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2006年12月21日

3006東海道五十三次---広重&分間絵延絵図(4) 水口宿→京師

【第16日目】

土山の旅籠発つ。六つ半すぎ(午前7時半すぎ)。

30丁ほども行った2つ目の村「舞の」の茶店で、名物の甘酒で口をしめらせた。淡い甘さの中にかすかに生姜の香りがした。 旅人のための甘酒だ。

25丁先の「大の村」で、今夕の旅籠で賞味するため、狸の姿をした徳利詰の銘酒〔玉井〕を購う。 歩きはじめたばかりなのに気が早すぎると広重センセイに笑われたが、なに、旅はあと2日で終わるのだ、すこしぐらいははしゃがないと。

水口(みなくち)宿の手前の「栗林」の茶店で名物の〔しる粉餅〕を試す。

51水口(みなくち) 名物干瓢(かんぴょう)(広重)

いかに名物とはいえ、江戸まで、干瓢をもって旅するわけにはいかない。

水口(みなくち)宿(分間延絵図)

江戸から112里31丁。石部へ3里12丁。

旅籠の留女の引き込みを避けて、宿場外れの「馬場崎」村の旅飯屋で、名物どぜう汁で食事をすます。

水口の観光案内 

 

52石部・目川ノ里(広重)

単なる風景でなく、生活する人びとや季節寒器物をあしらうから、ふくらみと暖かさと親しみがわく。

石部宿(分間延絵図)

江戸から116里7丁。草津へ2里25丁。

『鬼平犯科帳』[13-1 熱海みやげの宝物]で、諸国を嘗(な)めてまわっていてた〔馬蕗(うまぶき) 〕の利平治に、お頭〔高窓(たかまど) 〕の久兵衛の死を知らせたのは、石部の旅籠で待ち受けていた〔横川(よこかわ) 〕の庄八だったと、利平治は彦十に語った。

そのとき、利平治は草津宿まで足をのばすつもりだったという。ぼくたちは、予定どおり、暮れなずむ陽のあるうちに草津を目指した。

湖南市石部町の観光案内 

 

53草津・名物立場(たてば) (広重)

 立場は、街道の宿場はずれにあり、人足が駕籠などをとめて休息したところ。草津のそれは規模が大きかったのだろう。

 

草津追分(『東海道名所図会』) 鬼平熱愛倶楽部 2029 むらい

 

 

草津宿(分間延絵図)

江戸から118里32丁。大津へ3里24丁。中仙道。守山へ1里半。

旅籠〔藤屋〕与左衛門方へ草鞋を脱ぎ、持参した銘酒〔玉井〕を燗してつけてもらう。なるほど、水がいいのがわかる。 いい水の湧く井戸がある

のだろう。

石山 蛍狩(『東海道名所図会』) 鬼平熱愛倶楽部 2021 靖酔

草津市の案内

明日はいよいよ、京師。

 

【第17日目】

 京までは6里24丁、少々寄り道をしても4刻(とき。8時間)、と胸算用。しかし、心はあせっているのか、六つ半すぎ (午前7時すぎ)には旅籠を発った。

「野地(のち)」で琵琶湖を眺望。東西8,9里(36km)。南北19里(76km)。その大きいことは海のよう。近江 (おおうみ)のゆえんだろう。

「瀬田の大橋」をわたるころには、影がみじかくなっている。まもなく大津。

大津宿(分間延絵図)

25丁、家数1500余軒もある大津の町中をすぎ、逢坂へかかる手前、名物の「走井(はしりい)」の茶店で腹ごしらえ。 「おのぼりさん、まるだしだね」と笑いあったが、いや、そのとおりの「お上りさん」。この店にお茶は、名水「走井」のもの。

草津駅(『東海道名所図会』)  鬼平熱愛倶楽部 2024 所沢のおつる

 

大津絵(『東海道名所図会』) 鬼平熱愛倶楽部 2020 茶木登茂一

 

54大津・走井(はしりい) 茶店(広重)

上方は牛、関東は馬---というが、広重センセイ、さすがに、ここで牛をだす。

これやこのゆくもかえるもわかれてはしるもしらぬも相坂の関 蝉丸

  走井の水(『東海道名所図会』)

塗り絵師: 豊 麻呂

御陵前(分間延絵図)

日の岡ともいうあたり。

日岡・蹴上の茶店(『東海道名所図会』) 鬼平熱愛倶楽部 2006 豊 麻呂

坂を下ってしばらく行くと白川橋。

ぼくたちの宿は、橋を渡り白川沿いに入った〔津国屋〕為吉方。なぜって、鬼平の定宿だから。[3-3  艶婦の毒] を読んでごらん。(『商人買物独案内』)

草鞋も脱がず、〔津国屋〕へ荷物だけ預けて、5丁ほど西の三条大橋へ。ここへこないと、広重センセイの五十三次の旅は終わらないのだ。

京師・三条大橋(広重)

