったが、 カ大水が出ると、1里(4km)にも広がって、渡船は不可能になつたという。(くまごろう)

戸田川

 戸田川渡し 羽黒権現宮 塗り絵師: ちゅうすけ

蕨宿(分間延絵図)

浦和へ1里14丁。宿場8丁。家数30O軒余。

 焼米坂 塗り絵師:所沢のおつる (鬼平熱愛倶楽部)

(5.4) 焼米は籾のままの米を焼き、それを搗いて殻をとったものだそうな。ここの茶店の名物で、 旅人の携帯食となった。調(つき)神社は延喜式内の古社で、創建は奈良時代以前とされている。武蔵国の御調物(みつぎもの)(年貢) はここに集荷され、東山(とうさん)道を経て朝廷に届けられたという。その後、調(つき)の名が月(つき)信仰と結びつき、 境内の入口に狛犬の代わりに兎が安置された。(くまごろう記)

 調神社 塗り絵師:ちゅうすけ

学習院生涯学習センター[鬼平]クラスでともに学んだ新兵衛さんが、調神社へ詣でたリポートは、http://homepage1.nifty.com/shimizumon/board/index15.html

 

初泊まりの浦和宿へ。

支蘇(きそ)路ノ駅 浦和宿 浅間山遠望(英泉)

浦和宿(分間延絵図)

大宮宿へ1里10丁。京へ129里28丁。家数300軒余。幕府直轄領。

日に、女は7里(28km)、男は10里(40km)を歩くものとされているが、なにしろ初日、ふくらはぎがばんぱんにはっている。 宿でさっそくに風呂につかってほぐす。

 

 予備日

(実は今日は、静岡の〔鬼平〕クラスへ出講に出かけなければならないので、あれこれの画像を操作するのは、 ちょっと無理かとおもったので、予備日ということにして。

文化7年(1810) ---長谷川平蔵が活躍していたころに旅をつづけ、 平蔵が逝ったあとすぐに体験をまとめて上梓した八隅蘆菴(ろあん)  『旅行用心集』  (八坂書房復刻 1972.2.20)のサワリの部分を現代語に直してご紹介しよう。 

[道中用心61ヶ条]

 一. 初めて旅立ちの日は、足まわりにとくに注意する。草鞋の加減などをよくよく確かめ、歩き出しの2, 3日は無理をしないで、ところどころで休憩して足を休めてやり、足を痛めないようにする。

   出立の当座は、たいていの人は心がはやって、休みもせず、荒く踏み立てるものである。足を痛めてしまうと、 あとあとまで難儀することになる。とにかく、旅立ちの当座は、足を大切にするのがなによりも肝要。

(ちゅうすけ付言)草鞋は、いまでいうと靴。足によくなじんだ歩きやすい靴を選ぶべきだ。 おろしたての靴は避ける。

一. 旅行中に所持すべきものは、懐中物のほかは、なるたけ少なくする。品数が多ければ忘れ物も出やすく、 かえってわずらわしいものである。

一. 駅舎(はたごや)へ着いたら、まず第一に東西南北を聞き確かめる。つぎには、建物の全体図、雪隠(せっちん)、 裏表の出入り口などはぜひ検分しておきたい。近火、るいは盗賊、または同宿人の喧嘩などがあったときのためである。

一.道中を初めて知り合った輩(ともがら)、馬、駕籠、人足に用があったら、良いのちに宿の亭主に直接予約を頼むこと。 直接交渉したのでは、途中で困ることも出来(しゅったい)しないともかぎらない。

  帳面ある人は到着した時に、宿のものへ渡して頼むこと(*貴重品の類か?)。明朝の出立の時間も宵のうちに宿側へ伝えておく。 それに間に合うように自分で起床する。もし、宿の者が起きていなければ起こし、膳がはこばれてくる間に支度を整え、 草鞋を履くばかりにしておく。それぐらいでないと、人馬の用意も自然とルーズになって手間取り、段取りが悪くなるものである。旅行中は、 貴賎ともこの作法を守らないと、スムースにことが運ばない。

