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2006年12月17日

3005東海道五十三次---広重&文間延絵図(3) 浜松宿→水口宿

【第11日目】

31舞坂・今切真景(広重)

舞坂から荒井(あらい)へは、浜名湖を船でわたったと。

舞坂宿(分間延絵図)

江戸から67里30丁。新居(あらい)へ水上1里。

雨は夜分に上がり、朝から晴。五つ(午前8時)発ち。右手に広々とひろがる水面。京から遠い大湖なので遠江(とおとうみ)。 琵琶湖は京に近い大湖だから近江か。

 遠州・浜名橋(『東海道名所図会』)

 

 

 

 

 

 

 

 

 32荒井・渡舟ノ図 (広重)

乗合い賃は3文。荒井の岸は関所。女の手形と鉄砲が改められた。

新居(あらい)宿(分間延絵図)

江戸から68里30丁。白須賀へ26丁。

 

33白須賀・汐見坂図(広重)

汐見坂は、白須賀の手前にある。遠州灘が見渡せた。須賀は砂の意だから、宿場名は白砂の浜からきたか。

白須賀宿(分間延絵図)

 江戸から70里20丁。ニタ川へ1里半。

名物の柏餅を食しがてら、お茶休み。

 

34ニ川(ふたかわ)・猿ヶ馬場(広重)

なんと、ここでも柏餅の茶店。3人は贅女(ごぜ)。雪旦も江戸で多くの贅女を描いている。この女たちはどこか流れてきたか。

ニ川(ふたかわ)宿(分間延絵図)

 江戸から72里。吉田へ1里半。

九つ半(午後1時)、遅めの中飯は菜飯。

 

35吉田・豊川橋(広重)

いまの豊橋市。

吉田 豊川(『東海道名所図会) 鬼平熱愛倶楽部 2009 永代橋際蕎麦屋のおつゆ

 

吉田宿(分間延絵図)

江戸から73里半。御油へ2里半4丁。

 北斎『富嶽三拾六景』東海道吉田

宿場を出た「下地村」から豊川稲荷さんへ舟で30丁行く。お参りをすませて、御油へ。

豊川稲荷さんは仏教系だから、陀枳尼天(たきにてん)がご本尊。この仏さまは、人の心臓を食するのが趣味だったが、 お釈迦さまにたしなめられて、悪習をやめ、お稲荷さんになったと伝えられている。
で、お稲荷さんが狐像が片方は鍵をくわえ、片方が宝珠をもっているのは、鍵で女性の心を解き、どんと珠を打ち込むと、 やがて新しい生命が生まれる。その新鮮な心臓を食するのだと。

お稲荷(ほとけ)さんになっても心臓を食するというのが、どうも理屈にあわない。

大岡越前守忠相さんも、豊川稲荷さんを信仰していて、江戸の屋敷神として分祀していたのが、いま赤坂にある豊川稲荷さんと。

 

36御油・旅人留女(広重)

旅の楽しみの一つが、このモテぶりでもあろう、が、じつは、モテているのは、懐中の財布である。

御油宿(分間延絵図)

江戸から76里4丁。赤坂へ16丁。

宿場の規模は10丁。家数250戸ほど。できることなら、岡崎まで足をのばしたかったのだが。売女に引かれたわけではない。 豊川稲荷さんへ回ったために、旅籠〔ゑびすや〕安左衛門方にやっかいになることになった。広重1行は本陣〔林五郎太夫〕方。

 

 【第12日目】

きょう、最初の宿場は赤坂宿。

37赤坂・旅舎招婦ノ図(広重)

広重センセイとしても、画面に変化をつけないと。絵に誘われて旅を思い立つ好色の仁もいようし、版元の意思もあろうかと。

赤坂宿(分間延絵図)

江戸から76里20丁。藤川へ2里9丁。

延絵図のほうは味も色気もなし。ぼくたちも赤坂宿を通過したのは五つ半過ぎ(午前8時半前)だもの。

38藤川・ 棒鼻ノ図(広重)

広重センセイが随行している、例年8月朔日に幕府が朝廷に献上馬の一行。「控えろひかえろ、御馬が通る」で土下座。

藤川宿(分間延絵図)

江戸から78里29丁。岡崎へ1里半。

お茶休み。

39岡崎宿・矢矧(やはぎ) 之橋(広重)

岡崎宿(分間延絵図)

