2003年 4月

――敬称略・逆日付順――



4月28日  23日〜21日  17日〜15日  10日〜8日

4月28日
2003年04月28日(月)  11:33

〔帯川〕の源助の、源助は……


発信:管理者の西尾

堀 眞治郎さん。

04月10日のコメントで、いまでは扇問屋〔平野屋〕の番頭だが、かつては〔帯川〕の源助の配下だった〔馬伏〕の茂兵衛の通り名の〔馬伏〕は、池波さんの忍者小説『忍びの風』に出てくる静岡県の高天神山城の近く……と指摘なさいました。
「馬伏」を見つけるべく、参謀本部の明治20年の地図で探していたら、いまは藤枝市へ編入されている「源助」なる地名が目に入りました。

拡大図をご覧になりたい方は上のボタンをクリックしてください。

池波さんは、武田勝頼方になってしまっていた高天神山城の、徳川家康の奪回ぶりの取材であのあたりを探訪しているとき、「源助」という風がわりな村名を記憶にとどめたのかも。
〔帯川〕はもちろん、01月10日の堀さんのリポートどおり長野県伊那郡阿南町の「帯川」でしょう。

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4月23日〜21日
2003年04月23日(水)  21:41

なるほど、『寛政譜』はおもしろい


発信:学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラス
   兎忠こと木村さん

姓が木村なもので、クラスの人から「兎忠」にされてしまっている木村です。
その〔鬼平〕クラスの先日のウォーキングは文庫巻8[あきらめきれずに]の舞台・府中でした。
そのとき、04月09日の西尾先生のリポートにあった、長谷川家の遠いとおい祖先として「寛政譜」に載っている、藤原秀郷の稲荷にお参りしましたが、あまりにも古い時代のことで、ピンときませんでした。
そのとき、私の母方の祖母は幕臣・高月家の出で、菩提寺は麻布の長谷寺、と先生に申しましたら、高月家の「寛政譜」と『江戸幕府 旗本人名事典』(原書房)の高月只之進則忠の項のコピーが送られてきました。
たしかに、私の先祖の高月家の間違いなさそう。
高月則忠の「鳥見役」というのは、気楽そうなお役目ですよね? で、「60石」とは、なんかトホホな貧乏侍だったような?
只之進のむすめに、「結婚、離婚、再婚、また捨てられて再婚」と3回も結婚した女性がいるのには、思わず、ムムッ、ご先祖も苦労しているみたい、と苦笑い!
「高月」は母方の祖母の姓ですが、高月只之進則忠の何分の1かの遺伝子を持っているかと思うと、なんかヘンな気分です。
それにしても、「寛政譜」がこんなに身近に迫ってくるとは……。
というわけで、弟たちにも見せたり、しばらく楽しめそうです。


管理者:西尾からのレス

やはり、高月只之進則忠ドノのご子孫でしたか。当たっていてよかったよかった。
「寛政譜」って、じっくり読むといろんな人生が感じられておもしろいですよね。
もっとも、兎忠さんの場合、高月只之進は養子ですから、遺伝子はそれほどつながっていないと思いますよ。再々婚の遺伝子なんて、気にしない気にしない。
それより、大奥にあがった女性が4人もいる家系であることのほうを自慢していいのでは……。で、将軍の手がついていれば、只之進ドノは「鳥見役」から一躍、書院番士へでも出世したでしょうかね。

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2003年04月22日(火)  12:49

池波先生は天竜市に宿泊したか?


発信:小金井市在住 貫井橋のケヤキさん

[わいわい〔伊砂〕の善八]の中身の濃いやりとりにつられて出てきました。
〔伊砂〕の善八の天竜市伊砂の生まれは、文庫巻2[盗法秘伝]を精読すると、確信的になりますね。
「見付」の造り酒屋〔升屋〕の若い男女を逃がすとき、
「秋葉山へ向って北へお行き、山のふもとの茶屋で<つたや>というのがある----」から、そこを頼って行けと教えたり、天竜川を越えて浜松へ近づくと、盗み金をしまうためにどこかへ行きます。
川ぞいの部落のどこかに、秘密の金庫があるのでしよう。隠し金庫を天竜川ぞいにおいているのも出身地に近いからですよね。
それはそれとして、池波先生が、あたりを取材された天竜市に宿泊記録は残っているのでしょうか?


