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2006年12月13日

3004東海道五十三次---広重&分間延絵図(2) 江尻宿→浜松宿

【第6日目】

清水港の本陣〔寺尾与右衛門〕方を五つ前(午前8時前)に発ち、海岸づたいの久能道を2里(約8km)西へ。

久能山・東照大権現宮(分間延絵図)

神社である。家康は、元和2年(1616)4月17日薨ずる前、本多正純と政僧・崇伝、同じく政僧・天海を枕頭に呼び、 葬儀について指示したという。この遺言にしたがい、吉田家の唯一神道によって久能山へ祀られた。

藤野 保さん『徳川幕閣』(中公新書 1965.12.15)は、葬儀後、天海が異議をとなえ、「天台宗にみられる山王権現のように、 両部(神道・仏法)習合の方法で神に祭れ、と遺言された」と。  神号をめぐっても、大明神説の金地院崇伝と論争し、天海の「かの豊国明神のさまをみられよ」のきめで、大権現説が採られ、翌年、 日光山に改葬された。

将軍家の日光参詣は、ものすごい人数の行列となり、費用も20万両を越えたという。従う大名たちの失費もたいへんだったろう。 天海の意図は、大藩に失費を強いて経済力を弱めるところにあったのかもしれない---と推量しつつ、5,6丁もつづく石の雁木坂をのぼった。

 【つぶやき】

銀座の和装小物店〔くのや〕は、この久能村の出とか。

府中(分間延絵図)

江戸から44里26丁。鞠子へ1里半。 京へ80里半。

府中へ入ったのは九つ半過ぎ(午後1時過ぎ)。上魚屋町で昼飯。食後、市中を見物。

20府中・安部川(広重)

(つぶやき) 池波さん初の博徒もの短篇[さいころ蟲] (1960に登場する〔手越(てごし)〕の平八の出生地である、 安部川河口の右岸・手越を探索した帰り、真っ白い雪を全山にまとった富士を真正面に見ながら、駿河大橋を10分かけて歩いて渡ったなあ。 風が冷たかった。〔手越〕の平八は、http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2004/12/post_8.html 

安部川(『東海道名所図会) 塗り絵師:茶木登茂一(鬼平熱愛倶楽部)

 

21丸子?名物茶店(広重)

「名物とろろ汁」の看板につられ、旅籠で早ばやと酒を喫してのち、暗くなる前に試食に訪れた。

丸(鞠)子宿(分間延絵図)

江戸から46里8丁。岡部へ2里。川は丸子川。

旅籠〔米屋市郎兵衛〕方へ宿泊し、明朝の宇津谷峠越えにそなえる。

 

【第7日目】 

22岡部・宇津之山(広重)

丸子側の十団子(とおだんご)を商う店がならぶ二軒茶屋から、峠をくだっての岡部橋まで、ほとんど1里。『東海道名所図会』 の表現にしたがえば、「肱(ひじ)を背に負い、面(おもて)を胸にいだきて漸(ようや)くのぼ」る。

 東海道3大難所の一つだが、箱根越え、鈴鹿越えにならべると、まだやさしいほう。

(つぶやき)いまは宇津の谷(や) トンネルを車で抜けられる。ある意味では味気ない。

宇津谷峠(分間延絵図)

露しげき蔦(つた)のしげみを分け越えて岡邊にかかるうつの山道  法印定円

宇津谷峠(東海道名所図会) 彩色ちゅうすけ

 

岡部宿(分間延絵図)

江戸から47里。岡部からは藤枝へ1里29丁。

 

岡部宿街道筋図 赤○本陣〔内野九兵衛〕 青○旅籠〔柏屋〕(j町の保存施設) 黄○旅籠 〔井筒屋〕

 