『都名所図会』 三条大橋 彩色ちゅうすけ

[3-3 艶婦の毒]で、同心・木村忠吾が、40女のおたかと出合ったのもこの橋の上。おたかが忠吾を伴った料亭が赤○〔俵駒〕。 緑○の料亭〔いけ亀〕がすぐ次の篇[3-4 兇剣]にてでくることは、記憶力のよい読み手なら覚えているはず。(『商人買物独案内』)

で、ぼくたちは、五条大橋まで忠吾の足跡をたどってから、宿へ帰った。

『都名所図会』 五条大橋 彩色ちゅうすけ

五条大橋(分間延絵図)

さあ、明日からは、京の町を、それぞれ、ごゆつくり、お楽しみを。

祇園(『東海道名所図会』)  鬼平熱愛倶楽部 2019 みやこのお豊

白川筋ぞいの〔津国屋〕から北野天神裏の料理旅館〔紙庵〕まで、おたかと忠吾の後をつけたい方は、http://homepage1.nifty.com/shimizumon/board/index16.html

http://homepage1.nifty.com/shimizumon/walk/index.html (うち、 鬼平が女賊を尾(つ)けたコース)

 

ぼくは、『鬼平犯科帳』の撮影中なら、太秦(えずまさ)へ行くね。

スタジオ入りする忠吾(尾美としのり さん)

 

衣装の裾をからげてスタジオ入りする久栄(多岐川裕美さん)

出番の間を縫っておまさ(梶芽衣子さん)と記念撮影だ。

 

 

 

日本橋へ戻る  http://otonanonurie.image.coocan.jp/2006/12/3003.html

 

 

 

 

 

投稿者 nishiot : 2006年12月21日 07:21

コメント

54番「大津」
琵琶湖の南で北国街道との合流地である大津は古くから湖上交通の発着地でした。

絵の後ろには琵琶湖が見え,物資の集散地らしく荷物を満載した牛車が描かれています。

左側の溢れ出る走井の井戸は今は「月心寺」の境内にあります。


55番「京師」
江戸~125里20丁(約500キロ)
とうとう鴨川にかかる三粂大槁に到着いたしました。

無事に広重の「東海道五十三次」完歩
おめでとうございます。

道中は晴天ばかりではなく、風雨の日
冷たい雪の日、日照りの日、物騒な険しい山道、色んな旅がありましたが、当時の旅は厳しいですね。

この京三粂大槁を見て旅人はどんなにか安堵したことでしょう。

今夜の宿「津国屋」は浅い流れに切石の石橋のかかる白川そいです。

忠吾とおたかの逢瀬の道は既に散策済みなので、明日は「兇剣」の舞台「石清水八幡宮」へおまいりに行ってきます。

投稿者 みやこのお豊 : 2006年12月23日 01:07


 東海道五十三次の旅、お疲れ様でした

「妙な旅人心理で、東海道を十余日の旅程で上がって来た人々は、
たとえば、鹿ケ谷方面や鳥辺山方面へ行く目的をもっていても、三条
大橋を踏んでみなければ、気がすまないのであった。」
 と、これは柴田錬三郎のおなじみ眠狂四郎無頼控の一節。
人は、始めと終わりには、やはりこだわるので寸ね。
 
 楽しい旅をご一緒させていただき、有り難うございました。

 

投稿者 足立の山勝 : 2006年12月22日 20:39


長旅お疲れ様でした。鬼平の頃の東海道をいながらにして一巡りさせて頂いて、楽しかったです。当時はこれに半月かけたとは、不便なような贅沢なような、かなうことなら自分も同じ道中を同じペースで歩いて見たい気がします。

投稿者 エム : 2006年12月22日 17:12


53番 「草津」
草津は東海道と中山道の合流点,人馬の往来が多い。

この絵の中で目を引くのは、店のまえに「前曳き、後ろ押しと横に肩代わりの人足がつく」5人がかりの早や駕籠です。

急便を乗せて昼夜兼行で走ったのですね。

お店で売っている「うばもち」は今でも売っています。

投稿者 みやこのお豊 : 2006年12月21日 22:45


51番「水口」
肩肌脱いで歩いている旅人、夏の暑さが伝わってきます。

夏に収穫された干瓢は薄く削られて竹棹に紙テープの様に干します。作業する風景がよく描かれています。

水口には家光が京へ上洛する時将軍専用の宿として建てさせた「碧水城」がありますね。


52番 「石部」
「京発ち,石部泊まり」といわれるように江戸へ向かって京をたった旅人が最初に泊まる宿。

後ろに見えるのは琵琶湖ですね。
「田楽焼き豆腐」の「いせや」の大屋根が印象的です。

投稿者 みやこのお豊 : 2006年12月21日 22:34


投稿者 nishiot : 07:21 | カテゴリー : テーマ画廊 /テーマ篇 /東海道五十三次 | コメント (5)