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2006年12月08日

3003東海道五十三次---広重&分間延絵図(1) 日本橋→江尻宿

00日本橋・朝之景(広重)

天保3年(1832)8月。36歳だった広重は、 東海道へ上った。

幕府が例年おこなっている、朝廷への御馬献上の儀式を描くためであった。一行に従ったとされている。

ぼくたちも、広重を尾行することにしよう。日本橋から京までは、125里20丁。

1日の行程を8里として15日----雨による川止めもあろうから、ま、20日も見ておけば、月内には三条大橋を渡れようか。

いや、ぼくたちの宿は、その手前・白川橋に近い〔津国屋・長吉〕(『鬼平犯科帳』巻3[艶婦の毒])だった。

旅立ちは、お江戸日本橋を七つ(午前4時)。

 
北斎『富嶽三拾景』江戸日本橋

 途中、三田八幡宮参拝は、http://otonanonurie.image.coocan.jp/2006/02/0082.html

高輪大木戸での見送り感謝の宴は、http://otonanonurie.image.coocan.jp/2006/02/0089.html

 

01品川・ 日の出(広重)

 

品川宿(分間延絵図)

江戸から2里18丁。川崎へ2里。

道中奉行による『東海道分間延絵図』は、寛政 (1789~1801)中に制作され、文化4年(1807)の日付を入れて幕府へ献上されている。時の道中奉行は井上美濃守利恭、 前任者は石川左近将監忠房、水野若狭守忠通だが、この人たちのことはおいおいに話す。

とにかく、この絵図は、長谷川平蔵宣以が盗賊改メをしていた時期に制作された。もちろん、将軍用だから、平蔵は覗き見もしていない。
が、描かれた道を、歩いたことはたしか。小説では京へのぼっているのだから。

品川には、本陣・光田茂兵衛、休宿・村田伝右衛門もあるが、茶店でお茶を飲むだけにして、先へ。

左『江戸名所図会』の長谷川雪旦絵。彩色:ちゅうすけ。

 

 

 

 

 

 

お茶のあと、井関録之助にあやかって貴船明神社(現・荏原神社)へ参拝なさりたいときは、http://otonanonurie.image.coocan.jp/2006/02/0105.html

鬼平にならい天妙国寺への参詣は、http://otonanonurie.image.coocan.jp/2006/02/0108.html

6阿弥陀の品川寺の参詣は、http://otonanonurie.image.coocan.jp/2006/02/0109.html

 

02川崎・六郷渡舟(広重)


広重は、渡舟が川崎側へ着舟する寸前を描いて「川崎宿」としている。


長谷川雪旦は、鈴ヶ森の海岸などをあしらったあと、六郷側の舟着き側から川崎を望む。

 

川崎宿(分間延絵図)

江戸から4里半。神奈川宿へ2里半。

 川崎市川崎区役所の仲立ちで、旧東海道筋の印鑑店のシャッターに、この絵を描いてもらった。その印鑑店の裏が宗三寺なのである。

左:長谷川雪旦。彩色ちゅうすけ。

 

 

 

 

 

途中、スケッチをしながらの広重、雪旦の両絵師の足取りは遅く、川崎の〔万年や半七〕でやや早めの昼食をとることにしよう。雪旦絵 〔河崎万年屋 奈良茶飯]。彩色ちゅうすけ。

 

03神奈川・台之景(広重)

 左:長谷川雪旦絵[神奈川台] 彩色ちゅうすけ

キャプション

この地は、いづれも海岸に臨みて海亭をもうけ、往来の人の足を止(とど)む。この海辺を袖の浦と名づく。『平安記行』                  

あま小舟軒端によするここちしてながめえならぬかの川の里 持資

 

 

 

 

神奈川宿(分間延絵図)

江戸から7里。保土ヶ谷宿へ1里9丁。

上:長谷川雪旦絵[神奈川総図] 彩色ちゅうすけ。

 北斎『富嶽三拾六景』神奈川沖波裏

 

04保土ヶ谷・新町橋(広重)

 保土ヶ谷宿(分間延絵図)

江戸から8里。戸塚へ2里9丁。

 北斎『富嶽三拾六景』東海道保土ヶ谷

夕刻にはまだ間はあるけれど、初日のことではあるし、ここで泊まることに。宿場は10丁余(1km余)。

広重一行は、幕府の公用なので、格式の高い本陣・刈部清兵衛方に宿をとった。

こちらはそんな身分でもないので、質素な水屋与右衛門方に草鞋をぬぐ。宿泊料は夜朝食つき350文。酒別。風呂は五右衛門風。 足もはっていることだし、第1夜からひやかし流しというわけにもまいるまい。