江戸から80里11丁。池鯉鮒へ3里30丁。京へ45里9丁。

岡崎27曲がりといわれるほど道がまがっているのは、太閤の臣・吉田吉政の防戦上の工夫と。

 岡崎城天守閣の朝焼け 撮影ちゅうすけ

家康公の生地であり、徳川家の菩提寺、城下の北・鴨田の大樹寺へ参詣などしていたら、旅立ちが八つ半(午後3時)になってしまった。

 大樹寺楼門゛撮影ちゅうすけ

「鴨田」といえば、『鬼平犯科帳』の[2-6 お雪の乳房]でお雪の母親とその弟〔鴨田(かもた) 〕の善吉はここの出生。

秋の落陽は早いから、池鯉鮒宿には六つ(この季節だと午後5時半ごろ)には着けそうもない。提灯の用意をしておいたほうがよさそうだ。

 

40池鯉鮒・首夏馬市(広重)

馬市は、宿場の東の野で毎年開かれ、4月25日にはじまって5月5日におわる。広重は、馬のいない野原を見て、 想像で馬をつないだのだろう。

池鯉鮒之駅 馬市(『東海道名所図会』) 鬼平熱愛倶楽部 2013 白浜智子

宿場の東の入り口の知立(ちりゅう)神社の御手洗(みたらい)池に多くの鯉や鮒が泳いでいるための地名と聞いていたが、 宿場へたどり着く前に日暮れてしまったので、魚鱗は見ずにしまった。水は見ず---下手なシャレ。

池鯉鮒宿(分間延絵図)

江戸から84里5丁。鳴海へ2里30丁。

地図の中ほどで東海道が手北へ折れ、さらに折れて西行する曲がり目を、そのま西北西に直進すると、池鯉鮒明神(知立神社)へ達する。 ぼくたちは、街道ぞいの〔山吹屋〕新右衛門方に草鞋を脱ぐ。

  北斎『富嶽三拾六景』尾州不二見原

 

  【第13日目】

41鳴海・名物有松絞(広重)

尾張藩の保護を受けた手前の有松村は絞の生産、鳴海宿は独占販売で、名産の名を高めた。暖簾に「竹内」と読めるが、「竹や」 がモデルだろうか。

鳴海宿(分間延絵図)

江戸から87里。宮へ1里半。

『鬼平犯科帳』[3-3 艶婦の毒]に登場する女盗・おたか(またの名は お豊) は、5,6歳のとき、浪人だった父親に尾張・鳴海の宿外れで捨てられた、とある。朝になってみると、父親が消えていた。 泣いてるお豊を引き取ったのは、浜松のに住む盗賊夫婦〔虫栗(むしくり)〕の権十郎だった、というから、東の宿はずれでのこととみたい。

「有松村」と、東(手前)の「落合村〕との間の南、桶狭間に今川義元の墓。長谷川平蔵の祖先は、 義元とともに打たれた田中城主の後詰めとして焼津から田中城へ入ったことは、「藤枝宿」の項で述べた。

 

42宮・熱田神事(広重)


熱田宮の略訓。祭祀神:天照大神、素盞烏尊(すさのおのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、宮簀媛命(みやずひめのみこと) 、建稲種命(たていなたねのみこと)。

宮宿(分間延絵図)

江戸から66里20丁。桑名へ船渡し7里。

熱田神宮へ参拝したのち、昼飯持参へ渡しへ乗船。海上はしごくおだやかで助かった。船には弱い。

阿波手杜(あわでのもり)の孟宗 熱田(『東海道名所図会』) 塗り絵師:豊麻呂 鬼平熱愛倶楽部

 

43桑名・七里渡口(広重)

 

桑名宿(分間延絵図)

 江戸から96里。四日市へ3里8丁。

桑名は伊勢国。順風を帆いっぱいにはらんだ船の足は速かった。7里の海上を2刻(4時間)ちょっとで渡った。船賃は54文。 むしろ1枚は338文。桑名の旅籠は京町の〔江戸屋〕伝兵衛方。ミス・マッチな町名と屋号。

桑名 白魚漁(『東海道名所図会』) 鬼平熱愛倶楽部 2023 永田定司

 

『鬼平犯科帳』[3-4 兇剣]で、〔白子屋(しらこや)〕菊右衛門は、〔牛滝(うしたき)〕の紋次の400両は受けとっておいて、 紋次の始末を右腕の〔桑名(くわな) 〕の新兵衛へいいつけた。〔白子屋〕は四日市の産なので、伊勢者同士の首領とその右腕。

中洲のような長島は、[7-7 盗賊婚礼]で、自分のお頭ながら悪どすぎる2代目〔鳴海(なるみ)〕の繁蔵を刺した〔長嶋 (ながしま) 〕の久五郎の出身地。つい最近、桑名市に合併。

 

【第14日目】 

44四日市・三重川(広重)