管理者:西尾からのレス

[わいわい〔伊砂〕の善八]、お気に召しているようで、なによりです。
2003年02月09日のレスにも書きましたように、池波さんが武田軍団の行跡の取材のために天竜市へ行かれたのは、直木賞を受賞された翌年……1961年(昭和36)ごろと推察していますが、お尋ねの件は、先日の天竜行では調べがおよびませんでした。
昭和30年代に 3万4000人の人口をもって市制をしいた同市ですが、外材に押されて林業がふるわず、現在は 2万2000人に減ってしまっているそうです。
船明(ふなぎら)ダムの建設も終り、二股町の旅館も減って6軒だけですから、池波さんの宿をしたかをどうかお問い合わせになってみるのは簡単では?

・喜楽     天竜市二股町二股
・尾張屋旅館     二股町二股
・海老屋旅館     二股町二股
・三浦屋旅館     二股町二股
・ふかや       二股町二股
・はるな旅館     二股町二股

でも、旅の宿での池波さんは、作家と名乗らず、呉服商のふりをすることが多かったようですから、宿のほうで池波さんと気づいていたかどうか。
そうそう、〔伊砂〕の善八は「見付」では、西坂町の手前の〔なべ屋〕に鬼平と同宿しましたが、いまでは旧東海道筋には旅籠は目につきませんでしたよ。


二股城跡


二股城跡からの天竜川


飛竜橋からの天竜川


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2003年04月21日(月)  13:05

江戸屋猫八さんの彦十


発信:管理者の西尾

テレビでの〔相模無宿〕の彦十役は、
 
 河村憲一郎さん
 岡田映一さん
 植木 等さん
 西村 晃さん

そして

 江戸屋猫八師匠

と、5ベテランが演じていますが、なかでもはまり役は猫八師匠ですね。飄々としていてしかも相模人らしい抜け目のなさ……まさに至芸でした。亡くなる2年前に、鬼平を語るテレビ番組にご一緒し、放送後の打ち上げパーティで交換した名刺がこれです。




そのとき「彦十って、ほんとうにいた密偵ですかねえ?」と聞かれて面くらいました。
「当時の記録によると、長谷川平蔵は幕府が禁じている密偵を使って成績をあげたと非難されているから、彦十のように密偵もいたとおもいますよ」答えると、うなづいてからこんな打ち明け話を……。
「じつはね、さいきん、鬼平の文庫を全巻買って、読み終わったところなんです」
これには、あいた口がふさがらないというか、呆然としてしまいました。12年間も彦十をやっていて、原作を読まないであの演技をつづけていたとは……。名優なのか、地なのか。


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4月17日〜15日
2003年04月17日(木)  16:45

「今川家分限帳」は偽書!


発信:静岡大学
   
教授・小和田哲男教授

2月20日(木)の掲示板に紹介されていた『駿国雑記』の「今川家分限帳」は偽書です。
したがって、そこに、

千石 長谷川藤三郎

と出てきても、史料的な根拠はありません。


管理者:西尾からのレス

やはり偽書でしたか。素人研究者はつい信用しがちで、困ったものですね。それはそれとして、「今川家分限帳」は残っているのでしょうか?