岡部の旅籠〔井筒屋〕でお茶休み、ひと息入れる。 

『鬼平犯科帳』[3-2 盗法秘伝]で、鬼平が独りばたらきのひょうきん盗人〔伊砂(いすが) 〕の善八と出会うのは、山道を岡部側へかなり下ったところ。  

 岡部には〔瀬音(せのと) 〕の小兵衛([5-3 女賊])も隠遁していた。

岡部川の上流の村で生まれた凶賊が、〔羽佐間はざま〕の文蔵([4-2 五年目の客] )

 

23藤枝・人馬継立(広重)

 

この絵は藤枝ーなくても、駅停ごとにどこでも見られる景色。広重が、あえてこの宿場で人物たちの姿態を描いたのは、 風景に特徴を拾えなかったからか。『行書東海道五十三次』では、[瀬戸川歩行渡]に目をむけている。『鬼平犯科帳』[6-4 狐火] に登場する、〔瀬戸川(せとがわ) 〕の源七とっつぁんの命名の源だ。

藤沢の瀬戸染飯(『東海道名所図会』) 鬼平熱愛倶楽部 2021 靖酔

 

藤枝宿(分間延絵図)

江戸から50里。島田へ2里8丁。

左の流れはは瀬戸川。

藤枝宿の本通り・上伝馬(現・藤枝1丁目4)の神明宮境内前・銀杏の大樹下(赤○ 現存)の桶屋が藤枝梅安の誕生地。

 

 

 

 

 

 

神明宮

 

 

 

 

 

 

 

 

 

境内前庭、向かって左手に大銀杏が現存していたのには大感激。もっとも、『仕掛人・藤枝梅安』によると、大銀杏ではなく、大榎だが。

 

広重一行にことわって、ぼくたちは藤沢の南15丁ほどの田中城址の見学へ。桶狭間で今川義元が討たれたとき、田中城主もともに戦死。 焼津から長谷川紀伊守正長が田中城へ入った。ほどなく、南下する武田軍2万に襲われたが、脱出。浜松へ奔って徳川の下へ。三方ケ原で戦死。 遺児3人がそれぞれ長谷川家を立て、うち1家が平蔵宣以の祖。

田中の益津小学校の前庭の田中城の箱庭。

江戸から52里9丁。金谷へ1里。

島田宿(分間延絵図)

島田市教育委員会製作の東海道ぞいの家並み

広重一行は、本通(東海道)の北側・4丁目、御陣屋小路の本陣(左上)。ぼくたちは、本通から1筋南の旅籠〔紋十〕(赤○)。 それというのも、[1-3 血頭の丹兵衛]で、〔血頭(ちがしら) 〕を偽称して血なまぐさい所業をはたらく盗賊を追跡する〔小房(こぶさ) 〕の粂八が草鞋をぬいだのが〔紋十〕だから。

 

【第8日目】

大井川への道の右手、大井明神社へ参拝。

広い境内、由緒深そうな拝殿と施設。お賽銭をあげ、守護符をいただいて川越の無事、ち道中の安寧を祈願。

 

 

24島田・大井川駿岸(広重)

このところ、さすがの[霧と雪と雨の芸術家・広重]センセイの旅行きにもかかわらず、晴日つづき。大井川の渡りは五つ半(午前9時)。 水位も腰あたりで48文。乳下水だと70文ほど、乳上水で80文は払わされるところ。

大井川(分間延絵図)

『東海道名所図会』 大井川 彩色ちゅうすけ

金谷(遠江国)側からの渡り。『東海道名所図会』は、京かせ江戸へ下る記述になっている。

25金谷・大井川遠岸(広重)

金谷宿(分間延絵図)

江戸から53里9丁。新坂(にっさか)へ2里。

『鬼平犯科帳』[9-3 泥亀]に、中風で倒れ、配下に裏切られる〔牛尾(うしお) 〕の太兵衛という首領が描かれている。「牛尾」は牛の尻尾ではなく、「潮」から転じたものと。金谷宿の北に、閉じ込められ海水(潮) が温泉となって湧いているので地名となったと。

 北斎『富嶽三拾六景』東海道金谷ノ不二

 