【第2日目】

朝食:六つ半(7時)。出発:五つ前(8時前)。

 

 元町をすぎると、「境木(さかいぎ)。

 武蔵国と相模国の境界。

 長谷川雪旦絵。彩色ちゅうすけ。

 

 

 

 

 そして科濃(しなの)坂。権太坂ともいう。

 長谷川雪旦絵。 彩色ちゅうすけ。

 

 

 

 

 

05戸塚・元町別通り(広重)

旅籠〔こめや〕 広重は、大山講中などのずらりとならんだ木札に目をとめた。平成の旅行代理店ご指定の宿といったところか。

 

戸塚宿(分間延絵図)

江戸から10里半。藤沢へ1里30丁。京へ115里2丁。

「かげとり」をすぎ、長い遊行寺坂をくだると、藤沢宿。「影取」の千本松は『鬼平犯科帳』[5-4 おしゃべり源八] p152 新装p160に登場。[おしゃべり源八]といえば、遊行寺坂下あたりにあった茶店〔とみや〕 の名入り菅笠が事件解決に大きくかかわる。

06藤沢宿・遊行寺(広重)

境川。大鋸(おおぎり)橋(遊行寺橋とも)。奥は時宗本山・清浄光寺。 一般には遊行寺の名で知られている。

境内に『鬼平犯科帳』のころにもあった大銀杏樹。第15巻[雲竜剣]で鍵師・助治郎が詣でた。 ぼくたちも、参詣。 一遍上人の功徳を偲ぶ。

大鋸橋から南へ下っているのが江ノ島道、鳥居は、江ノ島弁財天の一の鳥居。

 

藤沢宿(分間延絵図)

江戸から12里12丁。平塚へ3里半。

[おしゃべり源八]では、鬼平はここの旅籠〔長尾屋利兵衛〕に宿泊。実在したのは〔長尾屋長右衛門〕。本陣は蒔田源左衛門 (絵図の左上、北側)。

もっとも、ぼくたちは、その前あたりの飯屋で早めの昼食。小田原までの8里をこなすつもり。

藤沢宿と平塚の中間あたり、茅ヶ崎村の西はずれ(左)に、「南江(なんこ)」の立場があり、その海側に、鍵師・助治郎と剣客医師・ 堀本伯道がつくっていた報謝宿の一つがあった。

 

07平塚・縄手道(広重)

正面は高麗(こま)山。橋が架かっているのは花水川。

「あ、広重さん、藤沢を出てすぐの車田でスケッチしてた飛脚を、こんなところで走らせてるぞ。空の駕籠屋には会ってないなァ。ま、 組み合わせの妙も芸術作品の一要素っていうから。」 

平塚宿(分間延絵図)

江戸から15里30丁。大磯へ27丁。

 

08大磯宿・虎ヶ雨(広重)

明治34年(1901)に「霧と雪と雨の芸術家」との称号を米国婦人メリー・マックネイルさんから捧げられた広重さんのこと、 どこで雨を降らせるかとひやひやしていたら、なんと、大磯宿のとっかかりで。 「心なき身にもあわれはしられけり鴫(しぎ) たつ澤の秋の夕ぐれ」(西行法師)の心情だったのかな。

いや、ぼくたちの往路では降らなかった。けれど、「梅沢」までの2里を馬の背に乗った。1人130文。〔梅沢」の茶店でお茶

大磯宿(分間延絵図)

江戸から16里20丁。小田原へ4里。家数250軒余。

大磯を出ると「小磯」「国府(こう)村」「国府新田」「梅沢」「押切」「町屋」「前川」「小八幡」 酒匂川 

鴫立沢(小磯村) 鴫立庵(画面中左) 『東海道名所図会』

秋暮鴫立沢 『東海道名所図会』 

心なき 身にもあわれはしられけり 鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕ぐれ 西行法師(新古今集)

 

09小田原・酒匂川(広重)

馬匂川(分間延絵図)

3月から9月までは歩渡し、10月より2月まで土橋かかる。(岸田良衛『五街道細見』青蛙房 1959.3.15)

小田原宿(分間延絵図)