これも、宿場の家並を避けている。別名「三滝川」は、いまは町中を流れている。突風が名物とは聞いていないが、 たまたま広重センセイが目にした情景なんだろう。三滝川かぜそそぐ那古浦の蜃気楼は知られている。

四日市宿(分間延絵図)

江戸へ99里8丁。石薬師へ2里27丁。

早めの中食をすます。

采女村(分間延絵図)

宿場ではないが、ここらあたりから、東海道3大難所の1---鈴鹿峠への助走ともいえるゆるやかな坂道がはじまるので、 自分への警告として掲げた。

 

45石薬師・石薬師寺(広重)

万治版案内記に「町はずれ、坂の下に薬師ふり」と書かれていると、岸井良衛さん『五街道細見』(青蛙房)が紹介。 左手の茶色の屋根がそうか。

石薬師宿(分間延絵図)

江戸から101里35丁。庄野へ27丁。

薬師さんへ参詣は、ちょっとした足休め。

 

47庄野・白雨(はくう)(広重)

さあ、来たッ! [霧と雪と雨の芸術家・広重]。この雨の降らせ方はみごと。

庄野宿(分間延絵図)

江戸から102里26丁。亀山へ2里。

 

48亀山・雪晴(広重)

お次は雪。

亀山宿(分間延絵図)

江戸から10426丁。関へ1里半。

6万石。亀山藩の城下町。地図とは直接にはかかわりはないが、『鬼平犯科帳』[14-5 五月闇]で、密偵・伊三次 (いさじ) が〔強矢(すねや) 〕の伊佐蔵に刺され、江戸のここの藩邸の前。治療の部屋も貸してくれた。

 

48関・本陣早立(広重)

 広重センセイの宿は本陣。いよいよ鈴鹿越えだ。

関宿(分間延絵図)

江戸から106里2丁。坂の下へ1里半。

3方の山が高いから、落日も早く、旅籠〔玉屋〕利右衛門方で草鞋を脱いだときには、夜のとばりが降りかけていた。 明日は歌にも唱われている関の宿場をゆっくり見物していこう。

[6-2 猫じゃらしの女]で、密偵・伊三次(あさくま) はこの宿場で捨て子され、女郎宿でそだったことを告白。

 関町

 

【第15日目】 

朝、関宿・旅籠〔玉屋〕利右衛門方から南をみやる。

鈴鹿山塊に霞がかかっている。「♪坂は照る照る、鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」 思わず口をついてでる。宿の女中が「剣岳です」 と教えてくれた。

早めに朝飯を終え、宿を発つ。関地蔵堂に参詣して市の瀬村へ。いよいよ、鈴鹿越え。箱根も薩埵峠も宇津谷も難なく来たのだから、 鈴鹿も大丈夫、と自分にいいきかす。

関 地蔵堂(『東海道名所図会』) 鬼平熱愛倶楽部 2019 みやこのお豊

市之瀬村(分間延絵図)

鈴鹿峠の1丁目か。

49阪之下・筆捨山(広重)

岩肌の荒々しさは、広重にも異様に映ったらしい。鈴鹿3丁目。いよいよ、山道。8丁27曲がり。

坂ノ下宿(分間延絵図)

江戸から107里半2丁。土山へ2里半。

この先は鈴鹿村。そういえば、〔鈴鹿(すずか) 〕の又兵衛、別称〔川獺(かわうそ)〕とあだ名にされていた首領が[2-6 お雪の乳房]に出てきたなあ。もうひとり、 大坂で三代つづいていながら、悪相の〔鈴鹿(すずか) 〕の弥平次---「 [5-1 深川・千鳥橋]に顔を見せたこいつなんか{〔鈴鹿〕の面よごしってものよ」と口をついてでたのも、 坂が苦しくって。

猪鼻(いのはな)(分間延絵図)

下り入って最初の村。名前がふるっている。名物の草餅が昼飯がわり。がくがくの脚を休める。

 

50土山・春之雨(広重)


 「♪坂は照る照る、鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」を絵に描いた。土山の東、田村神社の近く

土山宿(分間延絵図)

江戸から110里2丁。水口へ2里半11丁。

関宿で飛脚たちに「うどん蕎麦切が絶品」とすすめられた。「道中2番」とも。1番は聞きそんじたが。「

『鬼平犯科帳』には、魅力的な女賊(おんなぞく)が数多く登場しているが、[5-3 女族]で初めて(おんなぞく) といういい方が使われた。それまでは女盗(にょとう)。その[女賊]篇の〔猿塚(さるづか) 〕のお千代に息子をたぶらかされてやきもきするのが、かつては名盗だった〔瀬音(せのと) 〕の小兵衛。この宿から近いところに「瀬音(せおと)」がある。ただ、「一の瀬村」と「音羽野村」が合併してできた地名。