一. 朝はせわしなくて、持たねばならない物を持ち忘れることが多いから、宵のうちによく調べて、用不用の心組をして風呂敷に包み、 取り散らかさないように心がけよう。足袋は寝床の中で履くほどに手廻しよくしないと、朝が遅くなる。朝が遅いのは一日の遅れとなってしまう。

一. 旅宿は定宿はもちろんだが、その道筋は初めてで不案内ならば、なるたけ家作の立派なにぎやかな泊屋を選ぶ。少々高めでも、 それだけの益があるものだ。

一. 旅行仲は暑寒をうまくしのぐように考えよう。とりわけ暑中は人の脾胃(ひい)がゆるんでいて食物の消化力が落ちている。 だから知らない魚鳥貝類、筍、キノコ、瓜、西瓜、強飯(こわめし)の類を食いすぎないように。夏は食傷より霍乱(かくらん) などをおこして難儀にいたることがある。春秋は夏に準ずると心得ておこう。

一. 空腹だからといって、道中では飽食は禁物。早飯もよくない。静かに食すべし。空腹がすぎると、心(しん)が疲れいるから、 飽食をするとたちまち気をふさぎ、または急病になることもある。

一. 空腹時に酒はダメ。食後に飲むべし。暑寒ともにあたためてのむべし。

一. 道中では焼酎をむやみに飲んではいけない。中(あた)る人がままいる。上製のものなら少々はさしつかえない。もっとも。、 夏のうちの霖雨(ながあめ)、または湿気の多い土地などでは、焼酎や泡盛は少々なら湿毒をはらうものである。しかし、秋冬はどうだろう。

一. 空腹なら風呂へは入らない。食後でもしばらく腹気を和(か)して入るといい。そうはいっても、 宿泊客が多くて後の人にさしつかえるので、空腹でも入らないといけないときは、まず、足に何回も湯をかけてから風呂へ入る。しかし、 長湯は避ける。空腹だと湯気にあがりがちなものだから、注意すること。

一. 相宿(あいやど)で風呂へ入るのは、宿側の案内にしたがって入るのだが、 宿屋が取りこんでいて 客の順番を取り違えることもある。相客をよく観察して、その中に貴人がいたら、そちらに先をゆずる。 これだって順番を間違えると争いのタネになることがある。旅では万事を控え目にしておけば、益することが多い。

一. もうすっかり草臥れたときは、熱めの風呂に長めに入ると草臥れがとれる。そのときは顔をたびたび洗ってはいけない。 顔をたびたび洗うと逆上することがあるからである。

一. 普通の旅で、それほどに急ぐことがなければ、夜道はぜったいしてはいけない。総じて旅というものは、 9日で行けるところは10日で行くようにすれば、夜道を行くなんかよりも益することが多い。また、川越(かわこし) などの都合があるときは斟酌すること。

 一. 道中は色欲はできるだけ慎むこと。売女は湿毒持ちが多い。暑中はもっとも感じやすい。怖るべきことなり。また、 宿屋の夜具で湿(皮膚病など)をうつされるけることもあるから、香気ものを懐中にもっていてその湿邪をさけるといい。

 *61ヶ条中、13ヶ条を訳しただけで時間がきてしまった。のこりは、69次のおりおりに。

 

 第2日目

浦和宿を五つ刻に発つ。

(10.21) 浦和宿では、玉蔵院、浦和本陣跡、御鷹御殿などに立ち寄る。(くまごろう)

歩き始めは重かったふくらはぎも、針ヶ谷村に入ったあたりで軽くなってきた。

 針ヶ谷村

[7-3 はさみ撃ち]で、本郷1丁目の薬種屋〔万屋〕の女房おもん(31歳)を、 湯島天神下の茶屋〔桐や〕へ連れこみ、ものにしてしまった女だまし専門の盗人---〔針ヶ谷〕の友蔵(30歳)が生まれた家は、 脇道の先あたりかも。

「針ヶ谷村から大宮までは、一面の原で大宮原とか氷川原とか呼ばれていた」(児玉幸多『中山道を行く』中公文庫)

氷川原の名のとおり、右手に氷川明神社の一の鳥居が見えてきた。

街道のとっかかり右手に氷川明神社(現・氷川神社)の一の鳥居(右端)と参道。が、大宮宿からお参りへ行くことにする。

大宮宿(分間延絵図)