江戸から20里20丁。箱根へ4里8丁。京へ105里。

さすが、11万3000石の城下町。広い! 城が大きい。にぎわっている。

広重の一行は「宮の前」の本陣〔保田利左衛門〕方へ。ぼくたちは同じ「宮の前」ながら『鬼平犯科帳』[7-1 雨乞い庄右衛門]で、 駿州・安部川源流の「梅ヶ島」の温泉湯治場から江戸へ向かう盗賊の首魁・庄右衛門が宿泊した〔伊豆屋又八〕を探した。本陣・ 脇本陣各4軒のほかに、街道に吸い寄せられたように95軒の旅籠が集まっている中、[伊豆屋]は「宮の前」の町名の起こり・松原明神社(現・ 松原神社)の大鳥居側への小路へ入ったところにあった。

『鬼平犯科帳』の〔雨乞い庄右衛門〕と、「梅ヶ島」温泉や松原神社は、http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2004/12/post_6.html

明日は箱根越え。雨でないことを祈りつつ、小田原名産の紫蘇(しそ)の葉巻き梅干をほどいて、湯上がりの足の三里に貼り、 しっかり休んでおかねば。

ういろう(『東海道名所図会』)  SBS学苑パルシェ [鬼平] クラス 松下 亨

 

【第3日目】

 朝食六つ(午前6時前)。名物のかまぼこが2切れ。出発:六つ半過ぎ(午前7時過ぎ)。

宿を出て10丁行ったか行かないかで、道はゆっくりと登り坂に。天下の険、箱根の前触れへさしかかったのだ。

左端の文字「湯元茶屋」 左から1/3「湯元村」 その右手の赤い屋根「北条五代古跡」と早雲寺。

 

いくら歩き馴れている江戸人といっても、この山道は、きつい! きつすぎる! 右手の急流は湯本川(早川とも)。

 

左端の村落:「畑宿村」。右端:「須雲川村」。川は須雲川。死ぬ思い---とは、このことなり!!

 

もう、2刻(4時間)も登りづめたはずなのに、箱根宿は、まだまだ、先なのだ!!

中央に聳えるのが二子山、向かい合っている手前にちらっと頂きを見せているのが屏風山。

おお、水の香りがしてきた。

10箱根・湖水図(広重)

「おお! 芦の湖」

 

11箱根宿(分間延絵図)

箱根駅 箱根湖水 『東海道名所図会』

江戸から24里28丁。三島へ3里28丁。

今朝は五つ半過ぎ(午前7時過ぎ)に「宮の前」の旅籠を発ったのに、箱根宿へ着いての茶店での昼飯は九つ半(午後1時)だった。

 北斎『富嶽三拾六景』箱根湖水 

ここからは下り。ふくらはぎのつっ張りに注意。景色は省略。

三島泊。広重たちは本陣・〔樋口伝左衛門〕方、ぼくたちは旅籠〔はたや伊兵衛〕方。こう、膝ががくがくでは、 三島女郎衆を冷やかすよりは、就寝々々。

三島 女郎衆(『東海道名所図会』) 鬼平熱愛倶楽部 2023 永田定司

 

【第4日目】

11三島・朝霧(広重)

もう、夜明け。広重一行は早発ち。広大な境内の三島大明神前。影迎松(ようごうまつ)も「霧と雪と雨の芸術家」広重流。

三島神社 『東海道名所図会』

ぼくたちは、箱根越えの疲労がとれず、五つ半(午前9時)発ち。

三島宿(分間延絵図)

江戸から28里20丁。沼津へ1里半。京へ97里。

画面の中央上が三島大明神。東海道に面した一の鳥居から旅の無事を祈願してすましたが、あとで考えたら、粗略すぎたかも。 帰路にはきたんとお札とお守にいただくことにしよう。なにせ、伊予の大三島・宮浦から三宅島、下田の加茂白浜へ、さらに現在地へと遷座され、 宿場の名も「三島」に変えてしまわれた大山祇(おおやまつみ)の神さまだから。

 

12沼津・黄昏図

ぼくたちがこのにぎやかな宿場を通り過ぎたのは、四つ(午前10時)で、陽は真上に近かったから、広重は帰路にスケッチしたのかもね。 猿田彦の面を背負っているのは金毘羅詣で。その前を行くのは母娘のお遍路さん。

沼津宿(分間延絵図)

江戸から30里20丁。原宿へ1里半。茶店でかるく昼食。鮮度のいい焼き魚。

道が鍵の手に折れているのは、防御上の配慮。

 

13 原宿・朝之富士(広重)

おかしいなあ。これだと、一行は、昨夜は沼津に宿泊したことになるなあ。どうも勘定があわない。そこが芸術家の気まぐれかなあ。 あるいは、帰路、ここに宿泊、霊峰をあれこれスケッチしていて、午後おそくに沼津へ向かったか。