2003年04月15日(火) 04:45

「伊砂」の語源


発信:管理者の西尾


天竜市役所の田辺総務課長さん……じゃ、なかった、この4月から教育委員会の次長にご栄転でしたね。
先日、天竜市を訪ねたときには宿をご紹介くださるなど、すっかりお世話になり、ありがとございました。おがげで、天竜川畔にそびえる二股城跡や鳥羽山城跡、船明(ふなぎら)地区や船明ダム、文庫巻3[盗法秘伝]の伊砂(いすが)の善八の通り名のもととなったとおもえる伊砂(いすか)地区も探索してきました。

ところで、司馬遼太郎さん[箱根の坂](講談社文庫)にこんな文章がありました。

 川は、土砂を流す。犬が尻尾をふるように、古代に河道があちこちに変ったために、このあたりには砂地が多い。砂地は水田にならない。そういう役立たずの砂地のことを、古代では、
「スカ」あるいは、スガといった。早雲の時代でも,なお使われている。それが地名になって、菅とか須賀といった漢字があてられている………。


天竜の「伊砂」はもと「伊須賀」の字をあてられたとも文献にありますが、「砂」という字のままになっている僅少の例でしょうか。それにしても、「伊砂(いすが)」と濁らせた池波さんの知識もたいしたものといえましょう。


鳥羽山城跡から見た天竜川

鳥羽山下からの天竜川


伊砂橋の銘板


伊砂橋と船明ダム


船明ダム


長養禅寺から見た船明の町


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4月10日〜8日
2003年04月10日(木) 04:30

長谷川家の系図、新発掘(3)


発信:管理者の西尾


2月12日の、〔鬼平〕熱愛倶楽部・生島さんへのレスに、『駿国雑記』巻38「長谷川次郎右衛門尉政平」の項を引用しました。

長谷川次郎右衛門尉政平は、止駄(しだ)郡小川村の人である。その前は大和国の長谷川より出、家は代々豊かであったので、村人からは小川長者と呼ばれていた。

司馬遼太郎さんの『箱根の坂』(講談社)を読み返していて、次の文章に行きあたりました。

『箱根の坂<上>』 『箱根の坂<中>』 『箱根の坂<下>』

(駿河きっての有徳人〔うとくじん 金持〕の)法栄(永とも)は駿河という田舎にいつも対明(みん)貿易に関与している商人で、京や堺はおろか、博多、明国にまで行ったという人物であった。(略)ところで、法栄どのは、駿府にはいない。その根拠地は、焼津(やいず)に近い志太郡(しだごおり)小川(こがわ)という海浜の村である。しかし今川館(やかた)に伺候するときのために、今川家から駿府に装束(しょうぞく)屋敷を拝領し、手代をひとり置いている。

どんな史料によって司馬さんがこれを書いたか、いまとなっては問いかけようもありませんが、長谷川家の祖先が、こんな形で記録されていることを知っただけでも平蔵ファンとしてはこころ強いかぎりです。

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2003年04月09日(水) 04:00

長谷川家の系図、新発掘(2)


発信:管理者の西尾


静岡市瀬名の中川家から出現した古文書――

大職冠大臣鎌足八代の孫
 鎮守府将軍藤原秀郷三代左馬亮五代孫、下川辺四郎政義次男、小川次郎左衛門尉政平、建久二年(注1191)右大将源頼朝公に奉仕、富士巻狩之節供仕候。長男大膳亮長教大和国長谷川村ニ住居、其後駿河国志田郡小川村ニ住居。夫ヨリ五代孫小川藤兵衛尉長重、明徳四年(1393)今川上総之介源義忠ニ仕、文明六年(1474)遠江国塩買坂ニ於而戦死、法名者弘徳院殿与号、駿州益津郡野秋村有之。