上尾宿へ2里。家数320軒ほど。 上部、右から斜めに続いている並木(欅?)が氷川明神社の参道。

左上の池のある一帯が氷川神社の神域。

 大宮氷川明神社 塗り絵師:ちゅうすけ

(10.21) 旧中山道が氷川神社の参道を通っていたことも初めて知った。参詣した。 神社の歴史は古く、創建は紀元前4世紀頃とされている。

児玉幸多さん『中山道を行く』に「出雲国簸川(ひのかわ) の杵築神社を勧請したので、氷川神社と名づいた」とある。

延喜式の神名帳に記されている由緒ある神社である。8世紀頃には 「武蔵一宮」と定められた。徳川家康は朱印領300石を寄進。 (くまごろう)

お守りには「武蔵一宮 氷川神社」と。]

 

有吉佐和子さん『和宮様御留』(講談社文庫 1981.7.15)は、文久元年(1861) 11月14日、板橋宿の本陣〔いせや〕で、和宮の偽女フキとこれも偽宮様・宇多絵とのすり替えがおこなわれたことになっている。 大変なロマネスク。

巻末解説の篠田一士さんは、この作品のテーマは、そうしたすり替えの史実の真偽にあるのではなく、 公武合体を仕組まざるを得なかった時代背景と、それに携わざるを得なかった人物たちの苦悩を描くことにあったと。

まあ、読み方はいろいろ。単純な読み手としては、偽女であれ、 彼女が経てきた中山道の宿場の数々での和宮の行動のあれこれを楽しみたい。

東光寺の史跡を訪ねた。「熊野の威光を関東に輝かせる」という寺号だそうな。(くまごろう)

 

 

 

 

 

 

大宮 東光寺 塗り絵師:ちゅうすけ

 

04木曾街道 大宮宿・富士景色(英泉)

大宮宿を出たあたり、左手の景色である。

三田村鳶魚(えんぎょ)が『捕物の話』(中公文庫)の[火付盗賊改]の章、〔人足寄場〕の項に、 長谷川平蔵を取り上げて、

「長谷川平蔵、この人は天明7年(1787)8月(史実は旧暦9月2日)から本役になって、8年の7月(史実:寛政2年 1789) に人足寄場を拵え、そうして寛政7年5月まで勤めておりました。加役の方で1年(史実:半年)勤めましたから、前後9年勤めた人で、 火付盗賊改として一番長い勤続者だったようです。 この平蔵の捕物としては、いろいろ名高い話がありますが、寛政元年(1789) 3月に、関東・東北十余国を荒らして、八百人の部下があるといわれた神道(しんとう)徳次郎を取り抑えた。これでなかなか知られております」

神道(新稲とも、真刀と)小僧が長谷川組に捕らえられたのは、大宮宿はずれのお堂にひそんでいるところだったというから、 このあたりだ。長谷川平蔵が村々へ流した、「火盗改メがくる」という囮情報に、神道小僧一味は逃げまくった。 恐怖にかられた手下たちは2人去り、5人去りして、大宮宿はずれのお堂に潜んだときはわずかに5人。

出役してきた長谷川平蔵は、神道小僧のぼろぼろの衣装を見、「大泥棒といわれたお前さんが、その装(なり)で入牢したんでは、 格好がつくまい」といって、自腹3両で派手々々の衣装を買い与えた。

「間もなく死罪になる者に、益なきことを」という組下に、平蔵は「兇悪な神道小僧さえ、あのような扱いを受けたとのなら、 と自首者が出てくれば、捜査コストが助かるではないか」

 

05木曾街道 上尾宿・加茂之社(英泉) 

上尾宿の手前の加茂宮村に加茂明神社。

(11.4) 上尾の市民なのに、賀茂神社が京都上加茂神社を勧請した由緒ある神社であることも、 その先に南方(みなかた)神社があることも知らなかった。

「お鍬さま」と呼ばれる氷川鍬神社は毎年、初詣に訪れる、お馴染みの神社である。

入り口脇に[中山道上尾宿と本陣]の案内板があるが、迂闊にも、その存在に、これまで、全く気づかなかった。(くまごろう)

加茂明神社の奉納幟の右端---「いせり(伊勢利)」は、初刷では初手の版元「竹之内板」だった。買いと取ったのが〔伊勢屋利兵衛〕

上尾宿(分間延絵図)