26日坂・佐夜(さよ)の山中

西の麓を新坂(にっさか)というと。道の石には「南無阿弥陀仏」と刻まれている。

まちあかすさ夜(よ)の中山なかなかに一声つらき時鳥(ほととぎす)かな 前中納言定家

日坂宿(分間延絵図)

江戸から55里2丁。掛川へ1里20丁。

休み所〔川さかや〕で昼をしたため、名物のわらび餅を味わう。

 

27掛川・秋葉山遠望(広重)

秋葉大権現には、岸井左馬之助も詣で、袋井側へ下りている。ぼくたちは袋井側から行こう。

掛川宿(分間延絵図)

江戸から56里20丁。袋井へ2里16丁。

さすがに太田攝津守(5万3000石余)の城下町。天守閣がどこからでも望める。

ここから外れると森村。例の〔森〕の石松さんの出所。

 

28袋井・出茶屋ノ図(広重)

広重センセイのいつもの手---はぐらかし。宿場のたたずまいが見たいのに。

袋井宿(分間延絵図)

江戸から59里12丁。見附へ1里半。

 

見附宿(分間延絵図)

江戸から60里半11丁。浜松へ4里4丁。京へ64里半9丁。京から旅人はこの宿で初めて富士を見つけた。

江戸と京の中間---見附の先の天竜川を、明日渡る。ぼくたちは旅籠〔大つかや源八〕方を明朝発って秋葉山へ。秋葉のリポートは、 http://homepage1.nifty.com/shimizumon/board/index3.html の6月3日の項。

  秋葉への道(『東海道名所図会)

塗り絵師: 豊 麻呂

 

【第9日目】

29見附・天竜川図(広重)

広重1行は、小天竜、大天竜川を渡舟。渡し賃は、武家は無料。庶民は6文。幕府の1行はもちろん払う必要がないばかりか、 特別仕立ての舟。

  天竜川(延絵図)

天竜川故事(『東海道名所図会)

新田義貞が敗れて京へ敗走するとき、筏を浮かべて天竜川を渡りかけたが、誰が計ったか、 あとすこしのところで踏み板を結ぶ綱が切られた。

船田入道はあわてず騒がず、鎧をまとった新田義貞の躰を軽々と小脇にかかえて、筏から筏へ飛び移って向こう岸へ。

その剛力ぶりに、味方も敵方もやんやの喝采。

このことは、天竜川の歴史とともに、いまに生き生きと語りつたえられている。

 天竜川の1里半ほどの上流に、「伊砂(いすが)」村がある。[3-2 盗法秘伝]で登場した一人ばたらきの盗人、〔伊砂 (いすが) 〕の善八の生まれた村である。家数20軒ばかり。いずれも貧しげ。

「伊砂村」の南に〔舟明(ふなぎら)村」が、[11-1 男色一本饂飩]にちらっと顔を見せる〔船明(ふなぎら) 〕の鳥八の故郷。村の西側にダムができている。

 

30浜松・冬枯ノ図(広重)

 

 右手かなたに浜松城。中央にでんと1本杉をすえたのはおみごとだが、たまには城下町を探索してみたくもなる。

浜松宿(分間延絵図)

 江戸から65里1丁。舞坂へ2里30丁。京へ60里19丁。

城下町の全長28丁余。家数3,000余軒。広重の1行は本陣〔梅屋}三郎左衛門方で、秋葉詣でのぼくたちを待っていてくれた。 もちろん、ぼくたちの旅籠は〔なべや〕正八。久しぶりの半日休み。

 

【第10日目】

昨夜来、やや強い雨足。合議の末、今日は朝から、宿で空模様をうかがうことにする。

昼まで待ったが、氷雨はあがらない。

 

 

このつづきは、 3005東海道五十三次 (3)

 

 

投稿者 nishiot : 2006年12月13日 07:13

投稿者 nishiot : 07:13 | カテゴリー : テーマ画廊 /テーマ篇 /東海道五十三次