秀郷稲荷というのを、府中市の高安寺(片町 2-26)墓域内で見つけました。同寺は藤原秀郷の屋敷跡に建立されたのだそうです。

高安寺の楼門

秀郷稲荷


『今川氏家臣団の研究』(2001年 2月20日発行 清文堂出版)を著した静岡大教育学部長・小和田哲男さんは自著の中で、小川長重が仕えた今川義忠は、明徳4年(1293)にはまだ生まれていないから、享徳4年(1455)の誤記であろうとしています。また、小川長重が戦死した遠江の城飼郡塩買坂のそれは一揆鎮圧の出動でしたが、帰城途中にふたたび一揆が襲いかかられ、今川義忠は脇腹に深く刺さった流れ矢のためにしだいに衰弱、翌朝絶命しました。義忠の享年28歳(?)。義忠の享年が文明6年(1474)に28歳となると、小川長重が出仕した享徳4年(1455)時、彼はわずかに9歳だったのでしょうか。
『静岡県史 資料編6』収録の「今川家譜」では義忠の戦陣死を文明11年2月19日、享年53歳としています。研究課題の一つです。余談ですが、青年の今川義忠が北条義政の求めに応じ、手勢をひきいて京へのぼってき、今出川どの(北条義視)の館で伊勢新九郎と出会うのが、司馬遼太郎さんの『箱根の坂』(講談社)です。今川家と伊勢新九郎の深い関係は次回にでも……。

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2003年04月08日(火) 19:28

〔雨引〕観音について


発信:学習院・生涯学習センター〔鬼平〕クラス
   堀 眞治郎さん


文庫巻9[雨引の文五郎]の通り名の〔雨引〕につき、「雨引観音」を、古寺名刹大辞典(金岡秀友編)東京堂出版(昭和56年9月30日初版発行)で調査した結果を主体に報告いたします。
所在地は茨城県真壁郡大和村本木一。雨引山楽法寺といい、真言宗豊山派。坂東観音霊場第24番札所の名刹。用命天皇の頃、梁(中国)から法輪独守居士(楽法居士ともいう)が本尊を捧持して来日し、この地に一寺を開いたという。推古天皇の病気平癒祈願に効験があって勅願寺に定められ、また光明皇后の安産祈願にも修法が行われたことから、多くの信者が安産子育ての御守りを求めに訪れる。江戸時代には金運が授かるとされ、多くの江戸商人の信仰を集めた。これは明暦3年に紀伊国屋文左衛門が商売繁盛と海上安全を祈願したことに始まる。文左衛門の植えた松の木は宝生の松といわれて現存しているそうである。
本尊は延命観音菩薩像で国指定重要文化財である。雨引山の名の由来は諸説あるが、その一説に嵯峨天皇の頃に雨乞い祈願の秘法が修されて雨引山とされたということ。

 雨引観音ホームページ・http://www.amabiki.or.jp/


管理者:西尾からのレス

この上は、楽法寺の全景かご本尊の延命観音菩薩像の写真が添えられると完璧ですね。

 
わいわい談議(雨引き)の文五郎 ←ここをクリック



2003年04月08日(火  12:16

[馬伏]の茂兵衛について


発信:学習院・生涯学習センター〔鬼平〕クラス
   堀 眞治郎さん


3ヶ月前の1月10日、15日に文庫巻11[穴]に登場する〔帯川〕の源助の〔帯川〕は長野県下伊那郡阿南町であることを報告しましたが、源助に20年もついてきた、忘れてならない番頭の茂兵衛こと〔馬伏〕の茂兵衛については言及しませんでした。
というのも、〔馬伏〕のヒントになるものは『大日本地名辞書』では「馬伏塚」、郵便番号CDでは愛知県渥美郡渥美町馬伏、大阪府門真市上馬伏、下馬伏があり、〔帯川〕の源助らは「上方から中国すじにかけて、むかしは鳴らした・・・?」とあることから、大阪府門真市が有力かなと思いましたが、どうもしっくりこず、悶々としていましたが、やっとこれが氷解しました。池波さんの忍者もの『忍びの風』を読んでいると、徳川家康と武田勝頼の攻防の中で、

「徳川家康は去年の10月。浜松の本城を発して横須賀に〔本陣〕をかまえ、高天神のまわりに六つの砦を築き、兵力を集結して攻撃を仕かけた。そしてさらに馬伏塚まで進出し、ほとんど高天神城を包囲してしまい……」