桶川へ30丁。宿9丁。家数200軒余。

「上尾宿」の表記真下の大屋敷が本陣・井上五郎右衛門。街道の真向い奥(左側)の鳥居は、 総鎮守の鍬大神宮のもの。

(6.13) 上尾宿は旅籠が多く、天保14年(1843)で41軒、宿場女郎である「飯盛(めしも)り女」も大勢いて宿場は結構、 賑わっていたそうな。(くまごろう)

門前の茶店で昼食後、桶川宿へ。

 

06岐阻(きそ)街道 桶川宿・昿原之景(英泉)

桶川宿の北の昿原(こうげん)を描いている。

桶川宿(分間延絵図)

鴻巣へ1里3O丁。宿場12丁余。家数400軒余。

桶川臙脂(えんじ)と呼ばれる紅花や、武州藍産地として栄えた。その紅花の大半は中山道を通って京都へ運ばれたという。(くまごろう)

平岩弓枝さん『御宿かわせみ』(文春文庫)[2-1 江戸の子守唄]で、 置き去りにされた女の子が着ていた肌着を染めた紅花は出羽国産だった。

桶川宿の本陣職は府川家が勤めた。本陣跡には大きな門があり、明治天皇行在所(あんざいしょ)の石碑が立っている。皇女和宮 (かずのみや)は江戸下向時に、ここに宿泊している。上段の間、座敷、湯殿などが現存しているという(くまごろう)

 

鴻巣宿(分間延絵図)

熊谷へ4里丁40間。

(7.1) 鴻巣宿は江戸時代、雛人形の産地で、江戸の十軒店(じっけんだな)、武州の子越谷とともに、 関東三大雛市として栄えたところ。京都伏見の人形師が移り住んだという。(くまごろう)

鴻神社は古くからあった鴻3社(氷川社)、熊野社、竹ノ森雷電社)を合祀したもので、鴻巣宿゛の総鎮守であった。「鴻の宮」 や鴻巣の命名の由来とされる境内の「木の神」の大樹と、「こうのとり」と「大蛇」にまつわる「こうのとり」伝説に、 宿場の歴史と伝説を偲んだ。(くまごろう)

鴻巣宿から2里近く北上した前砂村。

[1-5 老盗の夢]で、京から下ってきた〔蓑火(みのひ) 〕の喜之助が、助っ人を求めて、鳥越・松壽院前の花屋へ〔前砂(まいすな) 〕の捨蔵を訪ねる。捨蔵は〔夜兎(ようさぎ) 〕の角右衛門の右腕だったが、いまは盗人宿の番人。この捨蔵の生まれたのがこの村落かも。もっとも、村名の読みは(まえすな)。しかし、 岸井良衛『五街道細見』(青蛙房)は(まいすな)とルビをふっている。池波さんはこれに拠ったのであろう。

07岐阻(きそ)街道 鴻巣宿・吹上富士遠望(英泉)

「前砂村」の次の「吹上村」は間(あい)の宿(しゅく)。熊谷宿までほぼ2里。午後から4里20丁(19km)ほども歩いたし、 あちこち寄り道してすっかり時間をとられたので、、今日はここの旅籠〔梅屋]に1泊。

 

第3日目

行程(その2)

高崎城下←倉賀野宿←新町宿←本庄宿←深谷宿←熊谷宿←鴻巣宿←桶川宿 上へ 

                  

                                      これまでの行程 (1) 

                                        上尾宿←大宮宿←浦和宿←浦和宿←板橋宿←日本橋 上へ

 

 08岐阻(きそ)道中 熊谷宿・八丁堤(英泉)

熊谷宿の手前、荒川左岸の土手伝いの終着点---佐田八丁村のとっかかりの茶店を描いている。

(10.8)この立場茶屋は〔みかりや〕。(くまごろう)

行灯看板の文字は「あんころ」「うんとん(うどん)」

熊谷宿(分間延絵図)