原宿(分間延絵図)

江戸から31里20丁。吉原へ3里6丁。

中食はうなぎ飯。うなぎは4村西の「柏原」からきているそうな。晩秋のうなぎは、精がつきそうなほど脂がのっている。 だから江戸では11月の土用丑の日に庶民がうなぎを食する。それが維新後、いつのまにか、夏の土用にすりかわった。夏の土用だと、 うなぎだって夏痩せしているだろうに。

 15吉原・左富士 (広重)

 

田子浦(『東海道名所図会) SBS学苑パル(静岡)鬼平クラス 杉山三雄

 

富士川(『東海道名所図会) 鬼平熱愛倶楽部 2018 田無の弱法師

 

東海道を下っていて、左手に富士が望める2ヶ所のうちの一つ。

吉原宿(分間延絵図)

江戸から34里8丁。蒲原へ2里30丁。

宿泊は〔扇屋伝兵衛〕方。新鮮な魚料理に舌づつみ。

 

【第5日目】

吉原を五つ(午前8時)発ち。脚もだいぶんになじんできている。歩きはじめは重いが、歩いていうちに軽くなる。いよいよ、旅人資格。

16蒲原・夜之雪その1(広重)

その2

広重の京からの帰路は、新暦の12月か1月だったのであろうか。そういう下世話な見方は捨てて、「霧と雪と雨の芸術家」 の真骨頂を眼福とすべきか。墨板を変えただけで、印象がずいぶんと違ってくるものだ。それにしても、広重の人物の配置の妙。

薩?(さつた)山東麓茶店(『東海道名所図会』) 鬼平熱愛倶楽部 2013 白浜智子

蒲原宿(分間延絵図)

江戸から37里半。由井へ1里。京へ88里2丁。

広重が切り取った風景はどのあたり? なんだか、宿場の東の入り口の感じだ。

 17由比・薩?峠 (広重)

 

薩?(さつた)峠といえば、島田での捕物を成功させた同心・酒井祐助と〔小房(こぶさ)〕の粂八(34,5歳)が、 由比側へおりたふもとの茶店〔柏や〕でひと休みをしているところへ、京へ上る巨盗〔蓑火(みのひ)]〕の喜之助(67歳)がやってくる。

ビデオだと、〔小房〕のが蟹江敬三さん、〔蓑火〕は島田正吾丈、酒井同心の代わりに鬼平役の中村吉右衛門丈の顔合わせ。 鬼平の煙管から火を借りた〔蓑火〕がいう。「江戸には鬼のなんとやらいうご大層ななまえの男がいるか、本物の盗人はつかまるもんじゃあねえ。 そうでござんしょ、お武家さん」とやる。これには相方のお2人とも、んとも珍妙・絶妙な表情。

広重は、峠を上り、山鼻の手前からの絶景を描く。

ドナルド・キーン『明治天皇 一』(新潮文庫 2007.3.1)も、和宮ご降嫁の際、薩?(さつた)峠が「去った」に通じるので、 東海道が行路から外されたと書いている。

真相は、過激派に皇女奪回の気配があるというので、警備のために7,000人を超える行列となった。川渡しの多い東海道では、 川越え人夫の手配がつかなかったためではなかろうか。

由比宿(分間延絵図)

江戸から38里半。奥津(おきつ)へ2里12丁。

宿場は4丁余ときわめて短い。昼飯は、薩?(さつた)峠のふもと、〔小房〕の粂八たちが休んだ「西倉沢」まで辛抱。休みどころの 〔柏屋〕で一眺する富士嶽と三保の松原は、街道無双の絶景と。

また、すぐ前の海で海女たちが採ってきたさざえを、つぼ焼きにして出してくれるそうな。あわびも名物。 鮑(あわび)とる女房 (にょうぼ)を呼ばん春の海 九鯉

 

薩?(さつた)峠全景(分間延絵図)

右手は山、左手は袖師の浦で眺望はいい。

峠は、一番坂、ニ番坂、峰ヶ沢、二軒茶屋、山神平、牛房坂、葛篭坂---がつづらおりにつづく。

 

18奥津(おきつ)・ 興津川(おきつかわ)(広重)

広重が描くのは、薩?(さつた)峠をくだってすぐの興津川(おきつかわ)。渡っているのは関取衆。駕籠の底がぬけそう。

奥津宿(分間延絵図)