 

51水口宿・名物干瓢(かんぴょう) (広重)

水口宿(分間延絵図)

江戸から112里32丁。石部へ3里12丁。

はやばやと旅籠〔富屋〕源兵衛方へ投宿。

土山資料館

 

 

 

(明日、ファイルを変えて、ね

 

 

 

投稿者 nishiot : 2006年12月17日 10:41

コメント

「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」

と言いますが、雨の土山を出かけて、峠ではそれがやみ、
坂下ではピーカンとはいかなかったが、それに近かった
経験があります。

投稿者 matsan : 2007年08月03日 22:55


13日目に出てくる鳴海には、今から20数年前に、仕事で何度も行っていました。古い町並みが残っていて歴史を感じさせるものがあったのですが、東海道だった訳ですね。お陰様で懐かしい風景に出会えることが出来ました。

投稿者 鬼平熱愛むらい : 2006年12月24日 20:13


50番「土山宿」
西に向かう旅人が鈴鹿峠を越えて最初に入る宿場です。ここは忍者の町「甲賀市」なんです。

馬子詩に歌われているように雨のおおいところ。雨の降り続く木立の中を合羽の行列がぬれながら黙々と歩く様子が覗えます。

あまり暗さを感じないのは合羽の色使いのせいでしょう。

京まで後5宿。到着はまじかですね。

投稿者 みやこのお豊 : 2006年12月20日 17:29


48番「関」宿。
古代から「日本三大関」の「鈴鹿の関」の置かれたところ、東のはずれに伊勢別街道、西には京へ続く大和別街道への分岐点追分があります。

参勤交代やお伊勢参りで大変賑わった交通の要衝でした。

現在は「関宿重要伝統的建造物群保存地区」に国指定され、わずか1、8kmの街道の両側には珍しい看板や屋根の彫刻が保存されています。

広重の絵を良く見ると、画面奧の男が持っている提灯にはやはり広重のトレードマーク「ヒロ菱」が描かれています。

「江戸名所図会」の雪旦同様、絵のどこかに作者を隠しているのですね。

他にも幔幕の下に白粉の「仙女香」や白髪染めの「美玄香」と書かれた札がみえます。

ここは本陣じゃないのでしょうか、こんな宣伝札が掛かっているけど。

投稿者 みやこのお豊 : 2006年12月20日 17:15


46番「庄野」宿。「白雨」と副題がついてます、夏の季語だから夕立でしょうか。

激しい雨に抗して、鍬を担いで坂道を下る農民、登坂を息を切らしながら急ぐ駕籠かき、

急ぐ足音、激しい雨音、その躍動感リズミカルに伝わってくるようで、大好きな絵の1つです。

投稿者 みやこのお豊 : 2006年12月19日 21:47


宮から桑名宿までは船で七里、3~4時間、潮や風によっては何倍も掛かり、船に弱い人には辛い船旅ですね、

水際に桑名城が見えてほっとした事でしょう。

投稿者 みやこのお豊 : 2006年12月19日 21:31


41番目「鳴海宿」の絵に選んだ場所は「池鯉鮒」と「鳴海」の合いの宿、「有松」。ここは深い藍色の木綿の絞りで有名です。

総瓦葺屋根,連子格子の窓、なまこ壁の大店は有松絞りの考案者竹田庄九郎のお店ですか。

この店の藍の暖簾には、広重のマークの「ヒロ菱」が染め抜きになっていますね。

投稿者 みやこのお豊 : 2006年12月19日 21:23


12日目「赤坂宿」
大変興味深い当時の旅籠の様子を表した絵だと思います。

寝そべったり、煙草をふかしたり、手ぬぐいを肩に掛けたお風呂上りだの、
旅のほっとした休息の情景が描かれています。

又煙草盆、鏡台、角行灯、蜀台,お膳,提灯、など旅籠の調度。

当時の旅籠の様子が窺い知れます。

庭の植栽がソテツというのも印象的です。

投稿者 みやこのお豊 : 2006年12月18日 23:48


11日目36番「御油宿」
夕闇迫る頃ようやく宿にたどり着いた旅人を夫々の旅籠の留め女たちが取り合っている風景、滑稽です。
広重もこんな絵も描くのですね。

右の旅籠の中にとても面白い物をみつけました。
「彫工治朗兵エ、摺師平兵衛、一立斉図、という札が下がり、一際大きく丸の中に竹之内版とかいてあります。


投稿者 みやこのお豊 : 2006年12月18日 23:22


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投稿者 nishiot : 10:41 | カテゴリー : テーマ画廊 /テーマ篇 /東海道五十三次 | コメント (9)