深谷へ2里27丁。宿場15丁。家数1000軒余。

児玉幸多さん『中山道を歩く』(中公文庫 1988.10.10)は、

「中山道では本庄に次ぐ戸口であった。ここからは忍(おし)や行田(ぎょうだ)への道、足尾銅山・秩父゜山への道などが分岐し、 ことに松山町への道は相模街道と呼ばれ、鎌倉へも通じた。中世にはいざ鎌倉といえば、武州・上州の武士たちが駈けて通ったところ」

「いま熊谷市に鎌倉町通りという繁華街があるのはその名残りであろう」と紹介。

 

(9.18) 創建1000年の歴史を刻む高城神社は坂東武者・熊谷直実(なおざね)の氏神であり、 直実の墓のある熊谷寺は「くまがや」でなく「ゆうこく」と読む。

愛読中の吉川英治著『親鸞』(六興出版)に登場する坂東武者でありながら、信仰心に篤く、法然に師事した浄土僧・ 熊谷蓮生房こと熊谷直実のことも、頭をよぎった。

生涯学習として取り組んでいる「中山道」と「漢検」と「通信教育・仏教」が奇しくも重なった場面であった。(くまごろう)

 写真は吉川英治時代小説文庫(講談社 1990.9.11)

 

深谷までの間にある久保島村が、長編[22  迷路]に登場する盗賊〔久保島(くぼしま) 〕の吉蔵の出身地と想定しているのだが。同篇で同心・沢田小平次と密偵・彦十が深谷まで出向く。その手前にあるのが久保島村。

別の道で、久保島の位置にあるのが玉井村(街道から上側)。ちょっと興味があって、稲荷に赤○を貼ってみた。右から二つ目の1の 〔一ッ目稲荷〕ともで、なんと6社。黄○は浅間社。

高柳村(街道の下側)f、緑○は神明、青○は八幡宮(2は新堀新田八幡宮)。

[22  迷路]p324  新装版p307<br>

いずれにせよ、明日は、すべての人びとが深谷の手前にある国済寺(こくさいじ)へあつまる手筈になっていた。

国済寺は深谷の東方半里のところにある。

彦十とともにお松を深谷まで尾行してきた同心・沢田小平次が、

「彦十。此処は江戸とはちがう。一時も早く、盗賊改方の根城(ねじろ)を設(もう)けておかぬとだめだ」

こういって、国済寺へ行き、身分をあかしてたのんだところ、

「どのようにも、おつかいくだされ」

と、いってくれたそうな。

岸井良衛さん『五街道細見』(青蛙房)は、 この企画のように江戸から京への行程順に記述された有用な手引書。ただ、 所有している再版本(1959.3.15)では、 深谷宿の手前「国済寺村」を「普済寺村」と誤植している。たしかにまぎらわしい。

秋里籬島『木曾路名所図会』は、普済寺は「岡部村」にあると解説。その 「岡部村」はこの記事流にいうと、深谷宿のほぼ1里先、本庄宿との中間にある。

池波さんも『五街道細見』は座右に置いていたはずで、版元をたしかめたら、いつの版からか、国済寺に正すされていた。

 遅めの昼食は、いまは深谷市となっている国済寺村でとった。

 

09岐阻(きそ)街道 深谷之駅(英泉)

繁盛していた深谷には、飯盛り女が多かったらしい。彼女たちのご出勤風景。なんと、この置屋の行灯文字は版元〔竹之内〕?

深谷宿(分間延絵図)

本庄へ2里25丁。宿場18丁。家数700軒余。

前記の普済寺だが、『中山道分間延絵図』は解説篇に、「岡部村」の先に「普済寺村」を置き、「もと岡部村のうちであったが分村し、 村内の普済寺を村名にあてた」と記す。手元の『五街道細見』は『木曾路名所図会』に拠ったのだろう、「岡部村」だけで「普済寺村」 は立てていない。

(10.12) 普済寺の樹齢700年の2本の榧(かや)の木も印象的だった。(くまごろう)

本庄宿(分間延絵図)
新町へ2里。宿場18丁。家数1200軒余。

(10.16)本陣2、脇本陣2、旅籠70、飯盛り女100人以上を擁した。京に近い大津宿に次ぐ道中最大規模の宿場。(くまごろう)

下仁田街道が分かれる。新町の手前の神流川が、武蔵国と上野国の境界。今日は、ここの旅籠泊まり。 

 