と現在の静岡県小笠郡大須賀町、大東町、浅羽町にあった城の名前が書かれているではありませんか!。また『大日本地名辞書』で帯川を見出したきっかけになった「浪合」の村も武田勝頼軍の崩壊した夜に街道一里にわたって織田信長本軍の篝火にうめつくされていたと描写されています!というわけで〔馬伏〕の茂兵衛の〔馬伏〕は「馬伏塚」からとったと私は結論しました。〔帯川〕の源助と〔馬伏〕の茂兵衛の出会いは両者が京へ上る途中東海道のどこかの宿場だったと推測しています。

参考
『忍びの風』は静岡新聞ほかに昭和45年12月16日から昭和47年8月6日まで 590回にわたって連載。のち文春文庫で3冊。

『忍びの風<一>』 『忍びの風<二>』 『忍びの風<三>』

[穴]は昭和46年1月号の『オール讀物』に掲載。


管理者:西尾からのレス

お久しぶりの堀リポート、あいかわらず、みごとなものです。
『忍びの風』ですか――忍者ものは池波小説の原点のようにおもいついたので、読み返していたところですが、『忍びの風』までへはたどりついていませんでした。貴重なヒント、ありがとうございました。池波さんは『甲陽軍鑑』なども熟読玩味。そして、武田軍の動いた土地へも取材に行った……「高天神城」の攻防も、現地を訪れて高天神山の風、国安川の流れ、太平洋の波の色などを実感したのでしょうね。

高天神山周辺地図(明治22年 参謀本部 陸地測量部製)

拡大図をご覧になりたい方は上のボタンをクリックしてください。


それにしても、〔帯川〕の源助と〔馬伏〕の茂兵衛が京へ上る途中、東海道のどこかの宿で出会った……という堀説は、想像力をくすぐられます。

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2003年04月08日(火) 04:10

長谷川家の系図、新発掘(1)


発信:管理者の西尾


居眠りご隠居さん02月27日(木)のメールで、ご隠居は、文庫巻3の池波さんの「あとがき」をお引きになりました。

「平蔵の家は、平安時代の鎮守府将軍・藤原秀郷の流れをくんでいるとかで、のちに下河辺を名のり、次郎左衛門政宣の代になって、大和の国・長谷川に住し、これより長谷川姓を名のったそうな。のち、藤九郎正長の代になってから、駿河の国・田中に住むようになり、このとき、駿河の太守・今川義元につかえた。義元が織田信長の奇襲をうけ、桶狭間に戦死し今川家が没落してしまったので、長谷川正長は、徳川家康の家来となった」

そして、「『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』のために提出した先祖書がまるで出鱈目を書いて提出したとはとは考えられません」とおっしゃいました。きのう、静岡県立図書館で史料をさがしてて、おどろくべき史料を見つけました。
静岡大学の教育学部長・小和田哲男さんの著書『今川氏家臣団の研究』(2001年 2月20日発行 清文堂出版)がそれです。
小和田さんは『寛政譜』の、

「下河邉四郎別称(益戸)政義の二男小川次郎政平より三代次郎左衛門政宣」

につき、「今川氏重臣長谷川氏の系譜的考察」の章で、政義とその次男の政平の時代は鎌倉時代の人物だから、三代目の次郎左衛門政宣は鎌倉末期か南北朝初頭に生きていたことになる、と疑問を呈したあと、
「近年になって、静岡市瀬名の中川和男家から長谷川家にかかわる古文書が数点発見され、長谷川家の系譜について新しい事実が明らかになった」と、出現した「長谷川・中川家記録写」から、政平から政宣までの 200年間の空白を埋めています。
その詳細はあらために別の機会にご紹介するとしましてご隠居へのレスに、「『寛政譜』提出にあたり、藤原秀郷から小川次郎政平までを、いわゆる系図屋と称する者たちが無理やりつなぐ、例の系図買いの噂」と書いた全文を、いそぎ削除させていただきます。

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