江戸から40里30丁。江尻へ1里3丁。

『東海道名所図会』はいねう。この道すじ、東海道第一の勝地なりと。

 北斎『富嶽三拾六景』凱風快晴

 北斎『富嶽三拾六景』凱風快晴 2

 北斎『富嶽三拾六景』山下白雨

 

19江尻・三保遠望(広重)

江尻も、南へおりた清水港の景。遠望の峯々は、あえぎあえぎ越えてきた薩?(さつた)峠か。

江尻宿・清水港(分間延江図)

草鞋を脱いだのは、絵図の下方に描かれている清水港の〔寺尾与右衛門〕方。というのも、明日は清水から西への脇道で久能山・ 東照大権現御宮に参詣するため。

三保松原 三穂神社(『東海道名所図会』) SBS学苑パルシェ [鬼平] クラス 松下 亨

 

つづく ↓3004東海道五十三次---広重&分間延絵図(2)

http://otonanonurie.image.coocan.jp/2006/12/3004.html

 

 

投稿者 nishiot : 2006年12月08日 07:42

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コメント

12月25日平塚宿と大磯宿へ行ってきました。
花水橋からみた高麗山は広重の絵と同じ形で大感激でした

広重の絵の頃は松の茂った山だったそうですがマツクイムシの害で松は全滅したそうです。
150メートルとはいえ登るのは大変でした。

大磯宿は広重の絵とは違い冬晴れの晴天でしたが箱根駅伝のTVでしかみたことのない松並木も広重の絵の松並木を重ね合わせることができました。


平塚宿の説明板の中に「東海道分間延絵図に・・」なんて文章を読んでこの絵図を知ってるなんて、私ってすっご~いと感激。同じ道を歩いていても知識のあるなしで楽しさが違うことを先生のお陰で実感させていただきました。

投稿者 亀戸のおK : 2006年12月25日 17:42


お江戸日本橋七つ立ち……

堪能させていただいています。

投稿者 おっぺ : 2006年12月23日 00:13


今夜の宿は清水港の江尻宿、草鞋をぬいだ「寺尾与右衛門」方は江尻の本陣で

建坪390坪という大きな家なので、ゆっくりと休めますね。

明日の寄り道、「久能山」が楽しみ。

投稿者 みやこのお豊 : 2006年12月12日 18:06


5日目 私の脚もやっと慣れて、早いみんなに追いつきました。

由比は江戸から16番目の宿場町、小さいけれど東海道随一の冨士の絶景が眺められる薩埵峠へ続く道です。

蒲原の雪の夜景は広重の東海道五十三次の中でも好きな絵です。
海沿いで実際には温暖な土地だから
広重の想像の世界ですね。

投稿者 みやこのお豊 : 2006年12月12日 08:29


日の出とともに日本橋を出発し,六郷川を渡り,今夜は保土ケ谷泊になりましたね。当時の旅はこんなにスピードだったのですか? 分延図もアップされているので,ゆっくり見物していると
置いていかれそうです。

投稿者 みやこのお豊 : 2006年12月09日 07:33


「東海道五十三次…広重&分間延絵図」の新メニューの登場、おめでとうございます。[東海道分間延絵図]はなんと読むんですか?江戸東京博物館で「ぶんけんのべえず」と教わりましたが…。平成の東海道と比較すると面白いと思います。川崎宿辺りの東海道はいまも曲がっているだろうか。それと要所要所、拡大して楽しめるとよいと愚考した次第。失礼しました。

投稿者 上尾宿のくまごろう : 2006年12月09日 05:36


>えむ さん

伊能忠敬は、さらに精密な地図をつくっていますね。
そういう技法が伝わっていたのかも。
古地図の専門家のご意見をきいてみたいところです。

投稿者 西尾忠久 : 2006年12月08日 16:31


広重さん健脚ですねえ。朝暗いうちに日本橋を出て、その日のうちに神奈川ですか。しかもところどころでスケッチもされて。ご苦労様でございます。お茶など召し上がれ。なんていうか、見晴るかして広い視野がうわっと広がると、「俯瞰の快感」がございますですね。21世紀の我々は高層建築から街を見下ろすので驚かなくなっていますが、当時の人にとってはいちいち高いところに登ったりしなければ見えないし、まして「間延絵図」はプロが推測して鳥瞰図に仕立てるというのは、将軍様の特権的快感だったかもしれないですねえ。勉強になります。ありがとうございます。

投稿者 えむ : 2006年12月08日 13:18


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投稿者 nishiot : 07:42 | カテゴリー : テーマ画廊 /テーマ篇 /東海道五十三次 | コメント (8) | トラックバック (0)