 第4日目

本庄宿を発つ前に、安養院の木食普寛行者(もくじきふかんぎょうじゃ)のは墓へ。

(10.16) 木食普寛行者は木曾の御嶽山を霊山と崇める御嶽講の祖といわれ、普寛霊場では毎年、 祭礼が行われ全国各地から修験者が坂パイ、修行に訪れる。(くまごろう)

10岐阻(きそ)路之駅 本庄宿・神流(かんな) 川渡場(英泉)

(10.16) 埼玉県と群馬県の県境に架かる神流川を初めて渡った。「神流川渡場」は川の流れが常水の時は橋を架け、 出水の時は舟で渡り、川幅20間余の時は川留めとなったという。また、川の流れがよく変わるため両岸に常夜灯を設置した。(略) 英泉描くところの本庄宿はその「神流川渡場」が描かれている。川の中州までは橋が架けられ、 中洲から新町までは舟渡しとなっている情景が描かれている。(くまごろう)

11木曾海道六拾九次之内 新町(広重)

新町宿の北はずれ(下の絵図の左端)、温井川(ぬくいがわ)に架かる弁天橋を遠望、描画。左の富士に似た山は赤城山。

新町宿(分間延絵図)

倉賀野へ1里半。宿場9丁半。家数400軒余。

新町宿は、落合村(絵図・左半分)と笛木村(同・右半分)が伝馬役を申しつかってできたという。そういえば、かつて、 某PR会社に笛木姓の品のいい女性がいて、スイス高級時計ブランバン担当だった。実家は群馬県と聞いたような記憶がある。笛木村の村長 (むらおさ)の子孫だったのかも。

(11.7) 「幕府天領50万石、水陸交通の要衝 新町宿から倉賀野宿」に参加。(略)於菊(おきく)稲荷は神流川合戦時、 小田原北条軍が戦勝祈願をした「遊女・お菊」にまつわる神社であった。(くまごろう)

 

 

岩鼻村陣屋(分間延絵図)

関東郡代だった伊奈氏が改易され、勘定奉行直轄となり陣屋がおかれて訴訟もあつかったので、郷宿や茶店もできた。右端は烏川(別名: 柳瀬川)。

12木曾街道 倉賀野宿・烏川之図(英和泉) 

[2-7 埋蔵金千両]で、〔小金井(こがねい) 〕の万五郎のいいつけで、信州・上田へ〔加納屋利兵衛〕こと〔須川(すがわ) 〕の利吉を迎えに行くおけいは、柳瀬川を舟でわたっている時に、考えを変え、さっさと江戸へ引き返して、 小金井の貫井橋の南のお堂のそばに埋めてある万五郎の千両をさっさと掘り出してわがものとした。

倉賀野宿(分間延絵図)

高崎城下へ1里19丁。日光例幣使街道が分岐。

ここで、昼食。

13木曾海道六拾九次之内 高崎(広重)

高崎城の外堀ともいえる烏川岸を描いている。

 高崎宿(分間延絵図)

 板鼻へ1里30丁。城下30丁余。家数2500軒余。

8万2000石の城下町である。藩主・松平右京太夫輝高が勝手掛老中の権限で、地場産物の生糸・ 絹織物などの品質を改める改会所を設けようとした。閣僚だった田沼意次の二重課税になるとの注意にもかかわらず、 業者からの献金を受けていた輝高は強行しようとして、農民たちに一揆をおこされて頓挫。その次第が、佐藤雅美さん 『田沼意次 主殿の税』(人物文庫 2003.5.20)に書かれている。

増税に敏感に反応するのは、納税者の古今東西の本能みたいなものである。いっぽう、新しい税をひねりだすのが役人の習性であろうか。 税収入がないと行政はやっていけない。

高崎といえば、指圧医・中村宗仙から大坂の香具師の元締〔白子(しらこ) 〕の菊右衛門へ渡るはずの金子をくすねてこの城下町へ道場を開いた石島(いしじま) 精之進。彼を江戸から尾行した同心・酒井祐助もやつてきた。

 2006年4月1日に高崎市に合併して倉淵町となった土地の出身と思われるのが、〔倉淵(くらぶち) 〕の佐喜蔵

行程(その3)

 

塩名田宿←岩村田宿←小田井←追分←沓掛←軽井沢←坂本←松井田←安中←板鼻 右から

 

14木曾海道六拾九次之内 板鼻(英泉)

「馬をさへながめる雪のあした哉」 芭蕉の句に触発された画材といわれている。

板鼻宿(分間延絵図)

安中へ30丁。宿場10丁。家数300軒余。

 (12.5) 皇女和宮が泊まったという木島本陣跡の書院を見学した。和宮が身につけたもののほか、 和宮下向時の種々の史料が陳列されていた。(くまごろう)

 15木曾海道六拾九次之内 案中(広重)

実地検分した人の説によると、安中の先、というよりも松井田に近い郷原村に竹藪を茂らせた家が多いと。詩人で文芸評論家の知人・ 郷原氏の出生地かなあ。

安中宿(分間延絵図)

松井田へ2里16丁。宿場3丁40間。家数64軒。道は、ずっと、ゆるい坂。

安中出身のH氏のご父君が亡くなったとき、弔問に訪れたことがある。そのときはすぐお暇したから、今回は宿泊。

(3.26)安中城fは新発田から移った安中氏が築城した。(略)安中郵便局の前に本陣址の石柱が立っていた。(くまごろう)

 

 第5日目

安中の旅籠を六つ半(午前7時)に発つ。この街道の難関の一つ----碓氷峠を越えるのだ。

16木曾海道六拾九次之内 松井田(広重)

郷原をすぎて「琵琶の窪」、「逢坂」との間に、かつては「これより橋を渡って妙義へ」との道標(みちしるべ)があったらしい。 遠景は碓氷峠か。

松井田宿(分間延絵図)

軽井沢へ2里15丁。宿場6丁16間。家数300軒余。

京から下って来た旅人は、中山道最大の難所である碓氷峠と碓氷関所を無事、越えて松井田に入るとほっと一息つき喜んだという。 米や物資の中継地としても賑わい「米宿」とも呼ばれた。(くまごろう)

五料茶屋本陣は名主役を勤めた中島家の居宅で、「お西」と呼ばれた本家と「お東」と呼ばれた分家の2軒が、その任に当たっていた。 (くまごろう)

この宿と坂本宿の間にあったのが横川の関所---通称「碓氷」の関所。『雲霧仁左衛門』の実話のといわれているほう---『大岡政談』 に載っている関所抜けは、ここの関所だったっけ? 違った?

松井田を出ると、すぐに新堀村。ここから奇怪な山塊の妙義山道がくっきりと望める。絵図の中央下がそう。

 

 17木曾海道六拾九次之内 坂本(英泉)

刎石山(はねいしやまの)が俯瞰しているような坂本宿。碓氷の関所から10丁ほど。道の中央を流れるのは馬のための用水。

坂本宿(分間延絵図)

軽井沢へ2里30丁27間。宿場392間。本陣2、脇本陣2、旅籠40余軒。

きれいに規格化された家並の姿が、正確に描かれている。

(4.17) 坂本宿入口の「下の木戸」から出口の「上の木戸」の街道筋には、金井、佐藤の両本陣、脇本陣、 旅籠の屋号を掲げた民家が並び、その中を歩いていると250年前にタイムスリップしたような錯覚に陥ったものであった。(くまごろう)

                                   ↑曲りくねったあたりに虚空蔵堂

                                          ↑曲道の上は霧詰山

                                               ↑集落は山中立場

 

        ↑碓氷峠町

 関東平野を通ってきた中山道はここで初めて山に登ったわけで、標高1190メートルながら、 東方には妙義山など上州の山々を一望におさめることができる(児玉幸多『中山道を歩く』)。

そういえば、よく晴れた日には、高崎線も鴻巣あたりから、車窓のはるか地平のあたりに、箱庭の山を連ねたように、信州・ 上州の山々が淡い青色に見えてくる。

(4.18) 「めがね橋」「堂峰番所跡」「刎石(はねいし)の覗き」「弘法の井戸」「刎石立場(茶店)跡」「山中立場」「思婦 (おもう)石」「熊野神社」「見晴台」「ニ手(にて)橋」「ショー氏記念碑」「本陣跡」「軽井沢の一里塚」などの史跡ほ訪ねた。 (くまごろう)

 

18木曾海道六拾九次之内 軽井沢(広重)

軽井沢宿の宿はずれらしい。手前の樹は杉らしい。遠景は愛宕山。

軽井沢宿(分間延絵図)

沓掛(くつかけ)宿へ1里5丁。宿場7丁。家数130軒。

(4.18) 全長、8キロにおよぶ峠越えであった。(略)結果的に険しい急峻もなく、割りとおなだらかな傾斜の尾根道で救われた。 (くまごろう)

『木曽路名所図会』はいう。「たいらかなる広野なり。寒きこと甚しくて五穀生ぜず」

茶店で一休みして、早々に 沓掛宿へ。

1

9木曾街道 沓掛ノ駅・平塚原雨中之景(英泉)

沓掛宿(分間延絵図)

追分へ1里3丁。

(5.1) 江戸へ38里の「宮之前の一里塚」までは、右手に離山(はなれやま)を仰ぎながら、 カラマツの続く並木道を歩いた。(略)長倉神社には長谷川伸の戯曲の主人公・沓掛時次郎の碑があった。(くまごろう)

ちくま文庫(1994.10.24)は、『沓掛時次郎』『瞼の母』のほかに『関の弥太っぺ』『一本刀土俵入』『雪の渡り鳥』 『暗闇の丑松』を収録している。カヴァーの絵は安野光雅さん。

 戯曲『沓掛時次郎』は、沓掛生まれで渡世人になった時次郎が、下総で後家になった身重な女と少年と知り合い、 2人を守って貧しい旅の途中に、女は難産で死去、時次郎は渡世人暮らしに愛想つかしをして百姓に戻る---というのだが、さて、 五穀のできない沓掛でどんな農業をするつもりなのか。

今夜は、時次郎をしのびながら、沓掛宿泊まり。

長谷川伸師にエッセイ集『股旅の跡』(書物展望社 1937.11)がある。その冒頭が[『沓掛時次郎』雑考]で、 時次郎の出生地は中仙道(長谷川伸師は、中山道は嫌だと)の追分の手前の沓掛宿と。

横井也有の『鶉衣拾遺』の「岐岨路記行」に、延享2年(1745)の旅で、

日本橋-板橋  2里

板橋-わらび  2里10丁

わらび-浦和  1里8丁

浦和-大宮   1里12丁

大宮-上尾   2里8丁  6日上尾泊

上尾-桶川   1里

桶川-鴻巣   1里30丁

鴻巣-熊谷   4里8丁

熊谷-深谷   2里半12丁

深谷-本庄   2里29丁 7日・本庄泊り

本庄-新町   2里

新町-倉賀野 1里半

倉賀野-高崎 1里10丁

高崎-板鼻  1里30丁 8日板鼻泊り

板鼻-安中  30丁

安中-松井田 2里8丁 

松井田-坂本 2里8丁

坂本-軽井沢 2里半16丁

軽井沢-沓掛 1里5丁

沓掛-追分  1里3丁  9日・追分泊り

 

 

 

 

 

 

 

 

投稿者 nishiot : 2007年01月06日 11:18

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コメント

Good post.

投稿者 Louanna : 2008年12月05日 05:11


Thanks for writing this.

投稿者 Maree : 2008年11月23日 07:33


豊麻呂、靖酔さん、お気に留めいただき、恐縮至極に存じます。私の「中山道六十九次道中見聞記」が先生のブログ「大人の塗り絵」に多少なりともお役にたてれば、これに過ぐる喜びはありません。ありがとうございました。

投稿者 上尾宿のくまごろう : 2007年01月10日 05:54


うろ覚えの記憶ですが、あるカメラマンが風景写真を撮る時に人を入れると写真が生きてくるというような発言を耳にしたことがありますが、英泉はまさにそうですね。

どの宿の絵でも生活する人と旅人とを対比させて描き、風景を単なるきれいな景色と描くのではなく生活観のある絵にしてます。

投稿者 靖酔 : 2007年01月09日 06:22


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投稿者 nishiot : 11:18 | カテゴリー : テーマ画廊 /テーマ篇 /中山道(木曾街道)六十九次 | コメント (4) | トラックバック (0)